第十章 看病の火
翌朝、稲乃は起き上がれなかった。
目が覚めたとき、体の右側が重かった。昨夜靄に触れた肩から腕にかけて、冷たさが残っているのは分かっていた。しかし眠れば回復すると思っていた。神の体はそういうものだと、都では教わっていた。
しかし起き上がろうとすると、部屋が揺れた。
揺れているのは部屋ではなく、自分の神気だと、しばらくしてから気づいた。靄に触れた部分から、体の中心に向かって、穢れが少し入り込んでいた。小さなものだった。しかし神気が乱れると、体を保つことが難しくなる。
稲乃は布団の中で、天井を見た。
格子状の古い天井だった。煤が積もっている。ここへ来て何日も見てきた天井だったが、横になったまま見るのは初めてだった。
体を起こそうとして、また横になった。
豆太が気づいた。朝の見回りに出ていた豆太が、稲乃の部屋の前で立ち止まり、障子越しに声をかけてきた。
「姫さま、まだ寝てるだも?」
「……少し待て」
「声がおかしいも」
「おかしくない」
「絶対おかしいも」
豆太が障子を開けた。稲乃を見て、耳を伏せた。
「みせりを呼ぶも」
「呼ばなくてよい。少し休めば」
「呼ぶも」
豆太は走った。止める間もなかった。
澪芹が来たとき、稲乃は半身を起こそうとしているところだった。起こせなくはなかったが、腕に力が入りにくかった。
澪芹は部屋に入って、稲乃を見て、すぐにしゃがんだ。
「無理に起きなくていいです」
「たいしたことはない」
「昨夜もそう言っていました」
「昨夜も本当のことを言うておった」
「でも今朝は起き上がれていない」
稲乃は反論しようとして、体が言うことを聞かなかった。澪芹に肩を支えられながら、布団に背中を戻した。
澪芹の手が、稲乃の額に触れた。
「熱い」
「神に熱はない」
「ある」
迷いない返事だった。澪芹の掌は冷たかった。その冷たさが、稲乃の額には心地よかった。
「穢れが入っています。昨夜の靄から」
「少しだけじゃ。一日もあれば」
「今日は寝ていてください」
「田の見回りを」
「私がします」
「苗代の祓いを」
「それは明日にしてください」
「しかし」
「稲乃さま」
澪芹が囁くような声で、しかしはっきりと稲乃の名を呼んだ。稲乃は口を閉じた。
「今日だけ、休んでください。田は逃げません」
「……分かった」
言いながら、自分でも意外だと思った。言い負かされたわけではなかった。澪芹の声の中にあった何かが、稲乃の意地を控えめにさせた。
澪芹は薬箱を持ってきて、昨夜と同じように肩の手当てを始めた。布を替えて、薬草の液を新しくして、清めの塩を置く。手順が昨夜より速かった。
「昨夜も一度やっているから、手慣れておるの」
「そうかもしれません」
「何度もやったことがあるのか」
「村人が怪異に触れたことが、過去に何度かありました。そのたびに鈴那さんに教わって手当てをしました」
「鈴那とは」
「村はずれに住む薬師です。呪いや穢れにも詳しい。いずれお会いになると思います」
稲乃は名前を覚えた。
澪芹が肩の手当てを終えて、今度は水を持ってきた。清めた水に薬草を一種入れたもので、飲むように言われた。苦かったが、飲んだ。飲むと、乱れていた神気が少し落ち着く感触があった。
「効く」
「鈴那さんに教わった配合です。穢れには効きます」
「人間の薬が、神に効くとは思わなかったの」
「人間の神事が神さまに効いたのと同じかもしれません」
昨夜の祝詞のことだと分かった。稲乃は黙って水を飲んだ。
午後になると、熱が上がった。
熱、とは正確には違うかもしれなかった。神気の乱れが、体温に似たものとして出てくる。布団の中で、稲乃は天井を見ていた。部屋が揺れるほどではなかったが、体が重く、神気の輪郭がはっきりしなかった。
澪芹は何度か部屋を見に来た。水を替えて、手当ての布を確認して、また出ていく。そのたびに稲乃は大丈夫だと言い、澪芹は頷いてから出ていった。
三度目に澪芹が来たとき、稲乃は半分眠っていた。
完全に眠ってはいなかった。澪芹が部屋に入る気配は分かった。水を替える音も聞こえた。しかし体を起こす気力がなく、目を開けることもしなかった。
澪芹が水の入れ替えを終えて、立ち上がろうとした。
稲乃の手が、澪芹の袖を掴んだ。
自分でも気づかなかった。意識してやったことではなく、澪芹が離れようとした気配に、体が反応した。
「稲乃さま」
澪芹の声が低くなった。
「行くな」
声が出た。眠りと覚醒の境目から出てきた声で、自分のものとは思えないほど細かった。
澪芹は動かなかった。
稲乃の手が袖を掴んでいる。稲乃は目を閉じたままだった。意識があるのかどうか、澪芹には分からなかった。しかし手は離れなかった。
「……分かりました」
澪芹は座り直した。稲乃の枕元に、音を立てずに座った。
稲乃の手が、澪芹の袖をゆるく掴んだまま、動かなくなった。
澪芹はしばらくそのままでいた。部屋が静かだった。外から、田の水の音が遠く聞こえた。
手をほどこうとしなかった。
ほどけなかったのか、ほどきたくなかったのか、澪芹自身にも分からなかった。ただ、稲乃の手が自分の袖にあることが、今は自然に思えた。
夕方近くに、豆太が縁側から顔を出した。
部屋の中を見て、澪芹が座っているのを見て、稲乃の手が澪芹の袖にあるのを見た。
豆太は何も言わなかった。しっぽを一度振って、縁側から消えた。
しばらくして、足音が来た。豆太のものより重い。
「澪芹」
戸口から声がした。落ち着いた、低い女の声だった。
澪芹が顔を上げた。
「鈴那さん」
「豆が来たの。神さまが倒れたって」
鈴那が部屋に入ってきた。長い黒髪、地味な着物、しかし所作が静かで美しかった。稲乃を一目見て、それから澪芹を見た。
「穢れね」
「はい。昨夜の見回りで」
「手当てはした?」
「昨夜と今朝。薬も飲ませました」
「ちゃんとできているわ」
鈴那は稲乃の肩のあたりを確かめた。
「あとは休めば抜ける。神さまの体は人間より回復が速い」
「よかった」
「あなたはずっとここにいたの?」
「午後から。田の見回りが終わってから」
鈴那は澪芹を見た。稲乃の手が澪芹の袖にあることを、鈴那の目は捉えていた。澪芹は少し視線を逸らした。
「……神さまが離さないので」
「そう」
鈴那は何も言わなかった。部屋の隅に薬の包みを置いて、立ち上がった。
「夜にもう一度飲ませなさい。これを湯に溶かして」
「はい」
「澪芹」
「なんですか?」
鈴那は戸口に立って、部屋の中を見た。稲乃と、澪芹と、繋がったままの手を、冷静に見た。
「それ、信仰だけで見てる顔じゃないわね」
澪芹が固まった。
「……何のことですか?」
「そのままの意味よ」
鈴那は微かに笑った。意地悪ではなく、ただ事実を述べるような笑いだった。
「神さまが回復したら、田の祓いを手伝うわ。一人では難しいでしょう」
「ありがとうございます」
「お礼はいらない。あの靄は私も気になっていたから」
鈴那は廊下へ出た。足音が遠ざかる。
部屋が静かになった。
澪芹は鈴那が消えた戸口を見てから、視線を下に落とした。稲乃の手がまだ袖にあった。
信仰だけで見てる顔じゃない。
鈴那の言葉が、耳の中で繰り返した。澪芹はそれを頭の外へ追い出そうとした。しかし出ていかなかった。
稲乃の顔を見た。
眠っていた。布団の中で、少し眉を寄せたまま眠っていた。高い場所に住んでいた神が、古い畳の上で眠っている。白い装束に灰色の染みが残っていた。昨夜の靄がついた跡だった。
澪芹は稲乃の手を見た。
細かった。神の手だから、都にいたときは何も知らなかった手のはずだった。しかし今はその手に、田の泥の跡がある。水路の泥をかき出した跡が、爪の端に残っている。
澪芹はそれを、少しの間見ていた。
それからそっと、稲乃の手を自分の手で覆った。
手当ての続きのような動きだった。しかし手当てではなかった。澪芹自身にも、それが何なのか説明できなかった。ただ、その手が冷たいことが気になって、温めようとしただけだった。
そういうことにした。
夜になって、稲乃が目を覚ました。
部屋の灯籠に火が灯されていた。澪芹がいた。まだそこにいた。
「……まだおったのか」
「はい」
「ずっとか」
「途中で夕餉を作りに行きました。あとはここにいました」
稲乃は上体を起こそうとした。澪芹が背中を支えた。昨夜より体が楽だった。神気の揺れが、ずっと小さくなっている。
「回復した」
「よかった」
「鈴那という者が来ておったか」
「薬を置いていきました。今から飲んでください」
澪芹が湯に薬を溶かした椀を持ってきた。苦かったが、飲んだ。飲み終えると、神気がさらに落ち着いた。
「世話をかけた」
「いいえ」
「一日、田を離れさせてしまった」
「早苗が見てくれていました。朝から夕方まで」
稲乃は少し驚いた。
「早苗が」
「豆太に頼まれたと言っていました。でも来てくれた」
稲乃は何も言わなかった。早苗のことが、昨日より少し近く感じた。
「澪芹」
「はい」
「昼間、袖を掴んでいたか、わらわ」
澪芹は少しの間黙った。
「……はい」
「行くな、と言ったか」
「言いました」
「……それは、その」
「眠っていたのでしょう。夢の中のことです」
澪芹は椀を片付けながら言った。声は落ち着いていた。
夢の中のことだと言ってくれた。稲乃はそれを受け取ることにした。
「そうじゃな。夢の中のことじゃ」
「はい」
しかし澪芹の手が、片付けをしながら、少しだけ止まった。止まってから、また動いた。稲乃はそれを見た。見て、何も言わなかった。
「今夜の見回りは」
「私が一人でします」
「わらわも」
「明日にしてください」
「しかし」
「稲乃さま」
また名前を呼ばれた。稲乃は口を閉じた。
「今夜は休んでいてください。田は、私が守ります」
その言葉の中に、何かがあった。田のことだけを言っているのか、それとも別の何かも含んでいるのか、稲乃には判断できなかった。ただ、澪芹がそう言うなら今夜は休んでもいいと、素直に思えた。
「……分かった」
「では」
澪芹が立ち上がった。
「おやすみなさい、稲乃さま」
「ああ」
障子が閉まった。
稲乃は布団の中で、自分の右手を見た。朝から夕方まで、澪芹の袖を掴んでいた手だった。澪芹の手が覆っていた跡が、温かさとして残っていた気がした。
気がしただけかもしれなかった。
しかし稲乃はその温かさを、夜が明けるまで手の中に置いておくことにした。
豆太が縁側から入ってきて、足元に丸まった。
「よかっただも、姫さま」
「何がじゃ」
「全部だも」
その全部が何を指すのか、稲乃は聞かなかった。
ただ、今夜の灯籠の火が、いつもより温かく見えた。




