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実りを失った稲荷姫は、呪われた村で祈りを耕す〜もふもふ眷属に見守られ、神さまは今日も泥まみれ〜  作者: 明石竜


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第八章 昼の畦道

 その日の昼、社の境内には、久しぶりに穏やかな日差しが落ちていた。

 朝のうちは雲が多かったが、昼前には晴れた。社の石段も、本殿の屋根も、少し白っぽく乾いて見える。風は山の上からゆっくり下りてきて、境内の端に積もった枯れ葉をかさりと鳴らした。

 稲乃は縁側に座って、村を見ていた。

 見えているのは、田ばかりではなかった。遠くの家の前に干された布。土間にしゃがんで薪を割る男。水桶を運ぶ女。子どもの声が一度だけして、すぐに静かになる。台所の煙が細く上がり、風に流れていく。

 終わりかけた村の景色、というものを、稲乃は勝手にもっとひどいものだと思っていた。人が皆うなだれ、戸は閉ざされ、息を潜めるように暮らしているのだと。

 だが実際には違った。

 皆、疲れてはいる。諦めもある。けれど昼になれば洗濯物は干され、鍋には火が入り、水は汲まれる。今日を生きるための手つきは、まだちゃんと残っていた。

「ぼんやりしてるだも」

 足元で豆太が言った。

 しっぽをふわりと振って、縁側に前足をかける。

「わらわは考えておるのじゃ」

「難しいことだも?」

「少しな」

 豆太は稲乃の隣にぴょんと上がって、同じ方向を見た。

「村の匂いを見てるんだも?」

「匂いを見ることはできぬ」

「できるも。まめはするも」

 そう言って、鼻をひくひくさせた。

「今日は、そんなに悪くないだも。まだ疲れてる匂いはするけど、死んだ匂いじゃない」

「死んだ匂い、とはなんじゃ」

「もうどうでもいいってなった土地の匂いだも」

 稲乃は少しだけ豆太を見た。

 小さな眷属の言うことは、ときどき妙に本質を突く。

「……終わると決めた土地にも、まだ昼は来るのじゃな」

「今日のお昼ごはんは、今日のお昼ごはんだも」

 妙に当たり前のことを言って、豆太はしっぽを揺らした。

 そこへ、境内の外から桶のぶつかる音がした。見ると、早苗が両手に水桶を下げて歩いてくるところだった。桶はかなり重そうで、水が縁から少し揺れている。

「早苗」

 声をかけると、早苗は足を止めた。

「何」

「ひとりでそんな量を運んでおるのか」

「そうだけど」

 言いながら、少しだけ肩を上げ下げしている。見た目より重いのだろう。

 稲乃が立ち上がると、早苗は眉をひそめた。

「何する気」

「持つ」

「は?」

 稲乃は早苗の右手の桶に手を伸ばした。

 早苗は一瞬拒むような顔をしたが、すぐに諦めたように手を離す。

「こぼさないでよ」

「誰に言うておる」

 持ってみると、思った以上に重かった。神気を使うようなものではない、ただの水の重さだった。だがその重さが、暮らしというものの重さのようにも思えた。

「どこまで運ぶのじゃ」

「うちと、隣の婆さまのとこ。あっちは足が悪いから」

 早苗は空いた方の手で髪をかき上げて歩き出した。

 稲乃もその隣を歩く。

「出ていくつもりの者が、よくそこまでやるのぅ」

「出ていくつもりでも、今日の水汲みは今日のままだし」

 早苗は前を向いたまま言った。

「放っといたら、婆さまは今日困る。明日村を出るかどうかと、今日の水桶は別の話でしょ」

「面倒な性分じゃな」

「そっちに言われたくない」

 言い返しながらも、早苗の声に前ほどの棘はなかった。

 最初に寄ったのは、石垣の低い家だった。戸は半ば開いていて、中から年老いた女が顔を出す。

「ああ、早苗ちゃん。悪いねえ」

「いいから、桶は中に置いとくよ」

 早苗は慣れた手つきで土間に桶を下ろした。

 稲乃が持ってきた分も横に置くと、女がはっとしたように姿勢を正す。

「神さま」

 深く頭を下げかけたのを、稲乃は咄嗟に止めた。

「そのままでよい」

「でも」

「水を運んだだけじゃ。そんな大仰なことではない」

 女は少し困ったように笑った。

 土間の隅には、干しかけの大根葉が並んでいた。縄に通された小さな赤唐辛子もある。冬支度に使うのだろう。

「それは何じゃ」

「葉ものです。今のうちに干しておかないと、冬に困るから」

 女はそう言って、大根葉を指した。

 その手つきは、村が終わるかもしれないと知っている者の手には見えなかった。冬を迎えるつもりの手つきだった。

 家を出てから、稲乃は小さく言った。

「下りると決めていても、冬の支度はするのじゃな」

「するよ」

 早苗はあっさり答えた。

「下りるにしても、その前に寒くなるかもしれないし。残る年寄りもいるし。全部どうでもよくなるほど、急に心は切れない」

 その言葉は、穏やかだった。

 次に通った家の前では、若い母親が小さな升で米を量っていた。

 ほんの少しの米に粟を混ぜ、迷うように升の上で手を止める。そばでは、まだ幼い子どもが木切れで作った風車を回して遊んでいた。

 子どもは稲乃を見ると、少しだけ母親の後ろに隠れた。けれど完全には隠れず、半分だけ顔を出して、じっと髪飾りの稲穂を見ている。

「その風車は、そなたが作ったのか」

「……父ちゃん」

小さな声だった。

 母親が苦笑して言う。

「去年の冬に作ったんです。壊れても、まだ回るから」

 風が吹くと、風車はかたかたと鳴った。

 ほんの小さな音だったが、それが妙に耳に残った。

 早苗はその家の戸口に立って、母親へ言った。

「夕方、水路見に行くなら声かけて。西の方、また少し崩れてる」

「ありがとう。あとで行く」

 言葉は短かったが、気心の知れたやりとりだった。

 そのまま何軒かを回るうちに、稲乃は少しずつ分かってきた。

 この村は、皆がつながりすぎるほどつながっている。誰かが水を運び、誰かが火を分け、誰かが畦を見、誰かが年寄りの戸を開ける。だから捨てると決めたあとも、すぐには切れない。

 村を失うというのは、田だけを失うことではないのだろう。

 こういう細かな手つきや、呼べば返ってくる声や、戸口に下げた干し菜の影まで、まとめてなくなるということなのだ。

 早苗の家は、村の端にあった。

 兄夫婦が去年下りたと聞いていたが、家は閉めきられてはいなかった。戸板はきれいに立てかけられ、縁側には掃いた跡があり、畑も小さいながら手が入っている。

「出ていくつもりなのに、風は通しておるのだな」

 稲乃が言うと、早苗は桶を下ろしながら顔をしかめた。

「かびるの嫌だから」

「畑もやめておらぬ」

「今日食べる分は要るでしょ」

 そう言ってから、早苗は少しだけ黙った。

 それから、縁側に腰を下ろす。

 稲乃も少し離れて座った。豆太は庭先で何かの匂いを嗅ぎ回っている。

「捨てるって決めたら、すぐにどうでもよくなるわけじゃない」

 ぽつりと、早苗が言った。

「分かってる。そんなこと」

「うむ」

「でも、ずるずる残るのも違うとも思ってる。うちの兄夫婦は先に下りたし、あたしだって、たぶん秋が駄目なら行く」

 早苗は膝を抱えたまま、前を見ていた。

「……それでも、今日の畑に草が生えたら抜くし、水が足りなければ汲むよ。そういうのは急に消えない」

「そうじゃろうな」

「澪芹は、もっとそうだよ」

 その名が出た瞬間、稲乃は少しだけ姿勢を正した。

「あの子は最後まで残る。残るって決めてるとかじゃなくて、ああいうふうにしかいられないの」

 早苗は稲乃の方を見た。

「だから、神さまが半端なことすると困る」

「半端とは何じゃ」

「期待させて、途中でいなくなること」

まっすぐな言葉だった。

 責めるために言っているのではない。だからこそ重かった。

「澪芹は顔に出さないけど、あれでずっと見てるから。神さまのことも、田のことも、村のことも」

 稲乃は何も言わなかった。

 言い返そうと思えば、いくらでも言えた。神には神の事情がある。都には都の理がある。ここへ来たのも、自分の意志だけではない。

けれど今は、そういう言葉が妙に薄く感じられた。

「……分かったような顔をするな」

 ようやくそれだけ言うと、早苗は小さく鼻を鳴らした。

「してない。釘だけ刺してる」

 その言い方に、稲乃は少しだけ口元をゆるめた。

 早苗は気づかないふりをした。

 社へ戻る道すがら、豆太が稲乃の前をちょこちょこ歩いた。

 ときどき振り返って、道端の草を踏み、また先へ行く。

「今日の村、どうだったも」

「妙な問いをするのぅ」

「だって姫さま、来たばっかの頃と顔が違うも」

「どんな顔じゃ」

「村を見てる顔だも。田だけじゃなくて」

 豆太は胸を張ったように言った。

「この村、まだ終わってない匂いがするも。疲れてるけど、終わってないも」

「……そうかもしれぬ」

 稲乃は歩きながら、遠くの屋根を見た。

 軒先の洗濯物、白い煙、子どもの足音。さっきの風車の音まで、耳の奥に残っている。

 守るべきもの、という言葉は大きすぎる。

 だが少なくとも、この昼の暮らしを、簡単に終わらせたくはないと思った。

 社の石段が見えてきた頃には、その思いはもう、ただの意地ではなくなっていた。

 だからその夜、田を見回ると言い出したのは、稲乃の方だった。


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