第二章 泥に降りる神
田に神通力を向けたのは、翌朝のことだった。
早朝の靄がまだ残る段々田の前に立ち、稲乃は両手をそっと広げた。掌に神気を集め、土の奥へ送り込む。稲荷の姫として身に染みた所作だった。都では何度もやってきた。形だけならば完璧にできる。
あとは実りの力が、土の中で広がればいい。
ただそれだけのことが、起きなかった。
神気は土に届いた。水の冷たさも、苗の根の細さも、指先に伝わってくる。感じ取ることはできる。しかし力の先端が、土に触れたところでぴたりと止まる。広がらない。染み込まない。雨が砂に吸われるように消えて、何も残らない。
稲乃は目を閉じたまま、もう一度試みた。
駄目だった。
三度目も同じだった。
掌を下ろし、ゆっくりと息を吐く。体の奥で、静かな絶望がひたひたと満ちてくるのを感じた。分かっていたことだ。都を出る前から分かっていたのに、それでもほんの少しだけ、この土地に来れば変わるかもしれないと思っていた。
指先には、何も起こらなかったあとの冷えだけが残っていた。
あの日からずっとそうだ。実りを呼ぼうとするたび、力より先に、失敗したときの静けさばかりが体に戻ってくる。
「姫さま、どうだったも」
後ろで豆太が問う。
「……うまくいかなかった」
「そうなんだも」
「しかし今日は体の調子が優れぬだけじゃ。明日には」
「姫さま」
別の声がした。
振り向くと、畦の上に澪芹が立っていた。手に道具箱を持ち、作業着に着替えている。いつからそこにいたのか分からなかった。
「何をしていたんですか?」
「神気を入れておった。田を整えるために」
「どのくらい前から」
「……少しだけじゃ」
「四半刻くらいは立ってましたよ、そこで」
澪芹の声は責めていなかった。ただ事実を述べる調子だった。それがかえって、稲乃の顔に熱を集めた。
「見ておったのか」
「田の様子を見に来たら、神さまが立っていたので」
「なぜ声をかけなかったのじゃ」
「邪魔したら悪いかと思って」
澪芹は道具箱を畦に置いて、田のふちにしゃがみ込んだ。泥の表面を手でなぞり、苗のそばに指を差し入れる。
「根が傷んでいますね」
「わらわが触れたからではないぞ。元からじゃ」
「分かってます。これは前から痛んでた」
澪芹は指を引いて、泥を手ぬぐいで拭いた。それから立ち上がり、稲乃を見た。
「神さまの神通力では、田は実りませんか」
直接な問いだった。
稲乃はしばらく黙っていた。否定したかった。しかし澪芹の目には隠し事が通じない気がして、それが不愉快だった。
「……今は、うまく働かぬ部分がある」
「そうですか」
「しかしすぐに取り戻す。時間の問題じゃ」
「そうですか」
「怒らぬのか。失望したとか、やはり神などあてにならぬとか」
「失望してたら昨日で十分でした」
澪芹は道具箱を持ち上げた。
「田のことをお話しします。神通力だけでは実らないので、現実のことを知ってもらわないと困ります」
澪芹の話は長かった。
水の流れること。苗代の管理。畦の補修。日当たりと水位の関係。土が何年も続いた不作でどれほど痩せているか。どこから水を引いて、どこで詰まっていて、どの田が特に手当てが必要か。
稲乃は腕を組んで聞いていた。神気で土の状態を読める分、澪芹の言うことの意味は分かる。しかし人間がこれほどの細かさで田を見ているとは、都にいたときには考えたこともなかった。
「苗代が三枚あって、このうち南の一枚だけ水はけが悪い。だから根が傷みやすい。今は浅めに水を張って様子を見ています」
「どうして深く張らぬのじゃ」
「深くすると水温が上がりにくい。今の時季は根に冷たい水を長く当てるより、浅く温めた方が伸びます」
「……なるほどの」
知らなかった、とは言わなかった。しかし分かるとも言わなかった。
澪芹は稲乃の顔を少し見て、何かを判断したようで続けた。
「神通力が使えるようになったとしても、土台が整っていないと実りません。田は丁寧に扱わないと答えてくれない。それは神さまでも人間でも同じだと思います」
「偉そうなことを言うのじゃな、そなたは」
「事実を言っています」
言い返す隙がない。稲乃は少し唇を曲げた。
「……分かった。手伝う」
「え」
澪芹が初めて、驚いたような顔をした。
「神がこんなところで泥まみれになるのは癪じゃが、状況が状況じゃ。手伝えばよいのじゃろう、田を」
「……神さまが、田に入るんですか」
「何か問題があるか」
「ないですけど」
澪芹はしばらく稲乃を見ていたが、やがて道具箱から手拭いと小さな鎌を出した。
「裾を絡げて、草鞋は脱いで入ってください。ぬかるんでいるので転ばないよう」
「転ぶわけがなかろう」
「神さまがそう言うのなら」
返事は静かだったが、何か含んでいる気がした。
冷たかった。
素足が泥に沈んだ瞬間、稲乃は声を出しそうになった。水と泥が混じった底の感触が足裏に広がり、地面が確固としてなく、踏み込むたびに沈む。
これが田というものか。
都で田を祝福することはあった。しかし自分で立つのは初めてだった。豊穣の神が、実りを与える田の泥に足を取られているとは、都の者が見たら何と言うか。
「畦に沿って歩いてください。真ん中はぬかるみがひどい」
澪芹が指示を出す。自分は既に膝近くまで泥に入っていて、手際よく苗のそばの草を取り除いている。
稲乃は慎重に足を進めた。一歩、また一歩。泥が足首を包み、冷たさが足の裏から膝へ上がってくる。
そこで、足が滑った。
「っ」
声が出た。体が傾いて、とっさに手をついた。掌に泥が広がり、白い袖の先に黒い泥がべったりとついた。
「大丈夫ですか?」
澪芹が近づいてくる。稲乃は顔を上げて、澪芹の目と合った。
「問題ない」
いや、大いにあった。装束の袖に泥がついている。神の衣が、田の泥で汚れている。恥ずかしさと悔しさが混ざって、顔が熱い。
「手を」
澪芹が手を差し伸べた。
稲乃は一瞬、躊躇した。神が人間に手を引かれるなど、本来あってはならない。しかし足元が定まらない。澪芹の手は揺れずにそこにある。
稲乃は澪芹の手を掴んだ。
細い指だった。しかし力があった。豆太が感心した顔でこちらを見ているのが視界の端に映って、稲乃は顔を背けた。
「……礼は言わぬぞ」
「言わなくていいです」
澪芹は手を離した。それだけで、また田の草取りに戻っていく。
その日、稲乃は半刻ほど田に立った。
草を取り、詰まった水路の泥をかき出し、傾いた畦の土を補修する。どれも神の仕事ではなかった。しかし手を動かすうちに、土の状態が掌から直に伝わってくる感覚があった。神気を通じてではなく、素手の感触として。
土が疲れている。何年も実りを絞り出されて、根を育てる力が残っていない。
水が澱んでいる。ただの不純物ではない。怨みに似た何かが薄く混じっている気がした。
しかしそれは今日の問題ではない。今日は苗が生きているかどうかの問題だ。
稲乃はそのことを黙って考えながら、草を引き続けた。
昼近くになって、澪芹が水を持ってきた。椀に入った素朴な湯冷ましで、都で稲乃が飲むものとは比べようもなかったが、冷えた体には温かかった。
「飲んでください」
「……もらう」
稲乃は畦の石に腰を下ろして、椀を受け取った。一口飲んで、顔を上げると、澪芹も隣に座っていた。
二人で、田を見た。
苗は細く、頼りなかった。しかし倒れてはいない。水は濁っているが、流れている。
「手当てをすれば、応えますか?」
稲乃は問いながら、自分でも誰に向けて言っているか分からなかった。
澪芹は少しの間、田を見ていた。
「分かりません。でも、諦めて何もしないよりは」
「……そうじゃな」
泥のついた掌を、稲乃はそっと握った。袖の汚れは落ちないだろう。足先の冷たさはまだ残っている。神として、これが正しい姿だとは思わない。
しかし澪芹が手を差し伸べたことだけが、なぜか、とても鮮明に残っていた。
豆太が草の上で丸まりながら、しっぽを揺らしていた。
「今日のおいなさま、いつもより少し、神さまっぽかったも」
「どういう意味じゃ、それは」
「田に立ってたから。地べたに立つ神さまって、まめは好きだも」
稲乃は黙った。
澪芹の方を見ると、椀を持ったまま、どこかを見ていた。田か、山か、あるいは何も見ていないか。その横顔には、今朝の冷たさとは少しだけ違う何かがあった。
稲乃にはそれが何か分からなかった。しかし、また明日も田に来ようと思った。神通力のためではなく、もっと別の、言葉にならない理由で。
ただ、田に立ったからこそ分かることもあった。
土の疲れだけではない。水の奥に、薄く澱んだものがある。掌で触れたとき、苗ではなく、その下を流れるものの方が気にかかった。
このまま田を繕うだけでは足りぬのかもしれぬ。
どこから来て、何が混じっているのか。明日は水を辿るべきじゃ、と稲乃はそっと胸の内で決めた。




