第178話 開戦前
昨日の夕刻、敵軍が対岸に姿を現した。
それを受け、孫三郎は接敵した初日の夜、各所へ物見を放ち、念のため夜襲に備えて警戒を敷いた。
しかし夜が明け、次の朝を迎えても、敵が動く気配はなかった。
孫三郎は逆に不審を覚えた。夜明けとともに孫三郎軍も陣を整え、宇治川と木津川の合流点を望む川岸へ布陣する。
東の空から昇った朝日が川面を照らし、辺りは次第に明るさを増していく。敵陣のあちこちからは朝餉を炊く白い煙が立ち上り、風に乗ってゆっくりと流れていた。
敵陣もまた兵を並べていたが、太鼓が鳴ることも、法螺貝が響くこともない。ただ静かに対岸で隊伍を整えているだけだった。
その静けさとは裏腹に、敵陣では騎馬の伝令が絶えず行き交い、物見が各所を駆け回っていた。
孫三郎は腕を組み、その様子をじっと見つめた。もちろん好き勝手にはさせない。
川へ近づく敵兵には弓を射掛け、革製の投石具から石礫を浴びせる。敵も深入りはせず、ある程度様子を探ると、すぐに陣へ引き返していった。
その様子を眺めていた貴丸が、小さく頷く。それに孫三郎が目を向けた。
「貴丸殿、何か分かったのか?」
「うん。今日は敵は来ないかなぁ」
貴丸はそう言いながら、腰に差していた二本の細長い竹筒を取り出した。長さは二十寸ほど。一方は長く、もう一方は少し短い。
その一本を片目へ当てると、敵陣へ向けて静かに覗き込む。
「うん、間違いないね」
確信を深めたように呟く貴丸に、孫三郎も敵陣へ目を向けた。
確かに敵は何度も川岸へ兵を送り出しては引き返し、また別の場所を探っている。攻め込む構えというより、次の渡河に備え、川の深さや流れ、馬が渡れそうな場所を確かめているように見えた。
「地形を見ておるのか……」
孫三郎が呟くと、貴丸は竹筒から目を離さないまま頷いた。
「どこが浅いか、どこなら馬が渡れるか、どこへ兵を集めればいいか。それを調べてるだけだね」
その様子を見ていた孫三郎は、貴丸の手元へ目を向ける。
「貴…敦丸殿。その竹の筒で何をしておられるのだ? 遊んでおるようには見えぬが」
すると貴丸は、にやりと笑った。
「これ? 遠くを見やすくする道具だよ。孫三郎さんも覗いてみる?」
そう言って長い方の竹筒を差し出す。孫三郎は半信半疑で受け取り、片目へ当てた。
竹筒の内側は真っ黒に塗られており、先端には丸い穴が開いているだけだった。
「そのまま覗いてみてね」
言われるままに敵陣へ向けると、不思議なことに、先ほどよりも敵の姿が見やすい。
貴丸が説明する。
「周りの光を隠すと、見たいところだけがはっきり見えるんだよ」
孫三郎は思わず感心した。「なるほど……」
確かに余計な光が目へ入らず、敵の動きへ自然と意識が向く。単純な竹筒でしかないのに、思いのほか見やすかった。
すると今度は貴丸が、もう一本の少し短い竹筒を差し出した。
「今度はこっちね」
孫三郎が再び覗くと、内側は同じように黒く塗られているが、先端の穴はさらに小さい。
最初は見づらく感じたが、穴へ意識を合わせると、不思議と遠くの景色がくっきりと浮かび上がった。
敵兵の顔までとはいかない。それでも表情や仕草は先ほどよりずっと読み取りやすい。
岸辺で兵同士が指を差し合いながら話し、馬を歩かせ、川底を確かめている。誰一人、今にも攻め込もうという険しい顔ではない。孫三郎は静かに頷いた。
「……なるほど。確かに、今日は戦を始める者たちの顔ではない」
「でしょ?」貴丸は満足そうに笑う。
孫三郎は竹筒を見つめながら考えた。
(これも、貴丸殿が作らせた物か)皮屋で竹細工などの道具を頼んでいた姿を思い出す。
恐らく、その折についでに作らせたものなのだろう。ただの竹筒でしかない。それなのに、使ってみれば驚くほど役に立つ。
この童は、どうしてこう次々と思いつくのだろうか。
そう考えていると、目の前の貴丸が突然ぷっと吹き出した。
「ふへへへっ……」
「どうされた?」
孫三郎が首を傾げると、貴丸は笑いを堪えながら言う。
「孫三郎さん、目の周りに真っ黒な輪っかができてるよ」
思わず袖で目元を拭う孫三郎だったが、貴丸は笑いが止まらない。
不思議に思って貴丸の顔を見ると、貴丸も同じように片目の周りが真っ黒になっていた。
どうやら竹筒の内側へ塗った炭が、覗くたびに目の周りへ付いてしまうらしい。
そのことに気付いた孫三郎も思わず笑みを漏らした。
「た、敦丸殿こそ、同じではないか」
そう言うと、貴丸は笑いながら目元をこすった。
戦場とは思えぬ穏やかな笑い声が、束の間だけ川風に乗って流れていった。
午前も半ばを過ぎたが、敵はついに本格的な攻撃を仕掛けてくることはなかった。
貴丸はその様子を見届けると、小さく笑った。
「予想どおりだね。向こうは今日はまだ戦支度と情報集めだ。攻めるなら明日だね」
その一言に、孫三郎は思わず貴丸の横顔を見つめた。
十歳の童とは、とても思えない。孫三郎は改めて、目の前の小さな背中へ驚きの眼差しを向けた。
貴丸は小さく息を吐く。「これで明日の形が見えたね」
そして、その予想どおり、この日は双方とも決定的な動きを見せることなく、静かに日が暮れていくのだった。
そして夕刻。孫三郎の本陣では、翌日に備えた軍議が開かれていた。
昼間の敵の動きを振り返りながら、武将たちは朝の貴丸の言葉を思い返していた。
――「今日は敵は来ないよ」
その予想は見事に当たっていた。やがて、一人の武将が貴丸へ向き直る。
「貴……いや、敦丸殿」
武将は軽く頭を下げた。
「朝、『敵は今日は攻めてこない』と仰せでしたな。あれほどまでに言い切れたのは、なぜでござるか」
その問いに、居並ぶ武将たちの視線が一斉に貴丸へ集まる。
貴丸は竹の湯飲みを手に取り、一口茶を含むと、静かに口を開いた。
「今日の朝、敵陣から炊煙がいっぱい上がってたでしょ」
孫三郎も静かに頷く。確かに、対岸には何本もの炊煙が立ち上っていた。
「あれはね、兵にしっかり飯を食べさせてたんだ。戦がある日は、夜明け前から急いで飯を炊くよね。兵は暗いうちに食べ終えて、武具を整えて、日の出と同時に動けるよう準備する。でも今日は違った」
武将たちは黙って耳を傾ける。
「ここまで強行軍で来たんだから、兵は腹も減ってるし疲れてる。だから今日は、まず腹いっぱい食べさせて休ませる。それが向こうの一番の仕事だったんだと思う」
武将たちは思わず顔を見合わせた。そこまで考えた者はいなかった。
貴丸は穏やかな口調のまま続ける。
「普通、決戦の日に兵へ腹いっぱい食べさせたりはしないよ。お腹がいっぱいだと動きは少し鈍くなるからね。もちろん戦えなくなるわけじゃない。でも、そんな状態で夜襲なんてさせる理由はない」
誰も口を挟まない。貴丸は武将たちを見回した。
「それに夜襲って、出ていく兵だけが大変じゃないんだ。留守を守る兵も、出る兵の支度を手伝うし、陣中はずっと慌ただしい。『無事に戻るかな』『敵に見つかってないかな』って、みんな気になって眠れなくなる。結局、陣全体が休めないんだよ」
そう言って肩をすくめる。
「だから、兵を休ませる日に、そんなことはしない」
何人もの武将が静かに頷いた。
貴丸はさらに話を続ける。
「それに馬もそう。鞍を付けてない馬が多かった。戦うなら、とっくに鞍を置いて、いつでも乗れるようにしてるはずだよ」
武将たちは思い返す。確かに、馬の手入れをしている兵の姿が目立っていた。
「槍も同じ。朝からずっと立て掛けたままだったよね。戦うなら兵が持って整列してるはず。でも今日は、武器を持つ人より荷物を運ぶ人の方がずっと多かった」
孫三郎も静かに頷く。
「あれだけ荷駄が忙しく動いてたってことは、まだ荷物の整理が終わってなかったんだよ」
「なるほど……」誰かが思わず感嘆の声を漏らした。
貴丸はさらに指を一本立てる。その場の空気が引き締まる。
「だから今日は休養日。でも、休んでただけじゃない。動ける兵だけで、徹底的に情報を集めてたんだ」
貴丸は昼間の敵兵の様子を思い浮かべるように続けた。
「川の深さ。流れの速さ。馬が渡れる場所。うちの兵の数。陣形。将がどこにいるか。弓がどこまで届くか。見られるものは全部見てた」
昼間、何度も川辺へ現れては引き返していった敵兵の姿が、武将たちの脳裏によみがえった。
「あれは全部、そのためだったんだよ」
貴丸は静かに武将たちを見回した。
「つまり今日は、兵を休ませながら明日の戦の準備をしていたってこと。そして夕方までには、向こうはうちの戦力をだいたい掴んだはずだ」
一人の武将が息を呑む。「……では、明日は」
貴丸は迷うことなく頷いた。
「だから明日は、朝から一気に来る。向こうは五千、こっちは千。夜襲なんて危ない真似をする必要もない。集めた情報を頼りに、兵力差で正面から押し潰せると考えてるはずだからね」
「それに総大将は三好の嫡男なんだよね?」
貴丸は人差し指を立てた。
孫三郎が頷く。「そうだ。十七、八と聞いておるな」
「だったら、なおさらだよ。嫡男が総大将だからね。当然勝ちたい。しかも、誰が見ても文句のつけようがない勝ち方でね」
その場が静まり返る。
「次の三好を背負う人間なんだから、『さすが嫡男だ』って言われたいだろうし、自分でもそう思ってるはず。だから奇策より正攻法を選ぶ。真正面から叩き潰して勝ちたいんだよ」
貴丸は武将たちを見回した。
「それに、周りの家臣もそうさせる。次の当主に傷なんて付けたくないからね。危ない博打より、兵力差を生かした確実な戦いを勧めるはずだよ」
貴丸は少しだけ笑った。
「でもね、あの総大将、思ってたよりずっと出来る人だよ」
武将たちは意外そうに顔を見合わせた。
「昨日ここまで強行軍で来た兵を、ちゃんと休ませて、ご飯も食べさせた。兵への気遣いはちゃんと出来てる。普通なら焦って攻めたくなるところなのに、それを我慢できたんだからね」
貴丸はそこで少し肩をすくめた。
「ただ、本当なら、昨夜の夜襲か、今朝そのまま渡河を決断していれば、一番うちへ打撃を与えられたはずなんだ。うちだって準備が全部終わってたわけじゃないからね」
少し間を置いて続ける。
「そこは、まだ若いんだと思う。兵を大事にした。それ自体は立派だけど、勝つことだけを考えるなら、少し甘さが残ってるかな」
貴丸は敵陣の方へ目を向け、小さく笑った。
「でも、もう少し歳を重ねて、戦を覚えたら……たぶん手が付けられないくらい強い将になるよ」
幕内が静まり返る。
武将たちは敵将を評するその言葉よりも、それを平然と見抜いている十歳の童の方へ目を向けた。
(……化け物は、あの敵将ではなく、この童なのではないか)
誰も口にはしなかったが、その場にいた者の胸には、同じ思いが静かに浮かんでいた。
敵の動きだけではない。総大将の立場、その年齢、家臣たちの心理まで見越して戦を読んでいる。
そこまで考えていた者は、この場には一人もいなかった。
貴丸はふっと笑う。
「だから、今日のうちに準備を済ませようね。昨日から作ってる竹柵は、どれくらい揃った?」
それに携わっていた足軽大将がすぐに答える。
「予定していた分は、ほぼ組み上がっております」
貴丸は満足そうに頷いた。
「そっか。あと、お願いしてた物はどすか?」
「刺草、茨、菱の実、竹の削り屑、木の折り枝……持ってきた物以外にも、兵たちが周囲の村や河原を駆け回って集めました。思っていた以上の量が集まっております」
「うん、それなら十分だね。そういえば、印は付けてあるよね?」
「昨日のうちに、すべて済ませてございます」
敵からは見えぬよう、味方だけが分かる目印を付けてある。どこへ何を置くかも、すでに決められていた。
「じゃあ、あとの時間を全部使って仕上げをしよっか。日が傾いてから、みんなで決めておいた場所へ運んで置いてきてね。明るいうちだと敵の物見に見られるかもしれないからね」
孫三郎は静かに頷いた。
「承知した」
孫三郎の返答を聞いた貴丸は、満足そうに頷いた。
「兵のみんなには悪いけど、今日だけはもうひと頑張りしてもらおう。明日の戦が少しでも楽になるようにね」
その言葉を聞いた孫三郎は静かに立ち上がると、居並ぶ武将たちを見回した。
「聞いたとおりだ。各隊は持ち場へ戻れ。日暮れとともに作業を開始する。竹柵の設置、集めた品々の運搬、配置は事前の割り当てどおりだ。敵の物見に悟られることのないよう、細心の注意を払え」
「はっ!」
武将たちは一斉に頭を下げ、それぞれの持ち場へ散っていく。
静かだった陣内は再び慌ただしく動き始めた。兵たちは組み上げられた竹柵を運び出し、集められた物を籠へ詰めていく。
日が西へ傾き始めると、小隊ごとに分かれた兵たちは、敵の物見の目を避けながら、あらかじめ印を付けておいた場所へ向かった。
竹柵は印の位置に合わせ、一定の間隔を空けて据え付けられていく。
その周囲では兵たちが、昼のうちに集めておいた品々を、あらかじめ印の付けられた場所へ黙々と運び込んでいた。
貴丸は現場を歩き回り、ときおり指先で位置を示して細かな指示を飛ばす。
「そこはもう少し右」「そっちは薄く広げて」「足跡は消して帰ってね」
兵たちは小声で返事をすると、夜の帳に紛れるように作業を続けた。
やがて辺りが完全に暗くなる頃には、一見しただけでは、昼間と何も変わらぬ景色が静かに広がっていた
だが、その地面の下には、貴丸だけが思い描く「明日の戦」が静かに仕上がりつつあった。
やがてすべての作業を終えた兵たちが静かに陣へ戻ってきた。敵に気付かれた様子はなく、孫三郎は報告を受けると、小さく息を吐く。
「これで準備は整ったな」
貴丸も頷いた。
「うん。あとは明日、向こうが思ったとおりに動いてくれればいいんだけどね」
その穏やかな口調とは対照的に、武将たちの胸には緊張が募っていた。
翌朝には五千の軍勢が押し寄せる。迎え撃つこちらは千。普通に戦えば勝ち目などない。
それでも貴丸は少しも慌てる様子を見せず、その落ち着きがかえって周囲の者たちの心を静めていた。
やがて一人の武将が静かに口を開く。
「では……明日は、いよいよ決戦にございますな」
貴丸は首を横に振り、小さく笑った。
「でも何度も言ってるでしょ。勝つ必要はないんだ。負けずに耐えればいい。それの繰り返しで五日間。それだけで十分だよ」
その一言に、幕内は静まり返る。誰一人として言葉を発しなかった。
今日一日、貴丸は敵の動きを見ただけで終わらなかった。
兵の疲労、総大将の立場、家臣たちの心理、兵力差――。
一つひとつの事実を結び付け、まだ始まってもいない明日の戦を語ってみせた。そこにある事実は誰もが知っていた。だが、それらを一本の線で結び、戦全体の流れとして読み切った者は、この場には一人もいなかった。
孫三郎は黙って貴丸を見つめる。
(この童……)戦とは、兵を動かし、陣を敷き、敵を討つもの。
孫三郎は、それが戦のすべてだと信じて疑わなかった。
だが貴丸は違う。
兵が動く前に人の心を読み、敵将が何を考え、家臣が何を望み、次にどんな判断を下すのかを見抜き、その先に待つ戦の流れまで見通している。
孫三郎の背筋に、ぞくりと寒気が走った。
まだ十にも満たぬ童が、ここまで戦を読むとは。それは知恵や才覚という一言では到底言い表せない。
この日、孫三郎は、ただ黙って貴丸の小さな背中を見つめていた。
その背中は、十にも満たぬ童のものとは思えなかった。




