第六章 早苗の怒り
村の若者が集まると、空気が変わる。
澪芹から教わったことだった。若い者たちは田仕事のあと、村の端にある水場のそばに集まって話す。祭のない村に寄り合いの場所はなく、水場が自然とそういう場所になっていた。夕方の一刻ほど、そこで今日の仕事の話をして、それから各々の家へ帰る。
稲乃が初めてその場に行ったのは、六日目の夕方だった。
澪芹に連れられて行ったわけではなく、豆太が「あっちの方に人がいるも」と言ったので、自分で足を向けた。若者たちは十人ほどいた。稲乃の顔を見ると話が止まって、何人かが頭を下げた。礼儀だけの頭だった。
早苗がいた。
水場の石に腰かけて、隣の男と話していた。稲乃が来ると目が合って、早苗は少し顎を上げた。
「神さまが何か」
「聞きに来た」
「何を」
「村の者が何を考えているかじゃ。わらわには分からぬことが多い」
早苗は少し意外そうな顔をした。神が話を聞きに来るとは思っていなかったらしい。
若者たちの話は、稲乃が想像していたより暗かった。
今年の夏に村を出る予定の者が、三人いた。親が病気で薬代がいる者、もう何年も待てないと決めた者、村に残っても先がないと言い切った者。誰も責められなかった。そのくらい、村の疲弊は深かった。
「今年も駄目だったら、あたしも出る」
早苗が言うと、周りが少し静まった。
早苗は続けた。
「澪芹が残ると言うから今まで残ってたけど。でも限界がある。田が実らないのに、いつまでも待てない」
「早苗」
「本当のことだから」
早苗は澪芹を見た。それから稲乃を見た。
「神さまに言いたいことがある」
「言え」
稲乃は引かなかった。早苗の目の中にあるものが何か、見ておく必要があると思った。
「期待させておいて、また飢えさせるくらいなら、来ない方がよかった」
水場のそばが静かになった。誰も止めなかった。止めることが誰にもできなかったか、あるいは誰もが同じことを思っていたか、どちらかだった。
稲乃は早苗を見た。
「何度、そういう目に遭うたのじゃ」
「え」
「期待して、飢えた。それが何度あったのじゃ」
早苗は少し黙った。
「……数えたことない。でも、何度も」
「都から神が来たことがあったのか」
「ない。でも、祭をすれば実ると言われて、やって、駄目だったことが。雨乞いをすれば降ると言われて、やって、降らなかったことが。そのたびに、また頑張ろうと言われて。頑張って、駄目だった」
声が少し揺れた。怒りの揺れではなく、疲れの揺れだった。
「だから神さまが来ても、正直なところ、また同じだと思ってる」
「そうか」
稲乃は短く言った。
「それはわらわへの怒りではなく、この村が積み上げてきた疲れじゃな」
「……どっちでもいい」
「どちらでもよくない。わらわへの怒りなら、わらわが受ける。しかし村全体の疲れを、わらわ一人が受けることはできぬ」
早苗は稲乃を見た。
「じゃあどうするの」
「秋までに実らせる。それしか言えることがない」
「保証は」
「できぬ」
「だったら」
「できぬが、諦めてもおらぬ」
早苗は口を閉じた。稲乃も何も足さなかった。保証ができないことを取り繕っても意味がない。ただ、諦めていないことだけは本当だった。
その場が少し静かになったとき、澪芹が口を開いた。
「私も、同じことを思ったことがある」
周りの目が澪芹に集まった。
「神さまに期待するのをやめようと思ったことが、何度もある。祭をしても社を守っても、田は枯れ続けた。祖母が祝詞を上げながら痩せていくのを見ていた。そのとき、もう神さまには頼らないと思った」
澪芹は稲乃を見なかった。水場の石を見ていた。
「でも完全には諦めきれなかった。意地だったのか、祖母への義理だったのか、今も分からない。ただ社を掃き続けた。祝詞を続けた。それだけだった」
早苗が澪芹を見ていた。
「……澪芹がそんなこと思ってたなんて」
「言わなかったから」
「なんで」
「言っても変わらないから。それに、言ったら本当にやめてしまいそうで」
水場のそばが静かだった。夕日が山の端に沈みかけて、水の色が赤くなっていた。
稲乃はその場の全員を見渡した。疲れた顔だった。怠けているのではなく、長く頑張りすぎた顔だった。都では見たことがない顔だった。
神はこういう顔を、作れない。人間だけが持てる顔だと、稲乃は思った。
「一つだけ聞く」
稲乃がそう言うと、全員の目がこちらを向いた。
「この村を、好きか」
しばらく、誰も答えなかった。
早苗が、視線を田の方へ向けた。
「……好きだから、腹が立つんじゃないの」
それが答えだった。
夕日の中で、田が段々、赤く染まっている。
水場から社へ戻る道を、稲乃と澪芹は並んで歩いた。豆太は少し前を歩いていて、振り向かなかった。
「澪芹」
「はい」
「さっき言っておったこと、本当か」
「何が」
「神さまへの期待をやめようと思ったことが何度もある、というやつ」
澪芹は少しの間、答えなかった。
「本当のことです」
「わらわが来たときも、そう思っておったか」
「……はい。正直に言うと」
稲乃は足を止めた。澪芹も止まった。
「それでも社の掃除を続けて、田の見回りを続けて、今もここにおるのか」
「はい」
「なぜじゃ」
澪芹は稲乃を見た。夕暮れの中で、灰青の瞳が静かだった。
「諦めきれないんです、私は。神さまを信じることも、この村も。どちらも諦めきれない。それが強さなのか弱さなのかも分からないまま、今日まで来てしまいました」
「強さじゃ」
稲乃は迷わず言った。
「諦めきれないことを弱さと呼ぶ者がいるなら、それは間違いじゃ」
澪芹は少し目を見開いた。
「神さまに、そう言われるとは思いませんでした」
「なぜじゃ」
「……分かりません。ただ、思いませんでした」
二人はまた歩き始めた。道が細くなるところで、自然と距離が近くなった。澪芹の袖が稲乃の袖に触れた。どちらも気づいたが、どちらも離れなかった。
「早苗は、澪芹のことを大事に思うておる」
「知っています」
「だから怒るのじゃ。澪芹がまた傷つくことを、恐れておる」
澪芹は少し黙った。
「早苗には、神さまのことをどう説明したらいいか、まだ分からないんです」
「説明しなくてよい」
「え」
「秋に実れば、説明はいらぬ。実らなければ、何を言っても意味がない」
澪芹は少し考えてから、言った。
「……神さまは、潔いですね」
「潔いとは思わぬ。ただ、言葉より先に実を見せるものじゃと思っておる」
「それは神さまらしい考え方ですね」
「そうか」
「でも、少し人間らしくもある」
稲乃は澪芹を見た。澪芹は前を向いて歩いていた。口の端が、かすかに動いていた。笑っているのかどうか、夕暮れの光では分からなかった。
社に戻ると、早苗が来ていた。
縁側に立って、腕を組んで待っていた。稲乃の顔を見ると少し顎を引いて、それから澪芹を見た。
「話がある」
「私に? それとも神さまに?」
「両方に」
早苗は縁側の端に腰を下ろした。稲乃と澪芹も座った。豆太は気を利かせて縁側の柱の陰に隠れたが、耳だけ出していた。
「さっき言いすぎた」
早苗が最初に言った。
「来ない方がよかった、は言いすぎだった。神さまに向かって言うことじゃなかった」
「謝りに来たのか」
「謝りに来たんじゃなくて、訂正しに来た」
「違いがあるのか」
「ある。謝るのは悪かったと思ったとき。訂正するのは言い方が違ったと思ったとき」
稲乃は少し考えて、言った。
「では訂正を聞こう」
「来ない方がよかった、は嘘だった。本当は、また期待して、また駄目だったときのことを考えると怖い、ということだった。神さまが来て、みんなが少し顔を上げて、それで秋に何も実らなかったら、今度こそ終わりだと思うから」
声が少し低くなっていた。怒りではなく、本音のようだった。
「期待することが、怖いのか」
「そう。何度も期待して、何度も裏切られたから」
稲乃は早苗を見た。
「わらわも同じじゃ」
早苗が目を上げた。
「え」
「実りをもたらすと期待されて、できなかった。一度や二度ではない。だから都を追われるような形で、ここへ来た。期待されて、それに応えられぬことの痛さは、わらわも知っておる」
早苗は稲乃を見た。
「……神さまが、そんなことを言うとは思わなかった」
「そなたも、さっきそれを言うておったな」
「うん。でも神さまって、もっと、全部うまくいく存在だと思ってた」
「違うのぅ」
「知らなかった」
早苗は少しだけ、視線を落とした。それから顔を上げた。
「……ちゃんと守ってよ、澪芹のことを」
稲乃はすぐには答えなかった。
「澪芹はわらわが守るものではない」
「え」
「澪芹は、自分で立っておる。わらわが守るのではなく、共に立つのじゃ」
早苗は稲乃を見た。それから澪芹を見た。澪芹は少し目を逸らした。
「……澪芹、この神さま、思ってたのと違う」
「私もそう思っています」
「最初から」
「最初は思っていませんでした。途中からです」
早苗が少し笑った。水場のそばで見せた疲れた顔とは違う、少し若い笑いだった。
「分かった。あたしも、少しだけ待つ。秋まで」
「よいのぅ」
「よくはないけど。でもまあ、少しだけ」
早苗は立ち上がって、縁側から降りた。
「澪芹、明日の苗代の水、一緒に見る」
「ありがとう」
「感謝は秋にしてよ。今はまだ何も実ってないんだから」
それだけ言って、早苗は帰っていった。その背中が、来たときより少し軽かった。気のせいかもしれなかったが、稲乃にはそう見えた。
豆太が柱の陰から出てきて、尻尾を振った。
「早苗ちゃん、本当は優しいんだも」
「知っておる」
「姫さまも今日、いいこと言ってただも。共に立つとか」
「聞いておったのか」
「耳だけ出してたも」
「それは隠れておらぬ」
稲乃は豆太の頭を軽くたたいた。豆太がくるりと丸まる。
澪芹が、稲乃の横で空を見ていた。夜が来る前の、薄い青の空だった。
「稲乃さま」
「なんじゃ」
「……今日、ありがとうございました」
「何が」
「早苗に、共に立つと言ってくれたこと」
稲乃は澪芹を見た。澪芹は空を見たままだった。頬が、夕暮れの色で少し赤かった。
「礼を言うことではない」
「それでも」
稲乃は何も言わなかった。
ただ、澪芹の横に並んで、同じ空を見た。夜が少しずつ来ていた。山の端から星が一つ、出始めていた。
この村の絶望の深さを、今日初めてはっきりと知った。田の枯れより、水の澱みより、人の疲れの方が、ずっと深かった。それでもまだ、早苗は秋まで待つと言った。澪芹は今日も社にいる。
神通力がなくても、できることがある。
稲乃はそれを、言葉ではなくまだうまく持てなかったが、胸のどこかに置いた。秋になれば、言葉になるかもしれない。あるいは言葉にならなくても、それでいいかもしれないと、初めて思った。




