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実りを失った稲荷姫は、呪われた村で祈りを耕す〜もふもふ眷属に見守られ、神さまは今日も泥まみれ〜  作者: 明石竜


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第三章 たぬきは水の匂いを知っている

 豆太が先に立って歩くときは、たいてい何かある。

 稲乃がそれを学んだのは、村に来て三日目の朝だった。豆太は何も言わずに社の裏手へ向かい、細い山道を登り始めた。葉をずらし、しっぽを立て、振り向きもしない。

「どこへ行くのじゃ」

「水のところだも」

「水とは」

「村の水のもとになってる湧き水。そこを見た方がいいと思って」

 豆太の声がいつもより少し低かった。稲乃は何も聞き返さずについていった。

 澪芹も来た。声をかけたわけではなかったが、社の裏で道具の手入れをしていたところを豆太が目ざとく見つけて「みせりも来るだも」と言った。澪芹は少し考えてから道具を置いて立ち上がった。

 三人で山の斜面を登った。道は細く、杉の根が露出して歩きにくい。澪芹は慣れた足取りで進み、稲乃は装束の裾を気にしながらついていく。豆太は四つ足でどこでも走れるくせに、ときどき立ち止まって待った。

「この道は」

「私が子どもの頃から使っている水汲みの道です。湧き水が三か所あって、一番上のが一番きれいでした。昔は」

「昔は、か」

「三年くらい前から、少し変わりました」

 それ以上は言わなかった。


 一番上の湧き水は、杉林を抜けた先の岩の割れ目から出ていた。苔むした岩の間から、細い流れが滲み出るように湧いて、小さな溜まりを作っている。水は透明に見えたが、流れ出た先の石が妙に白く変色していた。

 豆太がその前で止まった。

 鼻をひくひくさせて、耳を伏せる。

「どうした、豆太」

「……匂いがする」

「水の匂いか」

「水の匂いじゃないも。水の奥の匂い」

 豆太は溜まりの縁に前足をかけて、水面を覗き込んだ。しっぽがゆっくりと下がっていく。

「腐ってるわけじゃないんだも。でも、なんか、澱んでる。水の下に何かが溜まってるみたいな」

 稲乃は豆太の隣にしゃがんで、掌を水面の上にかざした。神気を細く伸ばして、水の中へ送る。

 冷たかった。しかし豆太の言う通り、その冷たさの下に何かある。水ではないものが、水に混じっている。怨みとも呼べないほど薄い、しかし確かに人の感情に似た何かが、湧き水の底から滲み出ていた。

「澪芹」

「はい」

「この水を、田に引いているのか」

「水路でここから繋がっています」

「……どのくらい前から」

「村ができた頃から、だと思います。記録がないので正確には分かりませんが」

 澪芹もしゃがんで、水に指を入れた。しばらくそのままでいて、何か考えるような顔をしてから指を引く。

「冷たさが、少し違う気がする。去年の春より」

「何が違う」

「うまく言えないんですが、奥の方に、固いものがある感じ。水なのに」

 神気を使わずに感じ取っている。稲乃は少し澪芹を見た。霊力は高くないと豆太が言っていたが、土地と長く暮らした者の感覚というのは、神気とは別のところで働くらしい。

「これは、ただの水脈の問題ではないのぅ」

 独り言のように言うと、澪芹が聞き返した。

「神さまには分かりますか、何が」

「はっきりとは分からぬ。ただ、土地が疲れているのとも、水が枯れているのとも少し違う。何かが、この土地の水に混じっている。怨みに似た、人の感情のかすみのようなものが」

 澪芹は黙って水面を見た。

「刈り取り鬼の話は聞きましたか」

「豆太から少し」

「夜、田のそばに現れると言われています。鎌を引きずるような音がして、翌朝に穂が刈り取られたように倒れている。三年前から」

「三年前」

「水が変わったのと、同じ頃です」

 豆太がしっぽをぴんと立てて言った。

「まめが生まれるずっと前から、この水はここから流れてただも。昔はもっとのびのびしてたと思うも。今は、なんか、絞られてるみたいな感じ」

「絞られている、とは」

「力を吸われてるみたいな、だも。水じゃなくて、水の中にある何かを」


 三か所の湧き水を全部回った。

 下に行くほど水は豊かになったが、同じ澱みが薄く漂っていた。水路に沿って歩くと、その澱みが田まで流れ込んでいることも分かった。神気でなくても、田の土の色がどこか沈んでいることは目に見えた。

 山を下りる途中、澪芹が口を開いた。

「社に古い記録があります。読んだことはあるんですが、私には意味が取れない部分がある」

「神事に関わるものか」

「たぶん。字が崩れていて、祖母も全部は読めなかったと言っていました」

「見せてたもれ。わらわなら読めるかもしれぬ」

 澪芹は少し迷うような顔をした。

「……神さまは、本当にここを実らせようとしているんですか」

 唐突な問いだった。

 稲乃は足を止めた。

「当然じゃ。宣言した」

「宣言したから、というだけですか」

「それ以外に何があるというのじゃ」

 澪芹の灰青の目が、夕暮れ前の光の中でしめやかに稲乃を映している。

「昨日、田に入っていたのを見ていました」

「見ていたのは知っておる」

「一人でいるとき、苗のそばでしばらく立っていました。神気を使うわけでもなく、ただ立っていた。何をしていたんですか」

 稲乃は答えを探した。

 正直に言えば、土の感触を覚えようとしていた。手でなぞって、足裏で踏んで、この土地が何を覚えているかを聞こうとしていた。神気ではなく、体で聞こうとしていた。都では一度もしたことがない行為だった。

「……田のことを、知ろうとしておった」

「知って、どうするつもりですか」

「実らせるためじゃ」

「神通力が戻れば、ということですか」

「戻らなくても」

 言ってから、自分でも少し驚いた。

 澪芹も少し目を見開いた。

「神通力が戻らなくても、実らせると言っているのですか」

「……言い間違えたかもしれぬ」

「言い間違えていないと思います」

 澪芹は短く、しかしはっきりとそう言った。それから視線を山道の先に戻して、また歩き始めた。

 豆太が稲乃の足元をちらりと見上げた。

「姫さま、今いいこと言ったも」

「黙れ豆太」

「でも本当にいいこと言っただも」

「黙れと言うておろう」


 村に戻ると、田のそばで人の声がした。

 若い男たちが数人、畦の上に集まって話している。声は低く、笑いはなかった。

 澪芹が足を速めた。稲乃もついていく。

 男たちの中に、稲乃が初めて見る顔があった。赤みがかった黒髪を短く結い上げた、日焼けした娘だった。野良着姿で、腕を組んで、男たちと対等な顔で話している。

「だから言ってるじゃないの。水路の詰まりを直しても、今年だってどうせ」

「早苗」

 澪芹が声をかけると、娘が振り向いた。

「澪芹」

 表情が少し和らいだが、稲乃を見た瞬間に戻った。

「……あの人が、都から来た神さまか」

「そうです。稲乃さまです」

「はあ」

早苗は稲乃をじろじろと見た。遠慮がなかった。神の前でそんな目を向けた人間は、澪芹に続いて二人目だった。

「都の神さまが、なんでうちの村に来たの。使い古しを押しつけられたとか、そういうやつじゃないの」

 その言葉に、胸の奥で何かがぴたりと固まった。

 図星だったからではない。都で誰も口にしなかった言葉を、こんなにもあっさり輪郭にされたことが、思いのほか痛かった。

 それでも稲乃は、まばたきひとつせずに早苗を見返した。

「早苗」

 澪芹が低く制した。

「本当のことでしょ」

「言い方があります」

「でも澪芹だって思ってるじゃないの、心の中では」

 澪芹は答えなかった。

 稲乃は腹が立つかと思ったが、それより先に、この娘は澪芹を心配しているのだと分かった。神を信じることで澪芹がまた傷つくことを、恐れている。

「使い古しかどうかは、秋に分かる。わらわが実らせれば使い古しではなく、実らせなければその通りじゃ。それまで待て」

 早苗は少しの間、稲乃を見た。

「……威張りだけは一人前なんだ」

「早苗」

「分かった、分かったって」

 早苗は男たちの方へ顔を向けて、話の続きに戻った。稲乃を無視したわけではなく、これ以上言っても無駄だと判断したような顔だった。

 澪芹が稲乃の隣に並んで、小声で言った。

「早苗は悪意があるわけではないので」

「分かっておる」

 稲乃は答えたが、なおも早苗の背を目で追った。

 早苗は男たちに混じって水路の方を指していた。口調はきついが、立ち去る気配はない。

「あやつも、村を出るつもりなのか」

 澪芹は少しだけ黙った。

「……秋で下りるつもりだと、前に言っていました」

「そうか」

「兄夫婦は去年、もう山を下りました。早苗だけが残って、家と畑を見ています」

 稲乃はもう一度、早苗を見た。出て行くつもりの者の背には見えなかった。

「出るつもりの者が、ああして田の話をするのか」

「……離れると決めたからといって、すぐに捨てられるわけではないんです」

 澪芹の声は穏やかだった。

「早苗は、たぶん、最後まで腹を立てながら見ている人です」


 夜になった。

 村は早く眠る。灯籠の火が一つ二つと消えて、山里の闇が深くなっていく。社の中でも澪芹は早くに部屋へ引いた。稲乃は縁側に座って、暗い田を眺めていた。

 豆太が膝の上で丸まっている。

「眠らないのかのう」

「まめはおいなさまが起きてると起きてるも」

「悪い癖じゃな」

「癖じゃないも、心配してるんだも」

 稲乃は豆太の頭を軽くなでた。豆太がくるりと丸まり直す。

 夜風が田を渡っていく。

 そのとき、音がした。

 最初は風の音かと思った。しかし違った。金属が地面を引きずられる音に似ていた。鎌の刃が、石畳を削るような。

 豆太が体をこわばらせた。耳が伏せられ、しっぽの毛が逆立つ。

「姫さま」

「聞こえておる」

 稲乃はゆっくりと立ち上がった。

 音は田の方から来ていた。暗くて何も見えない。神気を伸ばすと、田の水面の上に何かある。形のない、質量のない、しかし確かに存在する何かが、苗の列の上を緩やかに動いている。

 稲乃の神気に触れた瞬間、向こうも気づいたように止まった。

 息を詰めて、稲乃は待った。

 やがて音が遠ざかった。気配も薄れていく。田に残されたのは静けさだけで、しかしさっきまでと同じ静けさではなかった。何かが通り過ぎたあとの、冷たい空気が残っていた。

「刈り取り鬼か」

 稲乃がそう呟くと、豆太が震えながら言った。

「まめ、あれに触れたくないも。あれは怒ってるだけじゃなくて、飢えてるも。ずっと飢えてる何かだも」

「そうじゃな」

 稲乃は田を見つめたまま言った。

 水に混じっていたものと、今の気配は、根が同じだった。どちらも同じ場所から来ている。飢えた怒り。土地に染みついた、古い、長い、飢えの怒り。

 これは凶作の結果ではない。

 怒りが先にあって、凶作はその結果だ。

 廊下を歩く音がして、振り向くと澪芹が立っていた。薄い夜着の上に羽織をかけていて、音で起きたらしかった。

「今の音は」

「刈り取り鬼じゃ。田の近くまで来た」

 澪芹は縁側まで来て、田の暗闇を見た。表情は変わらなかったが、手が帯を少し強く掴んでいた。

「田は大丈夫ですか?」

「今夜は退いた。しかし来ていた」

「……分かりました」

 澪芹は暗い田を見続けていた。稲乃も見ていた。豆太は二人の足の間で、しっぽを股の下に折り込んでいた。

 しばらく、三人とも黙っていた。

 夜風が止んで、田の水がかすかに揺れる音だけが残る。

「澪芹」

「はい」

「あの怒りは、ただの怪異ではない。土地の底から来ておる。水の澱みと、同じものじゃ」

 澪芹は稲乃の方を向かなかった。田を見たまま、穏やかな声で答えた。

「知っています」

「いつから」

「三年前から、感じていました。言葉にできなかっただけで」

 稲乃は澪芹を見た。横顔が夜の中で青白い。

「怖くなかったのか」

「怖かったです」

 澪芹は少し間を置いた。

「でも怖いからといって、田を離れることも社を離れることもできなかった。だからずっと、怖いまま、ここにいました」

 それ以上は言わなかった。

 稲乃は何か言おうとして、言葉が見つからなかった。都で覚えた慰めの言葉は、この少女には似合わない気がした。

 だから黙って、一緒に田を見ていた。

 豆太が小さく呟いた。

「……二人とも、田のことが好きなんだも」

 稲乃は返事をしなかった。

 澪芹も返事をしなかった。

 しかし否定もしなかった。


稲乃は暗い田を見つめたまま、そっと息を吐いた。

あれは、ただ夜に現れる怪異ではない。水に混じる澱みも、田を渡る飢えた気配も、根はひとつのはずだった。

ならば探るべきは、田の上ではなく、そのもっと奥にあるものだ。祭の絶えた社の内に、土地が忘れさせまいとしている何かが残っているのかもしれぬ。

明日、古い記録を読む。社の奥を開き、この土地に何が沈んでいるのか、確かめねばならぬと、稲乃は冷静に心を定めた。


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