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実りを失った稲荷姫は、呪われた村で祈りを耕す〜もふもふ眷属に見守られ、神さまは今日も泥まみれ〜  作者: 明石竜


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第五章 苗代に降る、見えない傷

 異変に気づいたのは、澪芹だった。

 朝の水回りを確認しに行った澪芹が、社に戻るなり「南の苗代を見てください」と言った。声に普段の落ち着きがあったから、稲乃は急ぎ足にはならなかった。しかし澪芹の目が、いつもより少し固かった。

 南の苗代に着いて、稲乃は足を止めた。

 昨日まではなかった。確かになかった。水を張った苗代の端、五列ほどの苗が色を失っていた。緑が抜けて、白に近い黄色になっている。根元から力がなく、触れれば折れそうなほど細くなっていた。

「いつからじゃ」

「今朝気づきました。昨夕はまだ普通でした」

 稲乃はしゃがんで、苗に触れた。掌に伝わるものがない。土の中に根を張っているのに、そこから上へ何も上がってこない。生命力が、根の下のどこかで遮られている。吸われている、という方が正確だった。

「水が原因ではないのか」

「水路を確認しました。詰まってもいないし、水量も変わっていません」

「土か」

「掘ってみます」

 澪芹が道具箱から小さな鍬を出して、苗のそばの土を慎重にほぐした。根を傷めないよう、浅く丁寧に。出てきた土は色が悪かった。灰色に近い、力の抜けた色だった。

「根が、薄い。伸びていない」

「いや、伸びようとした跡はある」

 稲乃は土の中に指を入れた。

「しかし途中で止まっておる。下の方に、何かある」

 神気を深く伸ばした。

 土の層を一枚ずつ降りていくように、気を沈めていく。表層は普通だった。しかし三寸ほど下に、境界があった。そこから下の土が、別の温度をしていた。冷たいのではなく、空洞に似た感触だった。あるはずのものがない、という感触。

 夜に田の上を通っていったものの気配に、似ていた。

「澪芹、下がっておれ」

「何をするつもりですか?」

「祓いを試みる」

 澪芹は一歩下がった。豆太も草の上で低くなった。

 稲乃は両手を土の上にかざした。祓いの神気を集める。これは実りの力ではない。結界を張ること、穢れを払うこと、そういった力は今も稲乃の中にある。

 祝詞を口の中で転がした。古い言葉が喉から出てくる。神気が掌から流れ出て、土の中へ降りていく。

 境界に触れた。

 押し返された。

 稲乃は息を詰めた。押し返すというより、かわされた。霧を掴もうとしたときのように、神気が形をなさずに散る。払うべき対象が、はっきりした形を持っていなかった。怨念でも穢れでもなく、もっと古い、形を失いかけた何かだった。

 もう一度試みた。

 また散った。

 三度目、稲乃は少し力を強めた。神気が土の中で広がって、境界の向こうへ届こうとする。そこで、向こうから何かが返ってきた。

 飢え、だった。

 形のない、ただの飢え。人の感情ではなく、土地に染みついた記憶としての飢え。何年も、何十年も、実りを奪われ続けた土地の記憶が、稲乃の神気に触れて反応した。

 稲乃は手を引いた。

 掌が、少し震えていた。

「……駄目じゃった」

 声に出すと、改めて重かった。

「完全には祓えなかったのですか」

「届かなかったのじゃ。形がない。霧のようなもので、神気が通らぬ」

 豆太が近づいてきて、稲乃の掌の匂いを嗅いだ。

「冷たくなってるも、姫さまの手」

「たいしたことはない」

「でも冷たいだも」

 稲乃は掌を袖の中に引いた。澪芹がこちらを見ていた。

「どのくらい広がりますか、このまま放置したら」

「分からぬ。しかし苗代一枚では済まぬかもしれぬ」

「他の田に移る前に、何かできますか」

「……考える」

 それだけ言うのが、今の稲乃には精一杯だった。


 その日の午後、稲乃は社の縁側に座って、ひとりでいた。

 豆太は澪芹と一緒に水路の見回りに行った。稲乃が一人でいたいときに豆太はそれを察して離れる。今日もそうだった。

 日が高く、田は静かだった。風が稲の葉を揺らして、また止む。

 神通力が戻れば、と稲乃は思った。

 実りの力が正しく働けば、土地を癒やすことができるかもしれない。祓いも、今より深く届かせることができるかもしれない。しかし力は戻らない。どうすれば戻るかも分からない。都を出る前から分からなかった。誰も教えてくれなかった。

 失ったのは、ある神事のときだった。

 詳しく思い出したくなかった。ただ、あの日以来、実りの力だけが指先で止まるようになった。土を豊かにしようとすると、力が途中で霧散する。苗に触れると、温もりだけが残って、先へ進まない。

 自分が何を間違えたのか、今も分からなかった。

 分からないまま追われて、分からないままここにいる。

「神さま」

 声がして、顔を上げた。

 澪芹が縁側の端に立っていた。いつ戻ってきたのか気づかなかった。手に椀を持っている。

「戻っておったのか」

「少し前に。豆太は水路の見回りの続きをしています」

 澪芹は縁側に腰を下ろして、椀を差し出した。

「麦の湯です。体が冷えているなら温まります」

 稲乃は受け取った。温かかった。掌が少し戻る気がした。

「見ておったのか」

「さっき苗代で、手が震えていたので」

「たいしたことはない」

「分かっています」

 澪芹は自分の椀を両手で持って、田の方を向いた。二人でしばらく黙っていた。

「稲乃さま」

 初めてその呼び方をされた。神さまではなく、稲乃さまと。稲乃は気づいたが、指摘しなかった。

「失敗しても、次を間違えなければいい」

 囁くような声だった。田を見たまま、澪芹は言った。

「私も、何度も祓いに近いことを試みて、うまくいかなかったことがあります。祝詞を間違えて、神気を逆に乱したこともある。そのたびに祖母に同じことを言われました。失敗しても、次を間違えなければいい、と」

「……その言葉は」

「自分に作ったものではなく、祖母のものです。いくつかは祖母に教わっています」

 稲乃は椀の湯気を見た。

「祖母御は、どんな方だったのじゃ」

「物静かな人でした。怒ったところを見たことがない。でも、決めたことを曲げない人でした」

「そなたに似ておるのぅ」

 澪芹は少し間を置いた。

「……そうかもしれません」

 それから田の方へ顔を向けたまま、続けた。

「神さまは、今日うまくいかなかったことを、ひどく責めているんじゃないかと思って」

 稲乃は黙った。

「違いますか」

「……神が自分を責めるとは思わぬか」

「思います。神さまでも、うまくいかないことはあるから」

 椀の中の湯が、少し揺れた。風のせいではなかった。稲乃の手が、かすかに動いたせいだった。

「澪芹は、わらわが神通力をうまく使えぬことを、知っておるか」

「薄々は」

「軽蔑せぬのか」

「なぜ軽蔑するんですか」

「豊穣の神が、実りを宿せぬのじゃぞ」

 澪芹はしばらく黙っていた。椀を持ったまま、田を見ている。

「神さまは今日、祓いを試みました。うまくいかなくても、三度試みました。昨日は田に入って、水路の泥をかき出しました。一昨日は苗代の草を取りました」

「それは当然のことじゃ」

「私には当然ではありません」

 澪芹の声が、少し変わった。抑えているのではなく、真剣になった。

「都の神さまが実際に田に入るとは、思っていませんでした。神通力があってもなくても、田のそばに立って、土のことを考えているとは、思っていなかった」

「……買いかぶりじゃ」

「そうは思いません」

 稲乃は澪芹の横顔を見た。

 澪芹は田を見ていた。しかし視線の向こうにあるのは田だけではない気がした。もっと遠い、あるいはもっと近い何かを、見ている目だった。

 稲乃は椀の湯を一口飲んだ。麦の味がした。都では飲んだことのない味だった。しかし嫌いではなかった。

「澪芹」

「はい」

「もう一度、明日、試みる」

「はい」

「うまくいくかは分からぬ」

「分かりました」

「しかし次は間違えぬようにする」

 澪芹はそこで稲乃の方を向いた。目が合った。

「……はい」

 それだけだった。しかしその一言の中に、何かが入っていた。頑張れでも、信じているでもなく、もっと静かな何かが。

 稲乃はそれが何か分からなかった。ただ、椀を持つ手が温かくなっていた。


 夜になった。

 豆太が戻って、三人で夕餉を食べた。豆太は苗代のことを聞いて耳を伏せたが、すぐにまた尻尾を立て直した。「まめが夜の見張りをするも」と言って、縁側に陣取った。

 稲乃が部屋へ下がろうとしたとき、田の水面が光った。

 月光ではなかった。水の中から、青白い光が滲んで、すぐに消えた。

 豆太の尻尾が逆立った。

 光が消えた場所に、水面の揺れだけが残った。それから静かになった。苗代の水が、ぬるりと動いた気がした。

 稲乃は縁側に立ったまま、その場所を見た。

 見えない傷が、夜の間にも広がっている。

 明日の朝、苗代がどうなっているか。

 稲乃は考えた。考えても答えは出なかった。ただ、やれることをやる以外にないと、今日澪芹の言葉から学んだことが、胸の底に残っていた。

 失敗しても、次を間違えなければいい。

 稲乃はそれを、今夜は自分の言葉として使ってみることにした。


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