第十一章 薬師の家の古い話
鈴那の家は、村はずれの杉林に面した場所にあった。
村の中心から外れて、細い道を十分ほど歩いた先にある。道の両側に草が茂り、朝露が残っているうちに歩くと草鞋がすぐに濡れた。稲乃は装束の裾を少し絡げて歩き、豆太は先頭を走り、澪芹は道具を入れた小さな風呂敷を持って後ろについた。
鈴那に訪ねると伝えてあったのは昨日のことで、今日の午前中に来るように言われていた。稲乃の体は一夜でほぼ戻っていた。神気の乱れは残滓程度で、動くことに支障はない。
「鈴那という者は、この村にいつから住んでおるのじゃ」
歩きながら稲乃が聞くと、澪芹が答えた。
「七年ほど前から、だと聞いています。どこから来たかは知りません。聞いても教えてくれないので」
「それでも村人は受け入れておるのか」
「薬師として必要とされているので。それに、鈴那さんは土地の古いことを知っています。誰も聞いていないのに、知っている。なぜかは分かりません」
「訳ありの人物じゃな」
「そう思います。ただ、悪意のある人ではないと感じています」
豆太が振り向いた。
「まめ、鈴那さんのこと好きだも。なんか、同じ匂いがするんだも」
「同じ匂いとは何じゃ」
「土地の匂い。古い土地の匂い」
稲乃と澪芹は顔を見合わせた。
鈴那の家は、外から見ると小さかったが、中に入ると薬草の束が天井から下がっていて、棚には瓶と巻物が並んでいた。土間に薬研があり、卓の上には写本らしき紙が広げられていた。人の住む家の匂いと、薬草の匂いが混ざっている。
鈴那は土間で薬を摺っていたが、三人が入ると手を止めた。
「来たの」
「お邪魔します」
澪芹が頭を下げた。稲乃も軽く頷いた。鈴那は稲乃を見て、それから澪芹を見た。
「二人とも座りなさい。豆は好きにしていいわ」
「やったも」
豆太はそう言って、棚の下に陣取った。
卓を挟んで、稲乃と澪芹が座った。鈴那が向かいに座って、茶を持ってきた。村では珍しい、ちゃんとした茶だった。
「昨日の穢れは抜けた?」
「ほぼ。薬が効いた」
稲乃が答えた。
「そう。あの配合は神気の乱れにも効く。人間用に作ったけれど、神も同じ原理らしいわね」
「どこで覚えたのじゃ」
「古い書物から」
鈴那は卓の上の紙に目をやった。
「土地の穢れと神気の関係については、各地に記録が残っている。読めるものを集めてきた」
「それがここにある書物か」
「一部ね」
鈴那は一枚の紙を稲乃の前に置いた。崩れた字で書かれた古い記録だった。稲乃は目を走らせた。
「読める」
「神なら読めるでしょう。澪芹には難しい」
「どこから手に入れたのじゃ」
「各地を回ったときに写したもの。元の書物はもっと古い」
稲乃は記録を読んだ。土地に宿る神気の性質について書かれていた。実りの神気は水脈と連動すること。水脈が穢れると神気も濁ること。濁った神気は土地に固着し、時間をかけて怨みに変質すること。
「これは、この村のことを書いたものではないのか」
「違う。別の土地のことよ。でも似ている」
鈴那は茶を一口飲んだ。
「その土地でも、同じようなことが起きた。不作が続いて、怪異が出て、最終的に村が捨てられた」
「どう解決したのじゃ」
「解決しなかったの。記録はそこで終わっている」
稲乃は紙を置いた。
「この村には、もっと古い記録があるはずじゃ。社の神名札、祭の記録、土地の由来。そういったものが」
「社の奥にあります。崩れた字で書かれていて、祖母も全部は読めなかったと」
澪芹が答えた。
「持ってきているか」
「写しを」
澪芹は風呂敷から紙を出した。
「原本は社にあります。これは私が写したものですが、崩れた部分は空白にしています」
稲乃は澪芹の写しを受け取った。鈴那が手を伸ばして、一緒に見た。
三人で紙を見た。
書かれていることの大半は、祭の手順と祝詞の断片だった。しかし中に、土地の歴史と思われる部分があった。稲乃はそこを読んだ。字が崩れているところを、神気を使って元の形を推測しながら読む。
「この土地には、もとから神が祀られておった」
「私もそこまでは読めました」
「それより先が読めなかったのか」
「字が消えていて」
稲乃はもう少し読み進めた。崩れた字の向こうに、何かある。断片が繋がりかけて、また途切れる。
「……ある年に、祭の形が変わっておる」
「いつ頃ですか?」
「年号の記し方が都のものではない。かなり古い。私の見立てでは、百年以上前」
稲乃が答えるより先に、鈴那が記録へ目を落とした。
「百年」
澪芹が繰り返した。
「それ以前の記録と、それ以後の記録で、祀られている神の名が違う。前は名前がある。後は名前がない。神名札に名前が入っていない祭というのは、奇妙なのよ」
稲乃は紙から顔を上げた。
「名前を消した、ということか」
「あるいは、消さなければならない理由があった」
三人の間に、静かな重さが落ちた。
豆太が棚の下から顔を出した。
「それって、追い出された神さまってこと?」
「かもしれない。かつてこの土地に祀られていた神が、何らかの理由で名を消されて、祭から外された。そのあとから凶作が始まった。これが記録から読める範囲のことよ」
「名を消された神の、怨みが」
稲乃は言いかけた。
「まだ断言はできない」
鈴那が遮った。
「でも、考えてみる価値はある」
昼近くまで、三人で記録を読んだ。
鈴那の書物と、澪芹の写しと、稲乃の神気による補完を合わせると、断片が少しずつ繋がった。全部ではなかった。しかし輪郭は見えてきた。
この土地にはかつて、実りを司る神が祀られていた。名のある神だった。ある年の大きな出来事のあと、都の何かしらの決定によって、その神は祭から外された。名を消され、記録を消され、存在を消された。
それからこの土地の実りが細くなり始めた。
鈴那は茶を替えながら言った。
「都の神々が、何かに関わっていると思う」
「……そうかもしれぬ」
稲乃は答えた。都が辺境の小さな神をどう扱うか、稲乃には分かっていた。都合の悪い存在は、こっそりと外される。表向きは別の理由をつけて、しかし本当の理由は別のところにある。
それは、稲乃自身が経験してきたことに、似ていた。
似ていると気づいたとき、胸の奥が冷えた。
「稲乃さま」
澪芹が稲乃を見ていた。
「顔色が悪いですが」
「……少し、考えていた」
「無理をしていませんか。体はまだ」
「体は問題ない」
鈴那が稲乃を見た。
「都で似たようなことを見てきた、という顔をしているわね」
「……関係ない話じゃ」
「そうかしら」
鈴那は紙に視線を戻した。
「都に見捨てられた神が、この土地に何かを残している。そしてあなたは都から送られてきた。無関係とは言い切れないわ」
稲乃は鈴那を見た。
「そなた、何を知っておるのじゃ」
「記録から読んだことだけよ。あなたが都でどういう扱いを受けてきたかは、私には分からない。でも、あなたがここに来た理由が単純ではないことは分かる」
稲乃は答えなかった。
澪芹が稲乃をまだ見ていた。稲乃はその視線を、受け取れなかった。
帰り道は、来たときと逆に澪芹が前を歩いた。豆太は途中で虫を見つけて寄り道をしている。
二人だけになった道で、澪芹が口を開いた。
「稲乃さま、都でのことを話さなくていいです」
「……そなたには関係のないことじゃ」
「はい」
「聞かなくてよいのか」
「聞かなくていいです。話したいときに話してくれれば。そうでなければ話さなくていい」
稲乃は澪芹の背中を見た。前を向いて歩いている。振り向かない。
「なぜそういう言い方ができるのじゃ」
「え」
「聞きたくないのか、聞くのが怖いのか、それとも」
澪芹が足を止めた。
振り向いた。
「聞きたくないわけではないです」
「では」
「稲乃さまが、話す準備ができていないと思ったので」
稲乃は何も言えなかった。
正確だった。今朝の鈴那との話の中で、都の記憶が喉の近くまで来た。しかし出てこなかった。出す準備が、まだできていなかった。
澪芹はそれを見ていた。
「そなたは、よくわらわのことを見るのぅ」
「気になるので」
「神が気になるのか」
「神さまが気になるのではなく、稲乃さまが気になります」
さらりと言った。稲乃は少し固まった。
「……どういう意味じゃ」
「そのままの意味です」
澪芹はまた前を向いて歩き始めた。稲乃は一瞬遅れてから、後を追った。
道が細くなるところで、また二人の距離が近くなった。昨夜の帰り道と同じだった。袖が触れた。
「鈴那さんの話で、何か思い当たることがありましたか」
澪芹が話を戻した。
「……ある。名を消された神のことが、他人事に思えなかった」
「どうして」
「都では、都合の悪い存在はこっそりと外される。理由はつけられるが、本当の理由は別にある。それを、わらわは知っておる」
澪芹は黙って聞いていた。
「この土地の神も、そうして外されたかもしれぬ。だとしたら、怨みを持つのは当然じゃ。わらわが同じ目に遭えば、怨む」
「……怨みますか」
「怨む。ただ、この村の人々はその神に何も関係ない。それでも怨みが及ぶのは、行き場をなくした感情が、近くにあるものに向かうからじゃろう」
「解決できますか」
「分からぬ。ただ、怨みには向き合わねばならぬ。祓えばよいという話ではないかもしれぬ」
「向き合うとは」
「……それも、まだ分からぬ」
二人はしばらく黙って歩いた。
村が見えてきたとき、澪芹が言った。
「一つ、聞いていいですか」
「何じゃ」
「稲乃さまは、怨んでいますか。都を」
稲乃は足を止めなかった。
歩きながら、考えた。
「……怨んでいるかどうか、よく分からぬ。怨む気力があれば、もう少し違ったかもしれぬが」
「気力がなかったんですか」
「笑いものにされている間は、怒りがあった。追われてここへ来たときは、腹が立った。しかし今は」
稲乃は田を見た。青く、細い苗が、朝より少し伸びている気がした。
「今は、ここのことで頭が一杯じゃ」
澪芹が稲乃を見た。
「……それは、いいことだと思います」
「そうか」
「はい」
二人は村に入った。
社に戻ると、早苗が縁側で豆太を待っていた。豆太はまだ戻っていなかった。
「神さまの体は」
「戻った」
「よかった」
早苗はそれだけ言って、澪芹の顔を見た。
「鈴那さんのところ、どうだった」
「いろいろ分かってきました。まだ全部ではないけれど」
「怪異のこと」
「呪いの根っこのことが、少し」
早苗は少し考えてから、「そう」と言った。それ以上は聞かなかった。聞いて不安が増えるくらいなら、知らない方がいいという判断かもしれなかった。
稲乃は縁側に腰を下ろした。
午後の日差しが田に当たっている。南の苗代を見ると、朝より苗が少し元気に見えた。気のせいかもしれないが、そう見えた。
「澪芹」
「はい」
「礼を言う」
澪芹が振り向いた。
「何に対してですか」
「昨日、一日傍にいてくれたことじゃ」
言おうとして何度か止まっていた言葉だった。礼を言うのが得意ではなかった。しかし言わないままにしておくのも、何か違う気がした。
澪芹は少しの間、稲乃を見た。
「昨日のことは、豆太から頼まれたので」
「それだけか」
「……それだけではなかったかもしれませんが」
澪芹は視線を田に向けた。頬が、昼の日差しにしては少し赤かった。
「稲乃さまこそ、礼を言わなくていいです。眠っている間に変なことを言っても、そちらの責任ではないので」
「変なこととは」
「行くな、と言ったことです」
「……それは」
「夢の中のことなので」
澪芹は早口でそう言って、早苗の方へ向いた。
「早苗、今日の苗代はどうでしたか」
「南が少し持ち直してた。北は変わらず」
早苗は澪芹を見た。
「なんか顔赤いけど、暑い?」
「暑くはないです」
「そう」
早苗は稲乃を見た。稲乃は田を見ているふりをした。早苗は何かを察したような顔をしたが、何も言わなかった。それが、今の早苗の優しさだった。
豆太が道の向こうから走ってきた。
「ただいまだも。虫が逃げたも」
「遅い」
早苗が突っ込む。
「仕方ないだも。虫は速いんだも」
三人と一匹が縁側に集まって、夕方の田を見た。
稲乃は膝の上に手を置いたまま、田を見ていた。
行くな、と言った声が、まだ自分の喉のあたりに残っている気がした。眠りの中から出てきた声で、制御されていない声で、だからあれは本当のことだったと、稲乃は思った。しかし澪芹が夢のことだと言ってくれたから、今はそのままにしておく。
いつか言葉にできるかもしれない。
秋になれば、もう少し多くのことが言葉になるかもしれない。
稲乃はそれを、冷静に待つことにした。




