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実りを失った稲荷姫は、呪われた村で祈りを耕す〜もふもふ眷属に見守られ、神さまは今日も泥まみれ〜  作者: 明石竜


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最終章 実りの名を呼ぶ(後編)

 夜が明けていった。

 東の山の端が白くなり始めた。田に朝の光が差し込んできた。刈り取られた株が、朝露を光らせていた。

 豆太が目を覚まして、伸びをした。

「おはようだも」

「ああ」

「二人とも起きてたんだも」

「ああ」

「ずっと」

「ああ」

 豆太は稲乃と澪芹を交互に見て、それからにっこりした。たぬきがにっこりするとはどういう顔かと言えば、ひげが少し上がって、耳が前に向いて、しっぽが一度大きく振れる、そういう顔だった。

「よかっただも」

「何がじゃ」

「全部だも」

 稲乃は豆太の頭を叩こうとした。豆太が避けた。稲乃が追いかけた。豆太が縁側を走った。澪芹が笑った。

 社の中に笑い声が響いた。

 葛葉が部屋から出てきて、縁側の騒ぎを見た。

「朝から何をしているの」

「豆太が逃げるのじゃ」

「逃げてないも。避けてるだも」

「同じじゃろう」

「違うだも」

 葛葉は少し目を細めた。

「……随分、賑やかになったわね、この社」

「来た頃とは違うのぅ」

「全然違う」

 葛葉はそれだけ言って、縁側に腰を下ろした。豆太が葛葉の足元に来た。

「きつねさまもいていいだも」

「いる」

「ずっといていいだも」

「……しばらくはいるわ」

 稲乃は葛葉を見た。葛葉は田を見ていた。その顔が、都にいたときより少し、力が抜けていた。

 澪芹が台所へ向かった。

「朝餉を作ります。今日は米を炊きます」

「今年の米か」

「はい」

「今年の米じゃ」

「はい」

「楽しみじゃな」

 澪芹は台所に入った。

 しばらくして、米を研ぐ音がした。それから火を起こす音がした。それから、水の音と、やがて炊ける匂いが来た。

 最初の収穫をした夜、ほんの少しだけ炊いたときにも匂った。

 けれど今朝のそれは、また違っていた。祝いのようにひと口を分け合う匂いではなく、朝餉としてきちんと食べるための匂いだった。

 稲乃は縁側に座って、その匂いを嗅いだ。

 都では嗅いだことのない匂い、というわけでは、もうなかった。

 だが、田から刈り取り、籾を外し、ようやく朝の膳へ届いた今年の米の匂いは、昨夜よりもずっと穏やかに胸へ沁みた。

 穰津彦が実らせたかった米が、今年この土地で実った。

 その米が、今日の朝餉として炊かれている。

 豆太が鼻をひくひくさせた。

「いい匂いだも」

「ああ」

「昨日もいい匂いだったけど、今日はもっと落ち着く匂いだも」

「そうか」

「まめ、この村の眷属でよかっただも」

 稲乃は豆太を見た。

「なぜじゃ」

「こういう日を、ここで迎えられたから」

 稲乃は豆太の頭をなでた。今度は叩かなかった。豆太がくるりと丸まった。

 葛葉が田を見たまま言った。

「稲乃さま」

「なんじゃ」

「都にいたとき、こういう朝を想像したことがありましたか?」

「なかった」

「そうですね」

「都では、これは見えなかった」

「今は見える」

「ああ」

 葛葉は何も言わなかった。

 しかしその横顔が、珍しく穏やかだった。


 朝餉の準備ができた頃に、早苗が来た。

「米の匂いがしたから」

「来るの早いのぅ」

「村から匂ってきたんだもん」

「そんなに遠くまで来るか」

「来た。来たから来た」

 早苗は台所を手伝い始めた。澪芹と並んで、器を並べた。葛葉が縁側から中に入ってきた。豆太が台所の前をうろついた。

 稲乃は縁側に立って、それを見ていた。

 社の中が、人で埋まっていた。来た頃は、澪芹一人だった。箒の音だけがあった社に、今朝は笑い声と米の匂いがあった。

 社が変わったわけではなかった。朱は剥げたままだった。注連縄も痩せたままだった。しかし中に人がいた。火があった。匂いがあった。

 それで他に何もいらなかった。

 米が炊き上がった。

 澪芹が最初の器を、本殿の神棚に供えた。古い作法のまま、丁寧に置いた。

 稲乃はそれを見ていた。

 穰津彦への、最初の供物だと思った。名前を呼ばれて、願いを受け取ってもらって、今年ようやく実りが届いた神への、最初の供物。

 田に残っているなら、届いているかもしれなかった。

 届いていればいいと、稲乃は思った。

 全員が縁側に並んで座った。稲乃、澪芹、葛葉、早苗、豆太。

 器の中に、新米が盛られていた。

 白かった。

 炊きたての白い米が、朝の光の中にあった。

「いただきます」

早苗が言った。

 そのあと全員が言った。豆太も言った。葛葉が少し遅れて言った。

 稲乃は最後に言った。

 米を一口、食べた。

 甘かった。

 今まで食べたどの米とも違う甘さだった。都で食べていた米は、豊穣を与えた土地の米だったはずだが、それとも違った。この土地で、この人たちと、この秋に収穫した米の甘さだった。

「どうですか」

澪芹が尋ねた。

「甘い」

「そうですか」

「そなたが炊いたからか」

「米がいいんです」

「今年の米じゃからか」

「それもあります」

 澪芹は少し笑った。

「でも、今年でよかったと思います」

「なぜじゃ」

「稲乃さまが来た年の米だから」

 稲乃は澪芹を見た。

 澪芹は米を食べながら、前を向いていた。田を見ていた。刈り取られたあとの田が、朝日の中にあった。

 豆太がおかわりを求めた。早苗がそれを叱った。葛葉が黙々と米を食べた。

 笑い声が、縁側に広がった。

 稲乃はその中にいた。

 都にいた頃には、こういう朝がなかった。豊穣の神として高い場所にいて、田を見下ろしていた。田に入ったことがなかった。米を誰かと並んで食べたことがなかった。名前だけで呼ばれたことがなかった。

 しかし今日は、ここにいた。

 澪芹の隣で、刈り取られたあとの田を見ながら、新米を食べていた。

「稲乃」

 澪芹がまた名前だけで呼んだ。

「なんじゃ」

「来年も、一緒に田を作りましょう」

「ああ」

「一緒に水路を直して、苗代を作って、草を取って」

「ああ」

「泥だらけになって」

「……なってよいのぅ」

「神さまが泥だらけになるのは、私は好きです」

「好きか」

「田に降りてくる神さまが、好きです」

 稲乃は澪芹を見た。

 澪芹は田を見ていた。その横顔が、夏の最初に見た横顔とは違っていた。箒を持って、神に期待していないと言い切った顔とは違っていた。

 今の顔は、穏やかだった。

 まだ全部が解決したわけではなかった。土地の呪いの残滓はまだある。都のことも、一年後にまた来る。早苗が言った通り、来年また交渉が要るかもしれない。

 しかし今朝は、米があった。

 澪芹が隣にいた。

 それで、今朝は十分だった。

「澪芹」

「はい」

「来年の春、また田に降りる」

「はい」

「一緒に耕すか」

「一緒に耕します」

「泥だらけになっても知らぬぞ」

「知っています」

「それでもよいか」

「それがいいです」

 稲乃は田を見た。

 刈り取られたあとの田は静かだった。しかしその静けさの下に、来年の春の気配があった。今年実った土地が、来年の種を待っている気配が。

 穰津彦が百年間実らせたかった田が、来年もまた実る。

 稲乃はその田を見ながら、澪芹の隣で米を食べた。

 秋の光が、田の上にあった。

 笑い声が、社の中にあった。

 新米の匂いが、縁側に広がっていた。

 それが今年の実りだった。

 田だけではなく、この日々が、この秋の実りだった。

(了)

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