第174話 作戦03
三淵孫三郎は、細川和泉上守護家の一族に生まれた。
父は和泉国和泉郡松崎を本拠とする細川和泉上守護家七代当主の次男であったが、孫三郎は幼い頃に三淵晴恒の養子となり、三淵家を継いだ。
そのため、若くして細川京兆家に仕え、管領・細川高国の家臣として生きる道を歩むことになる。
やがて高国の命により若狭武田家との奏者を務めるようになり、その頃に知己を得たのが、若狭武田氏の一族であった武田信久である。武士として語り合い、酒を酌み交わすうち、二人は身分を越えた気の置けない友となっていった。
しかし、その頃の京は戦乱の渦中にあった。高国は細川澄元との争いに敗れて都を追われ、一時は伊勢へ落ち延びることとなる。孫三郎もまた主君に従い、苦難の日々を共にした。
やがて再起の機が訪れると、高国は仁木高長、伊丹元扶、内藤貞正らと呼応して再び京へ進軍した。孫三郎もその軍勢の一人として従軍し、澄元方との戦を転戦した。
将軍足利義澄を近江へ退け、池田貞正を滅ぼし、芥川信方を降伏を許すと称して誘い出し討つなど、数々の戦を経験している。
その後、大内義興とともに入京し、足利義稙が将軍へ復帰すると、高国は管領となった。しかし、それで乱世が終わることはなかった。
澄元はなお勢力を保ち、その重臣・三好之長はたびたび軍勢を率いて京都へ侵攻する。高国の家臣である孫三郎も、そのたびに槍を取り、馬へ乗り、先陣へ立たねばならなかった。気が付けば、戦、また戦という日々を送ることになっていた。
和歌や茶の湯を好み、連歌や蹴鞠にも親しむ。囲碁を打ち始めれば一日中盤に向かっていても苦にならず、料理や猿楽を楽しむことにも喜びを見いだす。
そうした文芸や風雅に囲まれて穏やかに暮らす方が、本来の性には合っていたのである。
しかし、主君に仕える武士である以上、自らの好みだけで生き方を選ぶことはできない。主が戦えば自らも戦い、先陣を命じられれば迷うことなく槍を執る。それが武士としての務めであり、孫三郎もまた、その覚悟を持って戦場へ立ち続けてきた。
だからこそ、貴丸の言葉は孫三郎の胸を強く打った。
これまで考えていたのは、いかに少人数で多数の敵を討ち破るかということばかりだった。しかし貴丸は違った。勝つことではなく、援軍が到着するまで守り抜き、一人でも多くの兵を生きて帰すことを目的とする。
その発想は、戦を重ねてきた孫三郎にとって、まさに目から鱗が落ちるようなものであった。
もし、その策で家臣や郎党たちの命を救えるのであれば――。
孫三郎は、十歳の童が示したその知恵に、自らの命を懸けてみようと静かに心を決めたのである。
それからの三日間、信久の皮屋は、信久も店の者もかつてないほど慌ただしい日々を迎えることになった。
孫三郎も、初日だけではあったが、その供の者たちも休む暇なく堺中を駆け回っていた。
豪商を訪ねて軍資金を借り受け、あるいは細川高国の名で後払いの証文を書き、戦支度に必要な物資を一つでも多く集める。その表情には切迫した色が浮かんでいた。
一方の信久も負けてはいない。貴丸から渡された品目を書き出した紙を片手に、朝から晩まで堺中を走り回った。
妻の実家に声をかけ、竹を大量に買い集めては、長さごとに切り分けさせる。
布も色ごとに買い集め、貴丸の指示どおり三尺、九尺ほどの長さへ裁断させる。
法螺貝はまだ理解できた。戦場で合図を送るためだろう。だが、太鼓。笛。さらには竹の削り屑や大きな和紙まで必要だと言われた時には、さすがの信久も首を傾げた。
そして何より不可解だったのは――白粉である。
「白粉は、胡粉や米粉、白土、貝殻を砕いたものを買ってね。鉛の白粉だけは絶対に駄目だよ」
貴丸は、その時ばかりは冗談一つ言わず、真剣な表情でそう念を押した。
理由を尋ねると、鉛を含んだ白粉は身体を蝕み、長く使えば病を招くという話を聞いたことがあるのだという。
信久は半信半疑のまま、その話を妻の満へ伝えた。満も目を丸くし、しばらく考え込んだ末に頷く。
「そういうことでしたら、これからは鉛の白粉は使わぬようにいたします」
信久も静かに頷いた。
貴丸の知恵は、これまで一つとして外れたことがない。それなら、この話もきっと真実なのだろう。
(あの童は……一体どこまで知っておるのだ)
そう思うたび、信久は畏れにも似た感情を覚えるのだった。
当然、工房も朝から晩まで休むことなく動き続けた。
もっとも――。そんな周囲の忙しさなど、貴丸にはまるで関係なかった。
信久が用意した部屋へ入ると、すぐさま寝転がり、畳の上で日中はごろごろしている。
暇になると泰能へ話しかけ、三兵衛へちょっかいを掛け、満足すると再び寝転がる。その繰り返しである。
「俺は知恵を出す人だからね。不精で結構。動くのはみんなの仕事だよん」
本人は至って真面目な顔でそう言い切り、指一本動かそうとしない。
信久は思わず笑ってしまった。(あそこまで図太いのも、一つの才能かもしれぬな)
――だが。
いつものように畳の上で横になっていた貴丸が、突然むくりと身体を起こした。
「……あ、そうだ……」
貴丸は突然、目を開けた。何かを思いついた顔だった。
そして、口元がゆっくりと吊り上がる。
「ひひひひ」
その不気味な笑い声に、近くにいた泰能が嫌な予感を覚える。
「貴丸殿……その笑い方は、また何か思いついたのか?」
「ん? 別に?」
そう言いながら、貴丸はすでに立ち上がっていた。向かった先は、信久の店の職人たちが作業をしている場所だった。
「親方さん、ちょっとお願いがあるんだけど」
そう言って貴丸が頼んだのは、薬として置かれていた硫黄、それから松脂、そして和紙だった。
さらに、届いたばかりの竹の中から、短く切り分けられたものをいくつか譲ってもらう。
「貴丸様、それはいったい何に使われるので?」
職人が尋ねても、「ひみつ〜!」貴丸は満面の笑みを浮かべるだけだった。
その様子を見ていた泰能も気になって近づいてくる。
「貴丸殿。何を作っておるのだ?」
「ひみつ」
「……」
「ひ・み・ちゅで、ちゅっ!」
そう言って口を尖らせる。泰能は顔を顰めるが、何を聞いても、貴丸は楽しそうに笑うばかりだった。
それからしばらく、貴丸は誰にも見せようとせず、竹を削り、和紙でコヨリを作り、何やら細かな細工を続けた。
やがて完成したものを並べる。そこにあったのは、一尺にも満たぬ長さの竹筒が十本ほど。
泰能は首を傾げた。「……これはなんなのだ?」
貴丸は竹筒を眺めながら、満足そうに笑った。
「ふふふ。これで、びっくりすると思うよ」
その言葉の意味を、その場にいた誰もまだ理解していなかった。
その横では、三兵衛が終始肩身の狭そうな顔をしていた。
信久や職人たち、孫三郎の供が慌ただしく働く姿を見るたびに、何度も頭を下げて回る。
「申し訳ございませぬ。うちの貴丸様は……”アレ”なお方でして」
その姿を見るたび、信久は気の毒になってしまう。(三兵衛殿も苦労しておるな……)
そうした慌ただしい日々が二日ほど続いた。
二日目の朝に孫三郎は慌ただしく戦場へと出立していった。戦場で貴丸が言っていた策を先に行って行うのだと言う。
そして、午後になると、孫三郎の使者が店へ姿を現した。出来上がった品から順に荷車へ積み込み、山崎方面へと運び出していく。
大量の竹槍と布。それに太鼓。法螺貝。和紙。白粉など。
工房の片隅に積まれていた品々は、みるみるうちに荷車へ載せられ、戦場へ向かって姿を消していった。
そして三日目。
新五郎が数日掛けて作っていた革細工がようやく完成した。
「貴ちゃん、できたぞ!」
そう差し出されると、貴丸は満面の笑みで受け取った。
「ありがとう! 完璧っすよ!」
何やら嬉しそうに懐へしまう。
「それ、何になるんだ?」
新五郎が尋ねると、貴丸はにやりと笑った。
「今度会ったら見せてあげるね。へへ」
結局、それ以上は教えてくれない。
その時だった。
「貴丸殿。そろそろ出立のお時間だそうです」
孫三郎の供が迎えに来た。
「おーいよ!」
元気よく返事をした貴丸だったが、その襟首を元伯がやっているように泰能もひょいと掴む。
「寄り道はならぬぞ」
「えー」文句を言いながらも、そのまま外へ引っ張られていく。
玄関先まで来ると、貴丸は満へ向かって大きく手を振った。
「またすぐ戻ってくるからねー! 満さんのご飯、すっごく美味しかった! また食べに来るね!」
満も思わず笑顔になる。
「ええ。またいつでもいらしてくださいな」
この三日で二人はすっかり打ち解けていた。
満にとっても、貴丸はどこか放っておけない子供になっていたのである。
その横で、新五郎も笑いながら手を振る。
「またね! 松ちゃん」
「おう! 貴ちゃんもな!」
最後尾を歩く三兵衛だけは、最後まで深々と頭を下げていた。
「このたびは何かとご迷惑をお掛けいたしました。うちの貴丸様は……”アレ”なお方でございますゆえ…」
その言葉に、信久も新五郎も思わず笑ってしまう。
三兵衛は、この三日間、本当にこの言葉で謝ってばかりだった。
喉が渇いたと言われれば水を持って行き。背中が痒いと言われれば掻いてやる。
あれを取ってくれ、これを持ってきてくれと使われ続ける。
極めつけは、「三ちゃん。厠まで抱っこして連れてって。シッコが出る。漏れそう」と言われた時だった。
さすがの三兵衛も堪忍袋の緒が切れた。
貴丸の尻を軽くぴしゃりと叩くと、「そこまで、なぜ私がお世話しなければならないのですか!」
三兵衛はこの三日で初めて声を荒らげたのである。
しぶしぶ厠へ向かった貴丸だったが、戻ってくるなり袴を見下ろして口を尖らせた。
「三ちゃんが連れてってくれないから、漏れちった…」
その瞬間だった。それまで甲斐甲斐しく世話を焼いていた三兵衛が、すっと無表情になる。
何も言わず替えの袴を持ってくるその顔は、まるで魂が抜けたようだった。
その死んだような目だけは、信久の脳裏へ深く焼き付いて離れなかった。
(三兵衛殿……本当に苦労人であるな)
信久は心の底から同情する。もっとも、その一方で思うこともあった。
普段の貴丸は、動くことすら面倒がる不精者である。
だが、一度頭を働かせ始めれば、泉のように知恵が湧き出し、どんな相手にも物怖じしない。
あの小さな身体の中に宿る知恵と胆力は、とても十歳の童のものとは思えなかった。
(あれは、本当にただの阿呆なのか)信久は遠ざかる一行の背中を見つめる。
(それとも…あの知恵…この乱れた世を変えるほどの大人物になる童なのか)
今はまだ分からない。
だが、そのどちらかであることだけは、不思議と確信できるのだった。
準備はできたようでっす!




