第七章 朝の水脈
翌朝、稲乃が目を覚ましたとき、障子の外はまだ白かった。
夜の冷えが少しだけ残っていて、空気は澄んでいた。社の一室で身を起こし、しばらくそのまま耳を澄ます。都にいたころなら聞こえなかった音が、この村では朝ごとにある。遠くの桶の触れ合う音。水を汲む気配。戸を開ける木の軋み。まだ小さな、それでも確かに人の暮らしが始まる音だった。
稲乃はそっと障子を開けた。
朝靄が、田の上に薄く残っていた。段々田の輪郭はやわらかく霞み、山の端にはようやく光が差し始めている。冷たい空気の中で、社の境内だけがとても静かだった。
その静けさを、箒の音が破った。
しゃ、しゃ、と乾いた音がして、石段の下から澪芹が姿を見せた。白い小袖に浅葱の袴、いつもの巫女姿だった。片手に水桶を持ち、もう片方には箒を抱えている。稲乃に気づくと、一瞬だけ目を上げた。
「おはようございます」
「……早いのう」
「いつもこれくらいです」
澪芹はそう言って、水桶を下ろした。
「朝の支度をしているだけです」
「毎日か」
「毎日です」
何でもないように返されたが、何でもないことを何年も続けるのは、何でもなくはないのだろうと、稲乃は少し思った。
縁側の端では、豆太がまだ丸くなっていた。葉を頭にのせたまま、しっぽで顔を隠して寝ている。稲乃が足先で軽くつつくと、もぞりと動いて、片目だけ開けた。
「……あさだも?」
「見れば分かるじゃろう」
「まだねむいも」
「たぬきは気楽でよいのう」
「まめは眷属だから、おいなさまと一緒に起きたり寝たりするのがしごとだも」
そう言ってまた丸まろうとするので、稲乃はもう一度つついた。
「寝言は起きてから言え」
澪芹が小さく息をついたような気がした。笑ったのかもしれなかったが、確かめる前に彼女はもう石段を掃き始めていた。
社の裏手に回ると、朝の気配はもう少し濃かった。水場には新しい桶が並べられ、干し場にはまだ湿りの残る縄が渡してある。村の方からは、かまどに火を入れた匂いまで薄く流れてきた。
そのとき、社の裏口の方から年嵩の女が現れた。以前、神前に干からびかけた柿を供えていた女だった。手には縄の束と、片方の取っ手が欠けた木桶を持っている。稲乃を見ると、前のように固くはないが、やはり慎重な顔をした。
「朝早くに、失礼します」
「何用じゃ」
女は木桶を少し持ち上げた。
「干し場の縄が、昨日の雨で少したるんでしまって。桶も、このままだと持ち上げにくいので、直せるならと思って」
澪芹が箒を置いて近づいた。
「見ます」
「わらわも見る」
思わずそう言うと、女も澪芹も、一瞬だけ黙った。
その沈黙に、稲乃は少し眉を寄せた。
「何じゃ」
「いえ」
澪芹が先に口を開いた。
「神さまが、そういうことも見るのかと思って」
「雑用と申したいのか」
「言っていません」
「顔に書いてある」
「書いていません」
淡々と返されて、稲乃は少しだけ鼻を鳴らした。
女は戸惑ったように二人を見ていたが、やがて小さく頭を下げた。
「……お願いできますか」
その言い方は、神前の願掛けではなく、そこにいる誰かへ向ける頼み方だった。
干し場の縄は、思った以上に面倒だった。柱の片方が少し沈み、張った縄全体がたるんでいる。木桶の取っ手も、簡単に差し替えれば済むというものではなかった。
「これ、ひとりでやっていたのか」
「できるところまでは」
澪芹が答える。
「でも柱の方は、少し難しくて」
「早く言えばよかろう」
「神さまにですか」
「む」
言い返そうとして、少し詰まる。
確かに、この村へ来たばかりの頃の自分なら、頼まれても手を出さなかっただろう。
「じゃあ、こっち支えて」
不意に声がした。
振り向くと、早苗が立っていた。野良着姿で、肩に鍬を担いでいる。寝起きとは思えない目つきの鋭さで、こちらの様子を見ていた。
「何をしておる」
「見れば分かるでしょ」
早苗は鍬を下ろして、縄の張り方を一目見た。
「そこ、柱が沈んでる。縄だけ引いてもまたたるむよ」
「ではどうする」
「掘り返して、下に石を噛ませる」
即答だった。
早苗は澪芹の手から縄を受け取ると、稲乃を見た。
「神さま、立ってるだけ?」
「違う」
「じゃあ、そっち持って」
命じるように言われて、稲乃は一瞬むっとしたが、言われた通り柱を支えた。
結局、干し場の縄だけで朝の半刻ほどが過ぎた。柱の下を掘り、平たい石を差し込み、縄を張り直す。木桶の取っ手も、残っていた木材を削って仮に合わせた。どれも泥と木屑で手が汚れる仕事で、神が好んでやることではなかったが、終わってみると干し場は見違えるように整っていた。
「……まあ、こんなもんか」
早苗が柱を軽く叩いて確かめた。
年嵩の女は縄の張り具合を見上げて、ほっとしたように息をついた。
「助かりました」
それだけ言って、今度は稲乃にもきちんと目を向けた。
「ありがとうございます」
深くではない、しかし確かな礼だった。
女が去ったあと、早苗は鍬を肩に担ぎ直した。
「こっちが終わったなら、水路見てくる」
「わらわも行く」
「なんで」
「共に立つと言うたであろう」
早苗は露骨に顔をしかめた。
「覚えてたんだ」
「忘れるようなことではない」
「……好きにすれば」
そう言って歩き出したので、稲乃はそのあとを追った。澪芹は何も言わなかったが、二人の背を見送る目が、ほんの少しだけやわらいでいた。
水路は社から少し下った畦の脇を通っていた。山から引いた水が細く流れ、ところどころで泥が溜まり、草が張り出している。
早苗はしゃがみ込み、流れを確かめながら言った。
「昨日のうちに見ときたかったんだけど、暗くなったから」
「毎朝こうして見ておるのか」
「見る人がいないと詰まるからね」
早苗は鍬の先で泥をさらった。
「詰まったら田が死ぬ」
その言い方には、長く同じことをしてきた者の重みがあった。
稲乃も裾を絡げて、水路脇にしゃがんだ。泥は朝の冷たさを残していて、指先に触れるとひやりとした。
「そこじゃない」
早苗がすぐに言った。
「もっと上。流れが細くなってるとこ」
「いちいち偉そうじゃな」
「分からない人に教えてるだけ」
言い返しながらも、早苗の手つきは迷いがなかった。泥を避け、草の根を抜き、少し崩れた縁を足で押さえる。その流れを見て、稲乃も黙って手を動かした。
しばらくして、早苗がぽつりと言った。
「兄夫婦は、去年下りた」
「聞いた」
「子どももいたしね。ここに残る方が無責任だった」
言い方は淡々としていた。
「だから、下りたことを責める気はない」
「そなたは、残ったのじゃな」
「残ったっていうか」
早苗は泥をさらう手を止めずに続けた。
「放っていけなかっただけ。澪芹ひとりに、社も村も全部背負わせるの、嫌だったし」
少し間を置いて、
「それに、あたしまで下りたら、ほんとに終わる気がした」
と付け足した。
稲乃は、水の流れを見た。
山から来る水は冷たく、細く、それでも絶えず流れている。
「村が好きだから残ったわけではない、と言いたいのか」
「そう」
「しかし嫌いでもないのじゃろう」
早苗は鍬を止めて、稲乃を見た。
「……神さまって、たまに変なとこだけ鋭いね」
「たまに、とは何じゃ」
「いつもじゃないってこと」
その返事に、稲乃は少しむっとしたが、早苗はもう前を向いていた。
「神なんて、今でも簡単には信じないよ。昨日少し田が戻ったからって、全部大丈夫になるなんて思わない」
「当然じゃ。わらわも、そんなことは言わぬ」
早苗は一度だけ、稲乃を見た。
それから、ほんの少しだけ表情を緩めた。
「……その返しは、前よりいい」
水路脇の泥を運んでいるとき、稲乃は足を取られて少しよろけた。すぐに立て直したつもりだったが、持っていた泥を半分ほどこぼしてしまう。
「ああ、もう」
早苗が額に手を当てた。
「持ち方が違うって」
「違わぬ」
「違うから落としたんでしょ」
「今のは足場が悪かっただけじゃ」
「はいはい。じゃあ神さま、こっち向いて」
早苗は呆れながら、泥を掬うときの鍬の入れ方と、木桶への落とし方を見せた。
「まとめて取ろうとしない。水ごとすくうと重いから、泥だけ切る」
「……面倒じゃのう」
「そういうこと言ってるから下手なんだって」
澪芹に言われるのとはまた違う調子で、早苗は遠慮なく言った。
だが、もうその言い方に最初の刺はなかった。
稲乃がもう一度やってみると、今度はうまくいった。
「できたでしょ」
早苗が言う。
「当然じゃ」
「その顔で言う?」
「何じゃ、その顔とは」
「ちょっと得意げ」
「気のせいじゃ」
そう返すと、早苗は小さく吹き出した。
ほんの短い笑いだったが、稲乃はそれを初めて聞いた気がした。
しばらくして、澪芹が水差しと包みを持って畦道を上がってきた。
「少し休んでください」
包みの中には、朝の残りらしい小さな握り飯が入っていた。
早苗がそれを受け取る。
「ありがと」
「水路、どう?」
「今見てたとこは大丈夫。あと二か所」
澪芹はそこで、稲乃と早苗が並んで泥だらけになっているのを見た。ほんの一瞬だけ、目を見開く。
「……本当に手伝っていたんですね」
「何じゃ、その言い方は」
「言ったままです」
澪芹は冷静にそう言って、水を差し出した。
豆太がいつの間にか現れていて、握り飯を見上げていた。
「まめのぶんは?」
「ありません」
「ひどいも」
「さっき社で食べたでしょう」
「それはそれ、これはこれだも」
豆太が騒ぐと、早苗が握り飯の端を少しだけちぎって投げた。
「ほら」
「さなえ、いいひとだも!」
「うるさい」
けれどその声も、どこか軽かった。
澪芹は、水差しを持ったまま二人を見た。
何か言いそうで、言わない。
そのかわり、
「朝から、村の人が社に来ていました」
とだけ告げた。
「干し場の縄のこと、助かったと言っていました」
「そうか」
稲乃が答えると、澪芹は小さくうなずいた。
「はい」
陽が高くなるにつれ、朝靄は完全に消えた。田の輪郭がはっきりと現れ、家々の屋根の向こうからは、昼へ向かう村の音が聞こえ始める。鍋の蓋を置く音、子どもの声、誰かを呼ぶ声。村はまだ貧しく、脅かされてもいたが、それでも今日を生きるための支度を止めてはいなかった。
水路の最後の詰まりを取って、早苗が腰を伸ばした。
「こんなとこかな」
「終わったのか」
「朝の分はね」
それから稲乃を見て、
「……前よりはまし」
とだけ言った。
「何がじゃ」
「手伝い」
早苗はそっけなく言った。
「少なくとも、立ってるだけじゃなくなった」
言い終えると、照れ隠しみたいに鍬を肩に担いだ。
「じゃ、あたしは向こう見るから」
それだけで、畦を向こうへ歩いていく。
稲乃はその背を見送った。
褒められたわけではない。信じられたわけでもない。
それでも、拒まれてはいなかった。
指先にはまだ泥の感触が残っている。袖には水の匂いが移っている。都にいたころなら、忌々しいとしか思わなかっただろう。
だが今は、その汚れが少しだけ誇らしかった。
ここには、まだ守るほどのものがある。
大仰な誓いではなく、ただ朝の村の音として、稲乃の中にそれが残った。
そして日がさらに高くなり、朝の用事がひととおり終わるころには、村はもう次の時間へ動き出していた。




