第九章 夜道の見回り
一昨夜の光のことが頭から離れなかった。苗代の水面に滲んだ青白い光。形のない何かが、夜の間も田に触れている。昼間に祓いを試みても届かないなら、夜に直接様子を見た方がいいと、朝の水回りが終わったあとで澪芹に言った。
「夜の田を見に行く。そなたも来るか」
澪芹は少し考えてから、頷いた。
「豆太は」
「まめも行くも」
「今夜は社を頼めますか?」
澪芹がそう尋ねると、
豆太は耳を動かしてから「分かっただも」と答えた。何かを察したような顔だった。
日が完全に落ちてから、二人は社を出た。
夜の田は、昼間とまったく違う場所だった。
水面が空を映して、星が田の中にある。風が来るたびに星が揺れて、また止まると戻る。音は水の音だけで、山も村も眠っている。昼間の土の匂いとは違う、夜の湿った草の匂いがした。
稲乃は先に立って歩いた。澪芹が少し後ろについてくる。提灯の火が二人の足元を照らして、畦道に影を作る。
「南の苗代から見る」
「はい」
南の苗代は、昼間より静かだった。水面が黒く、苗の輪郭だけが提灯の光に浮かんでいる。稲乃は神気を伸ばした。昼間と同じ境界が、土の下にある。しかし夜の間は少し動いている気がした。呼吸するように、微かに揺れている。
「今夜は動いておる」
「刈り取り鬼が来る前兆ですか」
「分からぬ。ただ、昼間より活きておる」
澪芹がしゃがんで、水面に指を触れた。
「冷たい」
「そうじゃな」
「昨夜光ったのは、このあたりですか」
「もう少し北の端じゃ」
二人は苗代の縁を歩いた。提灯の火が揺れる。足元の草が夜露で濡れていて、草鞋に染みてくる。稲乃は水面を見ながら歩いた。何も動かない。ただ星が揺れるだけだ。
しばらく歩いたあと、澪芹が先に口を開いた。
「神さまは、都ではどんなところに住んでいたんですか」
唐突な問いだった。見回りとは関係のない問いだった。
「なぜ聞くのじゃ」
「夜が静かだから。聞きたくなりました」
稲乃は少し考えてから、答えた。
「高い場所じゃ。山の上より、もっと高い。雲より上にある。下を見ると、この村など見えぬくらい小さい」
「広いんですか」
「広い。廊下だけで、この社の何倍もある。庭には常に花が咲いておって、枯れることがない」
「きれいですね」
「きれいじゃ。しかし」
稲乃は水面を見た。
「静かではないのぅ。常に誰かがいて、誰かが見ておって、誰かが何かを言う。笑い声も絶えぬが、その笑いの中に何が混じっておるかも、よく分からぬ」
澪芹は何も言わなかった。聞いていた。
「ここは静かじゃ。夜はとくに。都では夜でも灯籠が消えぬから、本当の暗さを知らなかった」
「暗さが、好きですか」
「好きか嫌いかは分からぬ。ただ、静かじゃと思う」
澪芹が少し笑った気がした。提灯の光では確かめられなかった。
「私は、この静けさが怖かった時期があります」
「夜の田がか」
「村が静かになっていくことが。人が減って、灯籠の数が減って、夜が少しずつ暗くなっていく。その静けさが、怖かった」
「今は」
「今も怖いです。でも慣れました。慣れることが良いのかどうか、分からないけれど」
稲乃は澪芹を見た。提灯の光の中で、少女の横顔が静かだった。怖いと言いながら、その声に恐れはなかった。もう長い間、怖さと一緒にいるから、怖さが声に出なくなっているだけだと、稲乃は思った。
「澪芹は、神を信じるのが怖くなったのはいつからじゃ」
聞いてから、踏み込みすぎたかと思った。しかし澪芹は立ち止まらなかった。畦道を歩きながら、少し遅れて答えた。
「祖母が死んだ年です」
「……そうか」
「凶作が続いていて、村に食料が足りなくて、祖母は自分の分を削っていた。私には分からないようにしていたけれど、気づいていました。それでも止められなかった。止めたら祖母が怒るから」
声は静かだった。
「祖母は祝詞を上げながら死にました。最後まで神事を続けながら、痩せて、死にました。そのとき、神さまは何をしていたんだろうと思いました」
稲乃は答えられなかった。
都にいた。高い場所で、下を見ることもせずにいた。この村の祖母が何をしていたか、知らなかった。知ろうとしなかった。
「怒っておるか、わらわに」
「神さまに、ではありません。あなた個人に怒る理由はない。ただ、神さまというものを、信じ切れなくなった。それだけです」
「それでも社に残った」
「それでも残りました」
澪芹は足を止めて、田を見た。
「信じたいんです。信じた先で、また誰かが飢えるのが怖いだけで」
その言葉が、夜の空気に溶けていった。
稲乃は何も言わなかった。言える言葉がなかった。保証はできない。都の神々の代わりに詫びることも、正直にはできなかった。ただ、この少女が何年もその怖さを抱えたまま、社を守り続けたことだけは、分かった。
「澪芹」
「はい」
言いかけて、止まった。
都で見捨てられてきた記憶が、喉のあたりまで来た。実りの力を失って、笑いものにされて、追われるように辺境へ送られた記憶が。それを言おうとした。澪芹なら聞くと思った。
しかし最後まで言えなかった。
まだ言えない、と思った。言葉にしたら、この夜の静けさが崩れる気がした。崩れることが怖いのではなく、言葉にする前に、もう少しここで立っていたかった。
「……いや、なんでもない」
「そうですか」
澪芹は不思議そうにしなかった。言えないことがあると分かっているような、静かな返事だった。
北の水路まで来たとき、音がした。
最初は風だと思った。しかし風にしては低く、引きずるような音だった。金属が石を削る音に似ていた。
澪芹が稲乃の袖を引いた。
「来ます」
「分かっておる」
稲乃は提灯の火を低くした。二人でしゃがんで、水路の陰に身を寄せた。
音が近づいてくる。
やがて田の向こうに、それが見えた。形、というほどの形はなかった。黒い靄のようなものが、水面の上を滑っている。高さがなく、厚みもない。ただ密度がある。触れたら冷たいと分かる、そういう存在感だった。
それが鎌を引きずっているのか、あるいはそういう音を出すものなのか、稲乃には判断できなかった。ただ音は確かに聞こえて、靄が通ったあとの苗が、わずかに傾いた。
稲乃は神気を細く伸ばした。
相手が気づいた。靄が止まった。
一瞬、静止した。
それから靄はこちらへ向かってきた。ゆっくりと、しかし確実に。
「走れ」
稲乃は澪芹の手を掴んで立ち上がった。提灯を持ったまま走った。澪芹も走った。畦道を北へ、社の方角へ。
音が後ろで大きくなった。引きずる音が速くなる。水路を越える音がした。田の水が跳ねた。
稲乃は走りながら後ろを見た。靄が追ってきていた。速い。昼間の気配より、夜の方がずっと力が強かった。
「社まで持つか」
「分かりません」
澪芹は息が乱れていない。
「結界を」
「社の結界は昨日張り直した。入れば大丈夫じゃ」
「では走ります」
二人は走った。
稲乃の手が澪芹の手を掴んだまま、畦道を踏んで、草を踏んで、社への石段を上った。背後で音が迫る。石段の半分まで来たとき、靄の先端が稲乃の背中に触れた。
冷たかった。
冷たさが背中から肩に広がって、右腕へ来た。神気が乱れる感触があった。実りとは関係のない、体の神気そのものが、一瞬乱された。
「っ」
声が出たが、足は止めなかった。社の鳥居をくぐった瞬間、結界が靄を弾いた。音が遠くなった。引きずる音が、境内の外で止まった。
二人は境内の中で立ち止まった。
稲乃は肩を押さえた。冷たさがまだ残っていた。痛みではなく、体の内側が一部だけ夜になったような、そういう感触だった。
「稲乃さま」
澪芹が稲乃の肩を見た。袖の端が、靄に触れたところで色が変わっていた。白い装束の肩のあたりが、薄く灰色になっていた。
「たいしたことはない」
「たいしたことがないとは見えませんが」
「見た目だけじゃ。痛みはない」
「本当に」
「本当じゃ」
澪芹は稲乃の顔を見た。嘘をついているかどうか確かめるような目だった。稲乃は視線を受けたまま、表情を変えなかった。
澪芹は少しの間そのままでいてから、「中に入ってください」と言った。
社の中で、澪芹は薬箱を出してきた。
穢れに触れた場合の手当てを、澪芹は知っていた。祖母から教わったらしく、手順が迷いなかった。稲乃の右肩から右腕にかけて、薬草を煎じた液を浸した布を当てて、その上から清めの塩を薄く置いた。
「痛みはないと言いましたが」
「はい」
「ないのに手当てするのか」
「冷たさが残っているでしょう」
残っていた。言わなかったが、澪芹には分かっていた。
布を押さえながら、澪芹は囁くような声で祝詞を口の中で唱えた。短い祝詞だった。しかし正確だった。音の運びが正しくて、稲乃の神気がわずかに落ち着いた。
「……上手いのぅ」
「祖母に何度も直されました」
「しかし霊力があるわけではないのに、よく届く」
「届いていますか」
「届いておる。神気が、少し楽になった」
澪芹は手を止めなかった。布を押さえながら、また祝詞を繰り返した。
稲乃は肩の冷たさが引いていくのを感じながら、澪芹の横顔を見ていた。真剣な顔だった。神事の所作の中にいるときの澪芹は、普段と少し違う。静かさの種類が違う。普段の落ち着きは何かを抑えている静けさだが、神事の中にいるときは、自然にそこにある静けさだった。
「澪芹は、本当は信仰があるのう」
手当てが終わったあとで、稲乃は言った。
澪芹は薬箱を片付けながら、少し間を置いた。
「あると思います。信じ切れないだけで、なくなったわけではない」
「その違いは大きいのじゃ」
「そうですか」
「ある者は戻れる。ない者は戻れぬ」
澪芹は薬箱を棚に戻して、稲乃の方を向いた。
「神さまは、戻れると思いますか。私が」
「思う」
「根拠は」
「そなたが今日、わらわに手当てをしたことじゃ」
澪芹は稲乃を見た。意味が分からないという顔だった。
「神を信じておらぬなら、神を手当てせぬ。するということは、この場所に何かを感じているということじゃ」
「……それは、手当てが必要だったからですが」
「それだけではないと、わらわは思う」
澪芹は何も言わなかった。
しかし否定もしなかった。視線を少し下に落として、膝の上の手を見た。その手は、さっきまで稲乃の肩に当たっていた手だった。
豆太が縁側から顔を出した。
「二人とも無事だっただも?」
「無事じゃ」
「姫さまが怪我したって顔してるも」
「たいしたことはないと言うておろう」
「でも澪芹ちゃんが心配そうな顔してるも」
澪芹は豆太を見た。
「心配していません」
「してるだも、目が」
「豆太」
「はいだも」
澪芹は豆太をしばらく見てから、視線を外した。稲乃は豆太の言葉を聞かなかったふりをした。
夜が深くなっていた。
境内の外で、引きずる音はもう聞こえなかった。しかし田の方向の空気が、昨日より少し重い気がした。靄は退いたが、消えたわけではない。夜明けまでどこかにいて、また明日の夜に来る。
稲乃は肩に当てられた布の感触を、まだ感じていた。冷たさではなく、温かさとして。澪芹の手の温かさが、手当てが終わってからも残っていた。
神が人間の手当てで落ち着くとは、都では誰も言わなかった。都ではそういうことは起きなかった。しかしここでは起きた。この村の、この社で、この少女の手が、稲乃の神気を落ち着かせた。
それが何を意味するか、稲乃にはまだ分からなかった。
ただ、分からないまま、それを胸の中に置いておくことはできた。
「今夜は休め」
「はい」
「明日また、苗代を見る」
「一緒に見ます」
「……ああ」
澪芹が立ち上がって、自分の部屋へ下がろうとした。障子に手をかけたところで、振り向いた。
「稲乃さま」
「なんじゃ」
「今夜、手を引いてくれたこと……ありがとうございました」
走りながら手を引いたことを、澪芹は覚えていた。稲乃は自分でも気づかないうちにやっていたことで、言われて初めて思い出した。
「……礼を言うことではない」
「私はそう思いません」
澪芹は障子を閉めた。
稲乃は一人で残された部屋の中で、自分の右手を見た。走りながら澪芹の手を掴んでいた手。細かったが、力があった。あの感触がまだ、掌に残っていた。
豆太が縁側から入ってきて、膝の上に乗った。
「姫さま、今夜の澪芹ちゃん、ちょっと違ったも」
「何が違ったのじゃ」
「なんか、柔らかかったも。いつもより」
稲乃は答えなかった。
しかし、豆太の言うことが分からないわけではなかった。夜の田を歩きながら、祖母の話をしていた澪芹。手当てをしながら祝詞を唱えていた澪芹。その横顔は、昼間よりも少し、内側が見えていた。
それを見たことを、稲乃は誰にも言わなかった。
ただ、明日も夜の見回りをしようと、冷静に決めた。




