最終章 実りの名を呼ぶ(前編)
収穫が終わったのは、昼過ぎのことだった。
最後の一束を早苗が刈って、田の縁に置いた。それから誰も動かなかった。
刈り取られたあとの田が、静かだった。株だけが残って、水が張ったままになっている。穂の重さがなくなった田は、来たときより広く見えた。
誰かが泣いた。
昨日も泣いた老いた女だった。今日は声を上げなかった。ただ、立ったまま泣いていた。その隣の男も、目を赤くしていた。
早苗が最後の束を持ったまま、稲乃を見た。
「終わったよ」
「ああ」
「全部刈れた」
「ああ」
「西の一列は駄目だったけど、他は全部」
「ああ」
早苗は束を田の縁に置いた。それから顔を上げて、空を見た。
「……神さまに言いたいことがある」
「言え」
「来てくれてよかった」
稲乃は早苗を見た。
「来ない方がよかったって、最初に言ったやつが」
「言った。でも今日は違うことを言う」
早苗は稲乃を見た。
「来てくれてよかった。本当に」
稲乃は答えられなかった。
早苗が先に目を逸らして、積み上がった稲束の方へ歩いていった。
収穫を終えた稲束を、村人たちが運んだ。
束ねて、背負って、乾かすための場所へ運ぶ。稲乃も手伝った。澪芹も手伝った。豆太は邪魔にならないよう道の端を走りながら、ときどき転んだ。
鈴那が脱穀の準備を手伝いながら、稲乃に言った。
「今夜、都の使いが来ると思う」
「分かっておる」
「葛葉さんも同じことを言っていた」
「そうじゃな」
「覚悟はできている」
「ある」
鈴那は稲乃を見た。
「後悔しない」
「しない」
「……よかった」
鈴那はそれだけ言って、脱穀の道具を動かし始めた。
夕方に、葛葉が来た。
社の鳥居の前に立って、稲乃を呼んだ。澪芹も縁側にいたが、葛葉は稲乃だけに声をかけた。
「話があります」
「分かっておる」
二人で鳥居の内側に立った。
「今夜、都から使いが来ます」
「何人来るのじゃ」
「上位神の使いが一人と、眷属が数人。稲乃さまを連れ戻しに来ます」
「連れ戻す、か」
「そういう言葉を使うということは、帰らないことを前提にしているということですが」
「そうじゃ」
葛葉は稲乃を見た。細い目の奥が、珍しく穏やかだった。
「稲乃さまの決めたことを、わたくしは止めません。しかし一つだけ聞かせてください」
「なんじゃ」
「都に対して、どう説明するつもりですか」
稲乃は少し考えた。
「この土地の神気が完全には戻っていない。穰津彦の呪いの残滓が、まだ土地に薄く残っておる。それを清めるには時間が要る。その間、この土地を見守る者が必要じゃ」
「それが理由ですか」
「嘘ではない」
「本当のことでもないですね、全部は」
「全部は、の」
葛葉は少し笑った。
「理由として成立はします。都もすぐには動けない。穰津彦のことは葛葉が記録を送っているから、土地の問題として認識されている。しばらくは認められるでしょう」
「しばらくは、か」
「ずっとは難しい。しかし、しばらくの間に何かが変わるかもしれません」
「そなたは何かを知っておるのか」
「いくつか、動かしていることがあります」
「葛葉」
「詳しくは言えませんが」
葛葉は稲乃を見た。
「稲乃さまがここに残ると決めたなら、わたくしも動きます。それがわたくしの仕事です」
稲乃は葛葉を見た。
「……ありがとうの」
「先ほども同じことを言いましたね」
「また言うておる」
「お礼はいりません。見届けると最初から言っています。見届けることが、今はここに残ることを手伝うことになっただけです」
葛葉は鳥居の方へ向いた。
「使いが来たとき、稲乃さまは本殿の前に立っていてください。わたくしが最初に話します」
「葛葉に任せてよいのか」
「任せてください。これが得意なのはわたくしの方です」
稲乃は葛葉を見た。
「葛葉は、策士じゃな」
「眷属はそういうものです」
葛葉は微かに笑って、社の外へ出ていった。
夜になった。
境内は昼の名残をすっかり失い、社のまわりには山の冷えた空気が下りていた。収穫を終えた田は静かだった。昼間あれほど満ちていた人の声も、今は遠く、家々の灯りだけが村にぽつぽつと残っている。
豆太が境内の端で、耳をぴんと立てた。
「来るだも」
「分かっておる」
稲乃は本殿の前に立った。白い装束を整えた。髪飾りの稲穂意匠を指先で直し、背筋を伸ばす。泥の田に入るときとも、縁側で新米の匂いを嗅ぐときとも違う、神として立つ形だった。
澪芹が本殿の横へ来た。火を落とした境内で、その顔だけがほのかに白く見える。
「一緒にいていいですか」
「いてくれ」
澪芹は黙って頷いた。
その横顔は穏やかだったが、帯の端を握る指先に力が入っていた。
鳥居の外に、気配が来た。
人の足音というには乱れがなく、しかし神のそれほど軽くもない。都からの使いらしい気配だった。境内の空気が、目に見えぬところでぴんと張る。
葛葉が鳥居の前に立った。
白い髪が夜気の中に淡く浮いている。境内と外とを分けるように、鳥居の正面にまっすぐ立ち、外の気配と向き合った。
ややあって、声が聞こえた。
都の発音だった。
やわらかいようでいて、音の端がきちんと揃っている。遠回しな言い方をしているが、要は明白だった。
――稲乃さまを迎えに参った。
――この地の任は果たされた。
――呪いは鎮まり、収穫も済んだ。
――ゆえに、速やかに都へお戻りいただきたい。
澪芹が小さく息を呑んだのが、隣で分かった。
葛葉の声が返った。
低く、しかし明確な声だった。
「まだ済んではおりません」
外の声が何か言う。
任は収穫までのものだったはずだ、と。あくまで臨時の守りであり、長く留まる理由にはならない、と。都の裁定はすでに下っている、という調子だった。
葛葉は一歩も退かなかった。
「収穫が済んだことと、土地が立ち直ったことは同義ではありません」
その声には、感情より先に理があった。
「呪いは鎮まりました。ですが、土地の神気はまだ不安定です。今年の実りは、穰津彦の残した願いと、稲乃さまの神気と、この村の手がようやく噛み合って得られたもの。来年の種籾を選び、土を鎮め、水脈を落ち着かせるところまで見届けねば、この地が本当に戻ったとは申せません」
外の声が、やや強くなった。
それは都の命に異を唱えるのか、という響きだった。
この地の先を案じるとしても、それは後任の神職に任せればよい、稲乃をここに留める理由にはならぬ、と。
葛葉の尾の先が、夜の中でわずかに揺れた。
「では、お尋ねします」
あまりにも丁寧な声音だった。
丁寧すぎて、かえって鋭かった。
「今ここで稲乃さまをお戻しになったのち、来年この地に乱れが生じた場合、その責はどなたがお取りになるのですか」
外の声が止まる。
「今年だけ実ればよい、と都が正式にお考えなら、それでも構いません。ですが、その判断によってこの地の実りが再び損なわれたとき、都の裁定がそれを招いたのだと、わたくしはそのまま申し上げねばなりません」
澪芹が稲乃の横で、さらに息を詰めた。
稲乃自身も、目を離せずにいた。
葛葉は続けた。
「稲乃さまは、この土地の呪いを鎮めただけではありません。ここへ根を下ろしかけた神気を、ようやく実りへつなげたのです。今動かせば、その結び目がほどける可能性がある。それを承知でお迎えになるなら、以後この地に起きることは、都のご判断の結果ということになります」
外の声が、今度は明らかに押し返してきた。
怒りではない。だが、都の名を背負う者が退くまいとしている声だった。
ここで長く留める前例は作れぬ、ということだろう。
稲乃はそう聞き取った。
葛葉はそこで、ようやく半歩だけ前へ出た。
「前例の話ではございません」
穏やかな声だった。
「この地は百年、捨て置かれました。ようやく取り戻しかけた実りを、また都の都合で崩すおつもりですか。もしそうであれば、そのお言葉をそのまま、この土地の神前へ置いていっていただきたい」
長い沈黙があった。
夜の境内に、風がひとつ通った。収穫を終えた田の上を渡ってきた風だった。昼の熱を失った土の匂いが、少しだけ冷たく流れる。
外の気配が、わずかに変わった。
押し返す強さはまだある。だが、先ほどまでの断定ではなくなっていた。
再度、声がした。
今度は先ほどより低い。問いただすような調子だった。どこまでの猶予を求めるのか、ということらしかった。
葛葉はためらわなかった。
「少なくとも、来年の田の立ち上がりを見届けるところまでです」
澪芹がはっとして、隣で目を見開いた。
「種籾の選別、冬越しの土の鎮め、水脈の安定、春の苗代。そこまでをひと続きの任として扱わねば、この地の再生は不完全です。今年の秋だけで終えたことにはできません」
また沈黙が落ちた。
豆太が、境内の端でしっぽを体に巻きつける。
稲乃は澪芹の方を見なかった。見れば、互いの顔に出ているものが見えすぎる気がした。
やがて、鳥居の向こうで足音がした。
遠ざかる足音だった。
張りつめていた境内の空気が、ほんの少しだけ緩む。
葛葉はしばらくその場を動かなかった。完全に気配が去るのを待ってから、ようやくこちらへ向き直る。
「どうじゃ」
稲乃が問うと、葛葉は鳥居をくぐって境内へ戻ってきた。
「しばらくの猶予を取りました」
いつもの落ち着いた顔だった。
だが、袖の内に隠れた指先だけが、わずかに強張っている。
「土地の神気の問題が完全に落ち着くまでの間、稲乃さまがここに残ることを認めさせました。来年の田の立ち上がりまでを、今回の任のうちとする形です」
澪芹が、すぐには声を出せなかった。
稲乃も、返事が少し遅れた。
「……それは」
「一年です」
葛葉がはっきりと言った。
「少なくとも、一年はここにいられます」
夜気が、急に肺へ入ってきた気がした。
張っていたものがほどけると、人はうまく言葉を出せなくなるらしいと、稲乃は場違いに思った。
澪芹が横で、小さく息を吐いた。
安堵の息だった。けれど、そのあとすぐに口を閉じた。喜びすぎるのをためらっているようでもあった。
稲乃は葛葉を見た。
「……無茶を言うたのではないか」
「少しは」
葛葉はあっさり答えた。
「ですが、嘘は申しておりません。この地は、まだ稲乃さまを必要としています」
豆太が、ようやくそこで飛び跳ねた。
「一年だも! 一年いられるだも!」
「騒ぐでない」
言いながら、稲乃の声は思ったより弱くならなかった。
澪芹がそっと顔を上げた。
月明かりの下で、灰青の瞳がまっすぐ稲乃を見る。何か言いたそうで、けれど言葉にしきれない顔だった。
稲乃はその視線を受け止めてから、ようやく小さく息を吐いた。
「……聞いたであろう、澪芹」
「はい」
「しばらくどころではなかったの。来年までじゃ」
澪芹は一度、瞬きをした。
それから、ごく小さく笑った。
「はい」
その返事を聞いて、稲乃はようやく肩の力を抜いた。
収穫の夜とも、祭の夜とも違う静けさが、境内に落ちていた。失うかもしれなかった時間が、ひとまず手の中へ戻ってきたあとの静けさだった。
「今は一年です。しかし一年の間に、都の側の状況も変わるかもしれません。わたくしが動かしていることが実れば、もっと長くなる可能性があります」
稲乃は葛葉を見た。
「葛葉、そなたは」
「わたくしは眷属です。稲乃さまが選んだ道を、歩きやすくするのが仕事です」
「そんなことを言うておったか、最初から」
「言っていませんでしたが、今はそう思っています」
葛葉は少し視線を外した。
「この土地が気に入ってしまったので」
豆太が葛葉の足元に来た。
「きつねさまって、本当は優しいんだも」
「うるさい狸ね」
「でも優しいだも」
「……黙って」
葛葉は顔を背けた。その顔の端が、少し赤かった。稲乃は見なかったふりをした。
鈴那と早苗に、使いが来て帰ったことを伝えた。
鈴那は「よかった」と言った。
早苗は「一年か」と言った。
「一年は短い」
「しばらくの間はそうじゃ。しかし何も保証のない明日よりは、一年の確かさの方がよい」
「そうかな」
「そうじゃ」
早苗は少し考えて、言った。
「一年あれば、また収穫できるね」
「ああ」
「今年実ったんだから、来年も実るよ」
「そうじゃな」
「じゃあ一年でいい」
早苗は少し口を曲げた。
「一年経ったらまた交渉する」
「交渉するのはわらわじゃ」
「神さまだけに任せておけないもん」
「心配するな」
「するもん。神さまって、交渉が下手そうだから」
「葛葉がいる」
「葛葉さんがいれば大丈夫か」
早苗は少し考えた。
「……大丈夫かな」
「大丈夫じゃ」
早苗は稲乃を見て、少し笑った。
「じゃあ、来年の収穫もよろしく頼みます、神さま」
「任せよ」
早苗は踵を返して、村の方へ帰っていった。その背中が、来た頃より大きく見えた。気のせいかもしれなかったが、稲乃にはそう見えた。
夜が深くなった。
社の縁側に、稲乃と澪芹が並んで座った。豆太は眠っていた。葛葉は部屋に入っていた。鈴那は帰っていた。
二人だけになった縁側で、田を見た。
刈り取られたあとの田に、水が張っている。月が水に映っている。株だけが残って、穂の重さがない田は、静かだった。
しかしその静けさは、稲乃が来た日の静けさとは違った。
来た日の静けさは、疲れの静けさだった。何年も絞り続けられた土地の、諦めに似た静けさだった。
今夜の静けさは、違った。
休んでいる静けさだった。今年の役目を終えて、次の年に向けて眠っている土地の静けさだった。
風が、ひとつ通った。
収穫を終えた田の匂いが、夜の冷たさに混じって届く。
しばらく、どちらも口を開かなかった。
先に息を吐いたのは、澪芹だった。
張っていた糸が、そこでようやく少しだけ緩んだように見えた。
「……よかった」
ほんとうに小さな声だった。
稲乃は澪芹を見た。
灰青の瞳が、月明かりの下でわずかに揺れている。泣いてはいない。けれど、泣く手前の顔だった。
「そんなに案じておったか」
澪芹はすぐには答えなかった。
目を伏せて、帯の端を指先で整える。いつもの癖だった。
「案じます」
やがて、穏やかな声で言った。
「……都の方が来ると聞いてから、ずっと」
稲乃は何か返そうとして、少しだけ言葉を失った。
嬉しいとも、すまぬとも、簡単には言えなかった。
「わらわは、すぐに連れて行かれるつもりはなかった」
「はい」
「でも、そうなるかもしれぬとは思っておった」
「はい」
澪芹は頷いた。
責める気配はなかった。ただ、知っていたのだと言うように。
稲乃は一歩だけ、澪芹の方へ近づいた。
「澪芹」
「はい」
「一年じゃ」
澪芹が顔を上げる。
「来年の田の立ち上がりまで、ここにおれる」
「はい」
「だから……」
そこで稲乃は少しだけ言葉に詰まった。
神として命じるのは簡単だった。けれど今言いたいのは、そういうことではなかった。
「だから、そなたも」
澪芹は黙って待っていた。
急かさず、助け舟も出さず、ただ待つ。その待ち方が澪芹らしかった。
「……その顔をするな」
ようやく出た言葉がそれで、澪芹は一瞬きょとんとした。
「どんな顔ですか」
「泣きそうな顔じゃ」
「していません」
「しておる」
「していません」
小さく言い返してから、澪芹はほんの少しだけ笑った。
それを見て、稲乃の胸の奥にあった固いものも、やっと少しほどけた。
「ならよい」
そう言って、稲乃は手を伸ばした。
澪芹の袖口を、指先でほんの少しだけつまむ。
強くではなく、確かめるみたいに。
「一年あれば、できることも増える」
「はい」
「田も、社も……まだ整えねばならぬしの」
「はい」
「だから、そなたには、まだそばにいてもらう」
澪芹は袖を引かなかった。
月明かりの下で、まっすぐ稲乃を見返す。
「……一年では足りません」
「足りぬか」
「足りません」
「では来年また交渉する」
「私もですか」
「そなたが一番、口が立つじゃろう」
澪芹は少しだけ眉を寄せ、それから小さく息をついた。
「……それなら、ちゃんと考えておきます」
稲乃は澪芹を見た。澪芹は田を見ていた。頬が、月明かりにしては少し赤かった。
「澪芹」
「はい」
「秋になったら言葉を持ってくると言うておったの」
澪芹が止まった。
「……覚えていましたか」
「覚えておる」
「そうですか」
「秋になった」
「……なりましたね」
「収穫が終わった」
「終わりました」
「言葉を持ってこないのか」
澪芹はしばらく田を見ていた。
稲乃は待った。
田の水が揺れた。風が来たのではなかった。ただ、かすかに揺れた。
「稲乃さまは」
澪芹が口を開いた。
「わらわがなんじゃ」
「私のそばにいたいと、思いますか」
「思う」
「どのくらい」
「はかれぬ」
「どうして」
「はかる方法を知らぬ。ただ、思う。それだけじゃ」
澪芹は田を見たまま、続けた。
「私も同じです。どのくらいとは言えません。ただ、稲乃さまがいなくなることが、田が枯れるより怖い」
「田より怖いのか」
「田より怖いです」
「それは大事じゃな」
「大事です」
「…………」
「稲乃さま」
「なんじゃ」
澪芹が稲乃を見た。
灰青の瞳が、月明かりの中にあった。来たときと同じ色だった。しかし来たときとは違う目だった。今夜の目は、迷っていなかった。怖れてもいなかった。
「稲乃」
名前だけで呼んだ。
神さまでも、稲乃さまでもなく、稲乃、と。
稲乃は動けなかった。
名前を呼ばれたことが、都では一度もなかった。都では姫さまと呼ばれ、稲乃さまと呼ばれた。名前だけで呼ぶ者は、いなかった。
しかし今夜、澪芹が呼んだ。
稲乃、と。
「……なんじゃ」
声が、少し揺れた。
「傍にいてください」
「おる」
「ずっと」
「おる」
「約束しますか?」
「する」
「どんなことがあっても?」
「どんなことがあっても」
澪芹は稲乃を見続けていた。
稲乃は澪芹を見続けていた。
月が田の上にあった。穂のない田が、静かに月を映していた。穰津彦の怒りも、都の文も、今夜の縁側には来なかった。
稲乃は澪芹の手を取った。
細い手だった。田の泥を何十日もかき出した手だった。祝詞を上げながら穰津彦に向き合った手だった。稲乃が倒れたとき手当てをした手だった。
「澪芹」
「はい」
「そなたは、来たときよりずっと近い」
「どのくらい近いですか?」
「手が届く」
「最初から届きましたが」
「そうではなく」
「分かっています」
澪芹は少し笑った。
「分かっていて言いました」
稲乃は澪芹を見た。
「からかうのか」
「少しだけ」
「神をからかうのか」
「稲乃をからかっているんです」
また名前だけで呼んだ。
稲乃は何も言えなかった。しかし手を離さなかった。
澪芹も離さなかった。
袖はもう離れていたが、つないだ手はそのままだった。
「……そうか」
「はい」
「なら、明日からも働け」
「神さまもです」
「わらわは神じゃ」
「知っています」
また少しだけ、澪芹が笑う。
今度の笑みは、さっきよりやわらかかった。
そのとき、豆太の声がした。起きたようだ。
「二人とも、まだそこにいるだも?」
澪芹がそちらを見て、稲乃が小さく舌打ちする。
「空気を読まぬたぬきじゃ」
「豆太ですから」
「……そうじゃな」
そう言ってから、稲乃はもう一度だけ澪芹を見た。
「澪芹」
「はい」
「今夜は、ちゃんと休め」
「稲乃さまも」
短い答えだった。
けれどその一言が、今はとてもあたたかく聞こえた。




