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実りを失った稲荷姫は、呪われた村で祈りを耕す〜もふもふ眷属に見守られ、神さまは今日も泥まみれ〜  作者: 明石竜


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第四章 祭の絶えた社

 社の奥に踏み入ったのは、村に来て五日目のことだった。

 それまで稲乃は本殿の前までしか入っていなかった。本殿は荒れていたが、少なくとも形はあった。しかし澪芹が「奥の倉を見せます」と言ったとき、稲乃は初めて社の裏手にある古い建物に足を踏み入れた。

 扉を開けた瞬間、黴と埃の匂いが来た。

 稲乃は中に入って、動けなくなった。

 祭具が積み上げられていた。神輿の骨組みが崩れかけて隅に立てかけられ、神楽で使う面が布に包まれたまま棚に並んでいる。太鼓は革が破れ、榊立ては錆びていた。供物台の一つは脚が折れて床に倒されたまま、誰も直していない。

 全部が、放置されていた。壊れたのではなく、使わなくなって、そのままになっていた。

「いつからじゃ」

 稲乃の声は思ったより低くなった。

「祭をやめたのは、十年ほど前です。凶作が続いて、祭どころではなくなったと。それから少しずつ、道具の手入れもされなくなって」

「祝詞は」

「最低限だけ続けています。私が覚えている分と、祖母の手書きのものを合わせて」

「神楽は」

「やり方を知っている人がいなくなりました。舞の所作を覚えていた方が、四年前に亡くなって」

 稲乃は神輿の骨組みに近づいた。触れると、木がぼろりと崩れた。長い年月と湿気で、芯まで腐っていた。

 これが、神を祀る社の中身だ。

 都の高座からこの村を見たことはなかった。都の神々は辺境の村を祝福することはあっても、その内側がどうなっているかを見ることはしない。稲乃もそうだった。田を祝う言葉は知っていた。豊穣を願う祝詞は唱えられた。しかし祭具が腐るまで放置されているとは、考えたこともなかった。

「澪芹」

「はい」

「そなた一人で、この社を守っておったのか」

「祖母が生きていた頃は二人でした。二年前に亡くなってから、一人です」

 言葉に重みはなかった。ただ事実を言う調子だった。それが、かえって胸に来た。


 本殿の中も見た。

 神棚には古い幣束が立っていたが、白紙は変色して、麻は縮れていた。供物の器は空で、水を入れる瓶子も乾いていた。しかし床は掃かれていた。棚の埃は払われていた。澪芹が毎日、最低限を守り続けている跡だった。

 稲乃は神棚の前に立って、神気を細く伸ばした。

 そこに、何かあった。

 微かだった。水底の光のように、かすかで、あやうい。しかし確かにある。この社に、土地の神気がまだ残っている。完全に絶えてはいない。

「澪芹、ここに来い」

 澪芹が近づいた。

「掌を上に向けて、ここにかざせ」

 澪芹は少し不思議そうな顔をしたが、言われた通りにした。神棚の前で、掌を上に向けて差し出す。

「何か感じるか」

 澪芹はしばらくそのままでいた。

「……温かい気がします。少しだけ」

「そうじゃ。この社にはまだ神気が残っておる。土地に宿った神気が、完全には消えておらぬ」

「でも何年も祭をしていないのに」

「土地の神気は、人の祈りだけで保つものではない。土地そのものが持っているものじゃ。ただし、祭をすれば応える。祝詞を上げれば動く。長く放置されると眠るが、死ぬわけではない」

 澪芹は掌を見た。

「……眠っている、ということですか」

「ほぼな。しかし起こせる」

「どうやって」

「祭を復活させれば、土地が応えるかもしれぬ。形だけでよい。規模は小さくてもよい。大切なのは、またここに祈りを置くことじゃ」

 澪芹は掌を下ろした。何か考えている顔だった。

「村人は聞かないと思います」

「なぜじゃ」

「祭をやっても田が実らないことを、もう何度も経験しているから。あなたが来る前にも、私は何度か提案しました。そのたびに断られました」

「それでも言うてみよ。わらわが後ろにおる」

「神さまがいれば聞くと思いますか」

「思わぬ。しかし、何もせぬよりはましじゃ。動けば何かが変わる。動かねば何も変わらぬ」

 澪芹は稲乃を見た。

「……神さまは、意外と諦めが悪いんですね」

「当然じゃ。諦めてここに来たわけではないからのぅ」

「そうは見えませんでしたけど、最初は」

「最初の話はするな」

 澪芹の目に、かすかな何かが過ぎた。笑いではなかったが、固さが少し溶けたような、そういうものだった。


 村の長のところへ行ったのは、その午後だった。

 長の家へ向かう途中、畦道の脇で、村の者が三人ほど立ち話をしていた。

 声は低く、笑いはない。

「今さら祭なんてして、何が変わる」

 男が吐き捨てるように言った。日に焼けた腕を組み、田を見ようともしない。

「変わらなくても、最後に一度くらいはやってもいいだろうよ」

 年嵩の女が答えた。声に強さはなかったが、言い切るだけの芯はあった。

「最後、ねえ」

 男は乾いた声で笑った。

「そうやって何度も期待して、そのたびに何も残らなかったじゃないか」

 少し離れたところで、幼子を背に負った若い女が、何も言わずに二人の顔を見ていた。

 その沈黙が、いちばん重たかった。

 澪芹は足を止めなかった。

けれど稲乃には分かった。誰も祭そのものを笑っているのではない。笑っているのは、また信じようとする自分の方だった。

 長は六十を過ぎた男で、膝が悪く、部屋から出られないでいた。稲乃と澪芹が訪ねると、驚いた顔をしたが、座り直して頭を下げた。都の神への礼儀だけは残っていた。

「祭を復活させたい」

 稲乃が言うと、長は黙った。

「小さくてよい。形だけでも、この夏に一度やれば、土地が応える可能性がある」

「……神さまがそう仰るなら」

「しかし村人が動かねば意味がない。社の掃除、供物の準備、最低限でよい。人が要る」

 長は稲乃から視線を外して、膝に置いた手を見た。

「若い者は、もう」

「聞いておる。今年駄目なら村を出るつもりの者が多いと」

「はい。だから無理に動かすことはできません。今さら祭をしても、と思うているのは私も同じです」

 稲乃は何か言おうとした。

 そのとき、澪芹が口を開いた。

「長、一つだけ聞かせてください」

「なんじゃ」

「村を捨てると決めたのは、今年の秋に実りがなければ、ということでしたよね」

「そうじゃ」

「今年の秋はまだ来ていません」

 長は澪芹を見た。

「諦めるのは、秋が来てからでも遅くないと思います。私は神さまに保証はできません。でも、諦めてから動くより、動いてから諦める方がいい。そう思います」

 長はしばらく澪芹を見ていた。

「……澪芹は、強くなったのう」

「祖母に言われていました。言葉は最後まで使えと」

 長は息を吐いた。

「人を集めるのは難しい。しかし私から声をかけることはできる。来るかどうかは各々に任せる。それでよければ」

「十分です」

 澪芹が答えた。稲乃は横で聞いていた。


 帰り道、二人は村の端を通った。

 夕方の畦道に、人はほとんどいなかった。田は静かで、夕日が水面をぼんやりと赤くしていた。

 澪芹は前を向いて歩いていた。稲乃も並んで歩いた。しばらく何も言わなかった。

「さっきの言葉は、どこから出たのじゃ」

「何がですか?」

「諦めてから動くより、動いてから諦める方がいい、というやつ」

 澪芹は少し考えた。

「……自分に言い聞かせてきた言葉です。信じることをやめそうになるたびに、もう少しだけと思って」

「誰かに教わったのか」

「祖母でもなく、誰でもなく、自分で作りました。そうしないと、続けられなかったので」

 稲乃は澪芹の横顔を見た。夕日の中で、輪郭が細く光っている。

 一人で、何年もそう言い聞かせてきた。神も信じきれないまま、村も諦めきれないまま、社を掃き続けてきた。

 それを都の高座から見ていた神は、誰もいなかった。

「澪芹」

「はい」

 言いかけて、止まった。

 礼を言おうとしたのか、詫びようとしたのか、自分でも分からなかった。どちらも似合わない気がして、稲乃は別の言葉を探した。

「……今日、社の奥を見せてくれたことに、礼を言う」

「別にたいしたことは」

「いや、たいしたことじゃ」

 稲乃はそこで止まった。澪芹も足を止めた。

「わらわは、田に立ったことがなかった。社の中の祭具が朽ちるまで放置されることを、考えたことがなかった。神はそういうものだと思っておった。祝福を与えて、祈りを受けて、それで完結すると」

「……神さまですから」

「しかしそれは違うのかもしれぬ、と今日は思った」

 澪芹は稲乃を見た。

「田に降りて、社の奥まで来て、そう思ったのですか」

「そうじゃ」

 澪芹はしばらく稲乃を見ていた。夕日が傾いて、二人の影が畦道に長く伸びている。

「……神さまは、来る前と少し変わりましたね」

「五日しか経っておらぬ」

「それでも」

 稲乃は答えなかった。変わったかどうかは分からなかった。ただ、今日見たものが胸の中にある。朽ちた神輿と、破れた太鼓と、それでも毎日掃かれている床と。

 社へ戻ると、豆太が縁側で待っていた。

「おそかったも。夕ご飯どうするんだも」

「澪芹に聞け」

「みせりに聞いたら神さまに聞けって言われただも」

 稲乃は澪芹を見た。澪芹は少し目を逸らした。

「……私が作ります。神さまは待っていてください」

「わらわも手伝う」

「え」

「何か問題があるか」

「神さまが台所に入るんですか」

「昨日は田に入った。台所にも入れる」

 澪芹はしばらく稲乃を見てから、何かを呑み込んだような顔をした。

「……では、火を起こすのをお願いします」

「任せよ」

 豆太が尻尾を勢いよく振った。

「じゃあまめも手伝うも。まめ、火は得意だも」

「たぬきが火を起こしてどうする」

「葉っぱで扇ぐだも」

 稲乃は少し笑いそうになった。笑わなかったが、口の端が動いたのを澪芹に見られた気がした。

 澪芹は何も言わなかった。ただ社の中へ入っていく。その背中が、朝よりも少しだけ、軽く見えた。気のせいかもしれなかった。しかし稲乃はそれを、気のせいではないと思った。

けれど、その夜。

縁側に立った稲乃は、田を渡ってくる空気の中に、昨日までとは違う冷たさを感じた。風の冷えではない。水の匂いの奥に、薄く削られたような、力の抜ける気配が混じっている。

神気を細く伸ばすと、南の苗代のあたりで、土の下の何かがかすかに軋んだ。

喜んでいる暇は、まだない。そう胸の内で呟いたとき、闇の向こうで水面がわずかに揺れた。


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