第一章 追放された稲荷姫
神でありながら、迎えのひとつもないとは思わなかった。
山あいの村へ続く細道の先、夕靄のなかに見えた社は、あまりにも荒れていた。朱は剥げ、注連縄は痩せ、石段の隅には去年の枯れ葉が吹き寄せたまま残っている。豊穣を司る稲荷の姫を呼びつけておいて、この扱い。失礼にもほどがある、と稲乃は思った。
「……ほんに、辺境というのは礼も知らぬのじゃな」
誰に聞かせるでもなく呟いて、稲乃は袖を払う。
白と薄紅の装束に塵が舞うのが気に入らなかった。髪飾りの稲穂意匠が夕日に光るのはよかったが、淡い亜麻色の髪と、稲穂の先のような琥珀の瞳は、本来ならもっとましな場所で人目を集めるためのものだった。都ならば下位の眷属がずらりと出迎えるところだが、この村には社すら碌に掃かれていなかった。
そのとき、境内の奥から箒の音がした。
しゃ、しゃ、と乾いた音を立てて現れたのは、巫女姿の少女だった。白い小袖に浅葱の袴。飾り気のない身なりなのに、夕暮れの薄青い光の中では妙に目を引いた。黒髪をきちんと後ろで結んだその顔立ちは華やかではなかったが、灰青の瞳の静けさのせいか、妙に視線を引きとめるものがあった。袴の裾がほつれていることも、小袖の肘のあたりに継ぎ当てがあることも、稲乃の目にはすぐ入った。
少女は稲乃を見て、一瞬だけ手を止めた。
けれど驚いたのはその一瞬だけで、すぐにまた、冷えた水のような目に戻る。
「あなたが、都から来た神さまですか?」
歓迎の色は、声にも顔にもなかった。
「そうじゃ」
稲乃は精一杯、威厳を込めて答えた。
「わらわは稲荷の神、稲乃じゃ。此度、この地を預かることになった。今後はよく仕えるがよい」
「……はあ」
少女は短く、どこか気の抜けた声を出した。それから視線を石段の上に戻し、また箒を動かし始める。
「待て」
「なんですか?」
箒を止めもせず応じる態度が、稲乃の癇に障った。
「仕えるのであれば名を名乗るものじゃろう。そなた、名は」
「澪芹です」
それだけ言って、また箒を動かす。しゃ、しゃ、しゃ、と石段の砂が境内の端へ掃き出されていく。
「澪芹。わらわが来たのじゃぞ。箒を置いて、きちんと迎えを」
「掃き終わってからでいいですか? ここ、毎日やらないとすぐ積もるので」
稲乃は言葉に詰まった。
こんな巫女は、都では見たことがなかった。神が来れば皆、おそれ入るか、喜んでひれ伏すかのどちらかだった。面倒だと顔に書いた人間に神事を続けられるとは、思ってもみなかった。
「……好きにせよ」
稲乃は石段の端に腰を下ろし、夕暮れの山里を見渡した。
山に囲まれた小さな村だった。田は段々に並び、どれも青く見えるが、その青には力がない。育ちきれずにいる苗の気配が、稲乃の神気を通じてぼんやりと伝わってくる。水路の流れも澄んでいない。土も何年も疲れている。
これが、わらわの左遷先か。
胸の奥で、冷たい何かが沈んだ。
都の高座では「実りを呼べぬ稲荷姫」と半ば笑いものにされていた。ある日の神事での失態以来、稲乃の神通力の中で実らせる力だけがうまく働かなくなっていた。周囲はそれを隠してくれるわけでも助けてくれるわけでもなく、ある上位神の言葉で、稲乃はこの辺境の地へ送られることになった。
失敗の責任を取れ、とは言わなかった。ただ「あの村を頼む」と言った。その言い方が、かえって惨めだった。
「姫さまぁ」
境内の端から、こそこそとした気配が近づいてくる。
振り向くまでもなく、稲乃にはそれが誰か分かった。石畳の上を、丸い茶色い塊が転がるように走ってくる。頭に葉をのせ、小さな前掛けをつけた、たぬきの眷属。
「豆太」
稲乃は思わず少し眉を和らげた。
この小さな眷属だけは、稲乃が都を離れる前から、ずっとそばにいる。土地の古い野の眷属で、力はほとんどないが、なぜか稲乃が気に入っていた。
「境内は見てきたか」
「見てきただも。社の裏も、倉のまわりも、誰もおらんだも」
「のう、豆太。この村には、わらわを出迎える者すらおらぬのか」
「んー、ここにはおらんけど、集落の方にはおるちゃおるんだも。でも皆、田仕事から戻ったばっかりで。それに……」
豆太はしっぽを揺らして、少し声を落とした。
「神さまに期待するのに疲れてる人が、多いんだも」
「……なんと言ったのじゃ」
「だから、疲れてるって言ったも。もう何年も不作だから、神さまがまたいらっしゃっても、どうせって思ってる人が多いんだも。まめが正直に言うと」
「よい。聞いた」
稲乃は視線を田へ戻した。暮れかけた山の稜線が、田の上に影を落としている。
しゃ、しゃ、と箒の音が続いている。澪芹は一度もこちらを見ない。
その夜、稲乃は社の一室に通された。畳は古く、欄間には煤が積もっていたが、布団だけは澪芹が丁寧に整えたらしく、清潔だった。
灯籠に火を灯し、澪芹は下がろうとした。
「待て」
稲乃は呼び止めた。
「この村は、今年実りが得られなければどうなるのじゃ」
澪芹は少しの間、答えなかった。
「捨てられます」
囁くような声だった。
「長が、今年駄目なら若い者を全員下ろすと決めました。もう何年も続いてますから。村に残るのは、動けない年寄りだけになる」
「……それを分かっておって、そなたはなぜここにいるのじゃ。若いのに」
「巫女だから」
澪芹はそれだけ言った。灯籠の明かりが、少女の横顔を照らしている。
「祖母がここで巫女をしていました。社を最後まで守れと言い遺して、死にました。だから私はここにいます」
「信仰があるのじゃな」
澪芹は少し間を置いた。
「……分かりません」
「分からぬとは」
「信じたいとは思っています。でも」
少女の目が、正面から稲乃を見た。灰青の瞳が、灯籠の光に揺れる。
「神さまに期待するたびに、田は枯れました。祖母は祝詞を上げながら飢えました。だから正直に言うと、もう神さまには期待していません」
声に棘はなかった。むしろ穏やかで、だからこそ重かった。
稲乃はしばらく黙っていた。
怒りたかった。神を前にして何という物言いかと、どなりつけたかった。しかし、どなりつける言葉が出てこなかった。
「……下がってよい」
「はい。おやすみなさい」
澪芹は深く礼をして、障子を閉めた。
廊下を歩く足音が遠ざかって、静かになった。
稲乃は暗くなっていく部屋の中で、膝に手を置いたまま、しばらく動かなかった。
翌朝、村人の何人かが社に挨拶に来たが、その目はどれも人形の目に似ていた。
その中に、白髪をきっちり結った年嵩の女がいた。小さな籠に干からびかけた柿を二つだけ載せて、神前に置く。供物と呼ぶにはあまりに乏しい品だったが、女の手つきだけは崩れなかった。
「山のものですが」
それだけ言って、女は深く頭を下げた。顔を上げたときの目は、稲乃を見ているようで、見ていなかった。恨んでいるのでも、すがっているのでもない。ただ、もう何も預けまいとしている目だった。
置かれた柿を見て、稲乃は何も言えなかった。あれは信心の名残ではあるのだろう。しかし祈りではなかった。昔そうしていたから、今もそうしただけ。途切れかけた細い糸を、惰性で指に巻きつけているような供え方だった。
都では、見栄えのする供物がいくらでも並んだ。
それなのに、今この干からびかけた柿二つの方が、よほど重く見えた。
礼儀だけがあって、中身がない。何年もの不作が、祈ることすら疲れさせてしまったのだろうと、豆太が小声で教えた。
「神さまに怒ってるんじゃなくて、神さまを信じる自分に怒ってるんだも、あの人たちは」
「難儀なことを言うものじゃ」
「でも本当のことだも」
稲乃は境内の端に立って、朝の田を見渡した。靄が棚引いて、段々田がぼんやりとしか見えない。
そのとき、澪芹が水桶を抱えて社の裏から出てきた。社の水場の管理をしているらしく、桶を下ろして手ぬぐいで手を拭く。稲乃を見てわずかに目を細めたが、それだけで何も言わなかった。
「澪芹」
「なんですか?」
「この田のこと、詳しく聞かせてたもれ。水路、苗、土の具合。わらわに教えよ」
澪芹は少しだけ、稲乃の顔を見た。何かを測るような目だった。
「どうするつもりですか?」
「どうするつもりとは何じゃ。実りをもたらすのじゃ。それがわらわの役目じゃろう」
「……神通力で、田を実らせられるんですか?」
一瞬、稲乃の胸に何かが刺さった。喉の奥がひやりと縮み、袖の内で指先が浅く掌に食い込む。都で幾度も向けられた視線が、言葉より先に肌の上へよみがえった。しかし顔には出さない。
「当然じゃ。わらわは稲荷の姫ぞ」
「そうですか」
澪芹は答えて、水桶を再び持ち上げた。
「では、秋までに実るといいですね」
それだけ言って、社の中へ戻っていく。
淡々とした言い方だった。見下しているわけでも、信じているわけでもない。ただ事実を確かめただけのような言い方だった。だからかえって、稲乃の中で何かが逆立った。
「豆太」
「なんだもか、姫さま」
「よいか」
稲乃は声に力を込めた。
田に、山に、澱んだ空気に向けて。そして何より、障子の向こうへ消えた少女の背中に向けて。
「わらわが秋までに、この村を実らせてみせる」
宣言した声は、朝靄の中に吸い込まれていった。
豆太は葉をずらしながら、しっぽを揺らした。
「姫さまがそう言うなら、まめは信じるだも……でも、田って泥の中に入るやつだも。その装束、きっと汚れるだも」
「神がそんなところに入るはずがなかろう」
「あ、そうなんだも」
豆太のしっぽが、少し垂れた。
稲乃はそれを見ないふりをして、田のほうを向いたまま、袖をきゅっと握った。
信じたいんです、と澪芹は言った。でも、信じた先で何も残らなかったらと思うと怖い、と。
わらわも同じじゃ、とは思わなかった。思わないようにした。
ただ、秋までに実らせると決めた。神としてではなく、何か別の、もっと意地の張り方に似た気持ちで、稲乃はそう決めた。




