第175話 そして戦場へ01
そして翌早朝――。
貴丸たちは、孫三郎が差し向けた兵に案内され、武野信久の皮屋を後にした。
堺の町には、三好元長方の密偵や間者が紛れ込んでいる可能性もある。だから余計な注目を集めるわけにはいかなかった。
そのため、一行は馬こそ引いていたものの、誰一人として騎乗はせず、荷だけを馬に載せて一行は徒歩で街道を進む。数騎で駆ければ、それだけで人目を引く。
孫三郎も「目立つ振る舞いは避けよ」と、安全を最優先に命じていたのである。
朝靄の残る街道を歩きながら、泰能は絶えず周囲へ目を配っていた。
前を案内の兵が歩き、少し距離が空いたのを見計らうと、小声で三兵衛と貴丸へ語りかけた。
「これより一つだけ覚えておいてほしいことがあるのだ」
貴丸が見上げる。「何ぽ?」
「この戦では、私は今川家の朝比奈泰能ではない。ただ大和田家へ力を貸している客将。そのように振る舞う」
貴丸も三兵衛も同時に首を傾げた。
三兵衛が不思議そうな表情を浮かべる。
「今川のお名前を明かされぬのでございますか」
泰能は穏やかな口調のまま歩みを進めた。
「ああ。それが氏親様のお考えだからだ。氏親様は、京の政争へ深く関わることを好まれぬ」
少し空を見上げる。
「氏親様の祖父・今川範忠公は、将軍家を補佐する立場として京で政務に携わり、幕府の政争とも無縁ではなかった。また父君・義忠公も若き日には京との関わりを持っておられた。されど義忠公亡き後、氏親様はお考えを改められた。京で権勢を競うよりも、駿河と遠江を豊かに治めることこそ今川の進むべき道である、と」
三兵衛は静かに頷く。
「それゆえ、今川としては幕府や細川家の争いへ深入りはなさらぬ、と」
泰能も頷いた。
「左様だ。もちろん、高国様とも澄元様とも敵対するつもりはない。されど今川の名を前へ出せば、周囲は『今川が京へ介入した』と受け取るやもしれぬ。だから今回は、大和田家の客将・朝比奈泰能。それ以上でも、それ以下でもない」
貴丸は「ふーん」と短く相槌を打つと、あっさり頷いた。
「それでいいんでない? 話がややこしくならないしね」
その軽い返事に、泰能は思わず苦笑する。
「その通りだな」
三兵衛も頭を下げた。
「承知いたしました。この先、そのように心得ます」
それからしばらくは、街道を黙々と歩いた。
朝の空気はまだ涼しく、道も歩きやすい。とはいえ、堺から戦場までは決して近くない。
歩き始めてまだ半刻ほどだった。貴丸がふいに立ち止まり、大きく息を吐く。
「……疲れたぁ。もう無理ぽよ…」
その一言を聞いた瞬間、三兵衛は嫌な予感しかしなかった。
「貴丸様、まだ歩き始めて間もないではございませぬか。あきらめたらそこで終わりでございますよ」
「いや、もう駄目。歩けない。俺の足、さっき置いてきた。ってか…逃げてった…」
「……は?」
貴丸は真顔で自分の足元を見つめる。
「橋を渡る少し前かな。あそこら辺で『もう無理っす』って逃げてった。だから今の俺には足がない」
三兵衛は思わず額へ手を当てた。
「何を仰っているのでございますか。ちゃんと付いておりますよ。限界はあるものでなく、自分で決めるものでございますよ」
貴丸は深刻そうな顔で頷く。
「見た目はね。でも中身はもうない。たぶん歩き過ぎて、不治の病になったんだと思う」
「話が違ってきているではありませんか。歩き始めてまだ半刻も経っておりませぬ」
「病気って、突然なるものだからねぇ」
そう言うと、その場へしゃがみ込み、地面へ両手をついた。
「もう一歩も歩けない。だから今来た道を戻ろうよ。そうすれば逆戻しで、俺の体力も元に戻るかもしれないから」
「何です、その訳の分からぬ理屈は」
貴丸は至って真面目な顔で答える。
「理屈じゃない。経験則。俺は歩きたいんだよ。でも俺の足が『もう動きません』って労働争議を始めちゃったんだ。自分の意思だけじゃどうにもならないことってあるしょ?」
三兵衛は口を開きかけたが、反論する気力すら失せた。
横で聞いていた泰能も肩を震わせながら苦笑する。
「……その足とやらを説得することはできぬのか」
「さっきから頼んでるんだけどね。『もう有給です』って言って聞いてくれない」
「なんだ? さっきから”ろうどうなんちゃら”とか、”ゆうきゅう”とは…」
「じゃあ病欠かな……退職代行に頼まんと…どこの会社がいいじゃろか…」
貴丸は、その場ですっと立ち上がった。
周囲の空気がぴたりと止まる。幼い顔には、先ほどまでの柔らかな笑みはない。
すっと左目を見開き、左手を真っ直ぐ前へ突き出す。威厳を漂わせ、その小さな口がゆっくりと開いた。
「――怠けてよいのは――、怠ける覚悟のある奴だけだ!」
力強い声が響き渡る。泰能も、三兵衛も思わず顔を見合わせた。
貴丸は、その厳かな空気のまま、さらに左手を高々と掲げる。
「大和田貴丸が命じる――!」
一瞬の静寂。泰能と三兵衛が固唾を呑んで次の言葉を待った。
そして「抱っこしてぇー!」
時間が止まった。さっきまで漂っていた威厳は、木っ端みじんに吹き飛んだ。
泰能はゆっくりと三兵衛へ顔を向ける。三兵衛も、同じように泰能を見る。
二人は何も言わない。
ただ――「「はぁぁぁ……」」
まるで長年連れ添った夫婦のように、寸分違わぬ大きなため息が重なった。
「また始まったな……」「これだから貴丸様は……」
当の本人はというと、突き出した左手をぶんぶん振りながら、不満そうに頬を膨らませていた。
「ほら早くー。疲れたんだから抱っこー」
先ほどまでの威厳を漂わせていた童は、もうどこにもいなかった。
「……仕方ありませぬな」
結局、二人が代わる代わる貴丸を背負って歩くことになった。
幸い、二人とも日頃から鍛錬を積む武人である。
荷物の多くは馬へ載せ、街道が広いところでは貴丸自身も馬へ乗せながら進んだ。
それでも堺から宇治川・木津川合流点までの道のりは決して短くない。
何度か休憩を挟みながら進み続け、日が落ちた頃、ようやく目的地へ辿り着いた。
宇治川と木津川が合流する地点――(現在の京都府八幡市・背割堤付近である)
広い河原には、すでに細川高国勢の孫三郎の本陣が築かれていた。
白地に黒く二つ引両を染め抜いた旗指物が幾本も林立し、その間を武者たちが忙しなく行き交う。
孫三郎達の幕府方の軍勢が、この地へ集結していることが一目で分かる光景だった。
本陣の大幕へ案内されると、その中央には三淵孫三郎が座していた。
「よく参られたな」
穏やかな声で迎え入れると、孫三郎は居並ぶ武将たちへ視線を向ける。そして、貴丸へ手を差し向けた。
「紹介いたそう。この童こそ、此度の策を授けてくれた大和田貴丸殿じゃ」
一斉に視線が集まる。
当の貴丸は、そんな視線など気にも留めず、物珍しそうに陣幕の中を見回していた。
やがて何かに気付いたように「あっ」と小さく声を漏らす。
「そうだ! どもども、大和田貴丸こと、”大和田敦丸”でっす!」
貴丸は皆の方へ向き直ると、改めて軽く頭を下げた。
一同はきょとんとする。貴丸は構わず続けた。
「今日からは、ここでは俺のこと”敦丸”って呼んでくださいね。へへっ」
陣幕の中が静まり返る。
「…………」
武将たちは互いに顔を見合わせるばかりで、誰一人その意味が分からない。
その横で、泰能と三兵衛も思わず貴丸を見た。
(……また今度は何を言い出したのだ、この童は)そんな表情が、そのまま顔に浮かんでいる。
そのあまりにも気の抜けた挨拶に、陣中には何とも言えない沈黙が流れる。
孫三郎から事前に話は聞かされていたとはいえ、策を授けた人物が十歳ほどの童だとは誰も思っていなかったのである。
それどころか、その童は突然「今日から自分を敦丸と呼べ」と言い出したのだ。
武将たちは半信半疑のまま貴丸を見つめ、中には「本当にこの童なのか」と言いたげに眉をひそめる者もいた。
やがて陣幕のあちらこちらから、押し殺したような囁き声が漏れ始める。
「……こんな童の申す策で、本当に戦になるのか」「孫三郎様は、どうしてあのような童を……」「我らは、あの童の指図で動くということか」「兵を率いたこともない童に、戦が分かるのか」「千の命が懸かっておるのだぞ……」
不安と疑念を含んだ囁きは、さざ波のように陣幕の中へ広がっていく。
それも無理はない。戦場では、策を誤れば多くの命が失われるのだ。武将たちにとって、策とは命そのものであった。
その策を授ける者が、槍を持ったことすらあるのか疑わしい十歳の童だというのだから、容易に受け入れられるはずもなかった。
まぁ、他の武将の反応、当然でしょうね。。
安西先生と、剣心のような、あ、ブリタニア君も。。




