第十二章 都から来た白狐
朝靄の残る早い時間だった。
稲乃が苗代の様子を確かめに田へ出ようとした矢先、社の鳥居のあたりで気配がした。人間のものではなかった。神気に近いが、稲乃のものとも澪芹のものとも違う。古い、研ぎ澄まされた気配だった。
豆太が尻尾を逆立てた。
「きつねの匂いがするも」
稲乃は鳥居の方へ向いた。
朝靄の中に、人の形が見えた。背が高く、長い白銀の髪が靄に溶けている。細い目が稲乃を捉えた。着物は都の上位眷属のものだった。白と銀、袖に狐の紋。
「稲乃さま」
その者が呼んだ。声は穏やかで、礼儀正しく、しかし何かが冷えていた。
「久しいのぅ、葛葉」
稲乃は動じないようにして言った。久しいとはいっても、都を出てからまだひと月も経っていない。しかしここでは、ずいぶん長く感じた。
「ご無事でしたか」
「見ての通りじゃ」
「見ての通り、土の匂いがしますね」
葛葉は微かに笑った。上品で、どこか意地悪な笑いだった。
「田に入っておるのじゃ。当然じゃろう」
「当然とは思いませんが、稲乃さまがそう仰るなら」
豆太が稲乃の足元から葛葉を見上げた。
「きつねさまは、都から来たんだも?」
「そうよ、小さな狸」
葛葉は豆太を一瞥した。
「この土地の眷属かしら」
「まめはこの畦道と水路の眷属だも。葛葉さまはお客さんだも」
「そうね。お客よ」
葛葉は鳥居をくぐって境内に入った。ゆっくりと、社全体を見回す。朱の剥げた柱、痩せた注連縄、石段の苔。その全部を、細い目がしめやかに記録していた。
「荒れていますね」
「見れば分かる」
「手入れはしているようですが、追いついていない」
「人手が足りぬのじゃ」
「人手、ね」
葛葉はもう一度、社全体を見た。
「稲乃さまが自ら田に入り、社の手入れを手伝い、人間と並んで生活している。都では考えられないことですが」
「ここは都ではない」
「そうですね」
葛葉の声には批判がなかった。しかし肯定もなかった。ただ事実を述べる調子で、それが不愉快だった。
澪芹が朝の水回りから戻ってきたのは、葛葉が縁側に座って茶を飲んでいる頃だった。
戸口で足を止めた。葛葉の神気を感じ取ったのか、少し背筋を立てる。
「……ただいま戻りました」
葛葉は、そんな澪芹を見ていた。
「あなたが巫女見習いね」
「はい。澪芹と申します」
「都から来た者よ。葛葉という」
「存じています」
澪芹は頭を下げた。
「稲乃さまの眷属の方と聞いていました」
「そうね。まあ」
葛葉は澪芹を見た。しばらく視線を外さなかった。
澪芹は視線を受けたまま、動じなかった。冷静に、しかし引かずに、葛葉の目を受け止めていた。
「稲乃さまの世話をしているのかしら」
「世話というより、共に田を見ています」
「共に、ね」
葛葉は稲乃に視線を向け、それから澪芹を見た。
「稲乃さまは倒れたと聞きましたが」
「快復しました」
「看病したの?」
「手当てをしました」
「看病と手当ては違うのかしら」
澪芹は少し間を置いた。
「……同じかもしれません」
葛葉の口の端が、かすかに動いた。
午前中、葛葉は村を見て回った。
稲乃もついていった。葛葉が単独で動くと何をするか分からないという理由もあったが、葛葉がこの土地をどう読むかを見ておきたかった。
葛葉は田を見た。水路を見た。社の奥まで入って、神名札を確かめた。それから南の苗代の前に立って、長い時間そこにいた。
「穢れていますね」
「知っておる」
「穢れというより、呪いに近い。土地の底から来ている」
「それも知っておる」
「では、これが単純な凶作ではないことも」
「ああ」
葛葉は苗代から目を離して、山の方を見た。
「この土地に来る前に、都の古い記録を一部見てきました」
稲乃は葛葉を見た。
「見てきた、とは」
「稲乃さまを追ってここへ来ることになって、それなら予習をと思って。この土地は、以前都の管轄にあったことがある。百年以上前のことですが、記録が残っていました」
「何が書かれておった」
「ある年の大きな飢饉のあとで、この土地の神祀りを都の方針に合わせて整理したという記録です」
整理、という言葉の意味を、稲乃は即座に理解した。
「消したのじゃな。もとから祀られていた神を」
「記録の上ではそうなります」
「理由は」
「書かれていません」
葛葉は目を細めた。
「書かれないことの方が、書かれることより多いのが都の記録というものですから」
稲乃は田を見た。苗は今日も細かった。
「葛葉、そなたはなぜここへ来た。監視か」
「監視と言えばそうかもしれません。しかし」
葛葉は稲乃を見た。細い目の奥に、珍しく何か温かいものがあった。
「稲乃さまが心配だったのも、本当のことです」
稲乃は答えなかった。
葛葉は都にいる頃から、稲乃の傍にいた。主従というには気安すぎて、友というには遠すぎた。しかし都で稲乃が笑いものにされていたとき、葛葉だけは笑わなかった。何も言わなかったが、笑わなかった。
「心配せずともよい」
「そう言われても、心配するのが眷属の性分ですから」
昼過ぎに、葛葉と澪芹が社の縁側で顔を合わせた。
稲乃は縁側の端で神名札の写しを読んでいた。葛葉が出てきて、それから澪芹が水を持ってきた。三人が同じ場所に収まった。
豆太は縁側の柱の陰で、耳だけ出して聞いていた。
「巫女殿」
葛葉が澪芹に言った。
「はい」
「一つ聞いてもいいかしら」
「どうぞ」
「稲乃さまのことを、どう思っていますか?」
場の空気が変わった。稲乃は神名札から目を上げた。葛葉は澪芹を見ていた。澪芹は葛葉を見た。
「神として、ということですか」
「どちらの意味でも」
「……神として、誠実だと思います」
「誠実、ね」
葛葉は繰り返した。
「それだけかしら」
「それだけではないかもしれませんが」
「続けて」
「続ける必要がありますか?」
葛葉は少し笑った。
「この村に来るまで、稲乃さまは誰にも誠実だと言われたことがなかった。落ちこぼれと言われ、笑いものにされ、最後には追われた。あなたにとって稲乃さまは仕えるべき神かもしれないけれど、私にとっては守りたい存在なの。あなたが稲乃さまに近づく資格があるかどうか、確かめたい」
「資格、ですか」
「人の子が神に近づくには、それなりのものが要る。信仰だけでは足りない。覚悟が要る」
澪芹は少しの間、葛葉を見ていた。
「私が稲乃さまに近づいているという前提で話をされているんですね」
「違うの?」
「……違わないかもしれません」
澪芹は視線を田に向けた。
「覚悟があるかどうかは、私には分かりません。ただ、諦めることは今のところ考えていません」
「諦めるとは、何を」
「この村を。それから」
澪芹は少し間を置いた。
「……稲乃さまのそばにいることを」
縁側が静かになった。
稲乃は神名札の写しを持ったまま、動けなかった。澪芹は田を見ていた。葛葉は澪芹を見ていた。
葛葉がふう、と小さく息を吐いた。
「正直な子ね」
「嘘が得意ではないので」
「それは長所だわ」
葛葉は視線を外した。
「稲乃さまは、嘘が分かるの。人間よりずっと。だから嘘をつく相手には近づかない」
「知りませんでした」
「そういうことを、稲乃さまは自分では言わないから」
稲乃は葛葉を見た。余計なことを、と思ったが、声に出さなかった。葛葉はそれを分かっていて言っているのだから、声に出しても意味がない。
夕方、葛葉が村を出ると言った。
「泊まっていかぬのか」
「今夜は近くの山に。この土地の気配を直接確かめたいので」
「危険ではないか」
「私は古狐よ。あの靄程度では傷つかない」
葛葉は荷をまとめながら、稲乃を見た。
「稲乃さま、一つだけ」
「何じゃ」
「この土地の呪いは、都と無関係ではないと思います。解決するには、都の判断が関わってくるかもしれない」
「分かっておる」
「都に戻ることになる可能性も、ある」
稲乃は葛葉を見た。
「それを今、言いに来たのか」
「言っておく必要があると思って」
「……分かった」
「稲乃さまが選ぶことを、私は止めません」
葛葉は穏やかな声で言ったのち、
「ただ、見届けます」
こう言い残して鳥居をくぐり、靄の中へ消えていった。
稲乃は鳥居の前に立って、葛葉が消えた方向を見た。
都に戻ることになる可能性。
それを葛葉が口にした意味は分かった。この土地の問題が都と繋がっているなら、解決のために都へ戻らなければならないかもしれない。あるいは都の側から、稲乃を連れ戻しに来るかもしれない。
それがいつ来るかは分からなかった。
しかし秋の前ではないはずだ、と稲乃は思った。秋の前に来るなら、葛葉はもっと早く言った。
「姫さま」
豆太が足元から呼んだ。
「なんじゃ」
「葛葉さまって、本当は優しいんだも」
「知っておる」
「姫さまのことが心配で来たんだも」
「それも知っておる」
「でも澪芹ちゃんのことを試したのは、本当だも」
「……ああ」
「澪芹ちゃん、怖くなかったのかな。あんなはっきり言って」
稲乃は社の方を見た。澪芹は縁側に残って、田を見ていた。
稲乃さまのそばにいることを、諦めることは考えていない。
そう言った。葛葉に向かって、稲乃がそこにいる場所で。
その言葉が何を意味するのか、稲乃はまだうまく整理できなかった。整理しようとすると、体の奥で何かが動いた。落ち着かない、しかし不快ではない、そういう動きだった。
澪芹の元へ戻ると、澪芹は稲乃を見た。
「葛葉さんは」
「しばらく山に泊まると言うておった」
「そうですか」
「……怖くなかったか」
「何が」
「さっきの葛葉の問いが」
澪芹は少しの間、田を見た。
「怖かったです」
「では、なぜ」
「怖くても言わなければならないことがある、と思ったので」
稲乃は澪芹の横顔を見た。夕日の中で、少女の目が遠いところを見ている。
「葛葉は、そなたが答えたことを認めたと思うか」
「どうでしょう」
澪芹は少し考えた。
「認めてはいないかもしれません。ただ、もう少し様子を見ると思ってくれたかもしれません」
「それで十分か」
「今は十分です」
稲乃は何も言わなかった。
都に戻ることになる可能性を、今夜はまだ考えたくなかった。考えなければならない日は、いずれ来る。
けれど今は、ここにいる。田がある。澪芹がいる。豆太がいる。
それだけで十分なはずなのに、都に戻るという言葉だけが、胸の底で小さく光っていた。
その光が、なぜ不安に似ているのか。稲乃にはまだ分からなかった。
分からないまま夜になって、田の水が星を映した。




