第二十章 最後の秋の収穫(後編)
午後の収穫が始まった。
稲乃も田に戻って、澪芹の隣に並んだ。
鎌を動かしながら、稲乃は考えた。
都へ戻ることになるかもしれぬ、と葛葉は最初から言っていた。呪いが解けて収穫が終われば、任が終わる。任が終われば、戻らねばならぬ。それは最初から分かっていたことだ。
それでも今朝まで、まだ先のことのように思っていた。
今日、収穫が始まった。
その「先」が、急に目の前へ来た。
「稲乃さま」
澪芹が声をかけた。
「なんじゃ」
「手が止まっています」
稲乃は我に返った。手元の穂を見下ろす。鎌は途中で止まっていた。
「……ああ」
また動かし始める。
澪芹は一度だけ稲乃の横顔を見た。何かあったのだと分かっている顔だったが、それでも何も聞かなかった。
稲を刈る音だけが、二人のあいだに続いた。
聞けば、稲乃は答えただろう。
けれど澪芹は聞かない。
聞かずに待つ。それが澪芹という人間だった。
「澪芹」
「はい」
「今夜、話がある」
「……はい」
声が、ほんの少しだけ変わった。
「今夜、聞いてくれるか」
「はい」
それだけで、二人はまた田に向き直った。
午後、最初の束を干し終えたところで、早苗が額の汗をぬぐいながら提案した。
「今夜、少しだけ炊こうか」
誰もすぐには答えなかった。米は大事だ。全部を口にできるほど余裕があるわけではない。だが、最初の実りをひと口も食べずに終えるのも違う。
結局、澪芹が頷いた。
「ほんの少しだけなら」
それで決まった。
刈り取った稲の中から、初穂として使う分だけを分けた。
まだ干し上がる前の穂を少量だけ手早く扱い、村の者たちが籾を外し、臼で搗いて、今夜食べる分だけ白い粒にした。
たくさんは無理でも、最初の実りを口にするくらいならできる、と年寄りが言った。
日が傾くまで、村人たちは手を止めなかった。
午前より手つきは軽く、声も増えた。誰かが束ねれば誰かが運び、空いた者が畦を整え、幼い子どもまで落ちた穂を拾った。ばらばらだった動きが、自然に噛み合っていた。
作業の終わりごろ、澪芹が稲束の数を簡単に記していた。手元の紙に視線を落とし、藁紐の数と積んだ束の列を確かめている。
稲乃は、その横から覗き込んだ。
「何を見ておる」
「だいたいの量です。あとで乾かす場所も考えないといけないので」
「そんなことまで、いちいち書くのか」
「書いておかないと忘れます」
澪芹は紙を押さえたまま、少しだけ息をついた。
「……こんな収量、見たことがありません」
声は小さかった。
けれど、たしかに震えがあった。
稲乃はしばらく答えなかった。
秋風が、二人のあいだを通り過ぎていく。
「わらわだけの力ではない」
やがてそう言うと、澪芹が顔を上げた。
「分かっています」
その返事は穏やかで、まっすぐだった。
「神さまだけでも、人だけでも、ここまでは来なかった」
稲乃は紙ではなく、澪芹の横顔を見た。
澪芹は田を見ていた。刈られたあとの広がりと、その先に並ぶ稲束とを、ひとつひとつ目に収めるように。
「祖母が見たら、驚いたと思います」
「……そうか」
「たぶん、泣いたかもしれません」
澪芹は少し笑いそうになって、笑わなかった。
「私はまだ、そこまでうまく喜べません。でも」
そこで言葉を切って、稲乃の方を見た。
「よかったです」
それだけだった。
たったそれだけの言葉が、深く落ちてきた。
夕方、最後の束が田の縁へ運ばれた。
刈り終えた田は、朝とは別の場所のように見えた。水面は広く光り、その上に残る切り株の列が、夕日に細く照らされている。縁に積まれた稲束は思っていたよりずっと多く、田の輪郭そのものを変えていた。
「干す場所、足りるかね」
「社の裏も使うしかないねえ」
「明日、縄を張り直さないと」
「南の水路も、来年までにはもう少し広げたいな」
ぽつぽつと、そんな声が上がる。
誰も大きく宣言するわけではない。けれど、そのどれもが自然に次を含んでいた。
来年。
その言葉を、はっきり口にする者はいなかったが、もう皆の中には薄く立ち上がっていた。
早苗が積み上げた束を見上げて、腕を組んだ。
「……干すの、忙しくなるね」
「嫌そうに言うのう」
稲乃が言うと、早苗は鼻を鳴らした。
「嫌なわけないでしょ。面倒なだけ」
そう言いながら、口元は少し上がっていた。
年嵩の女が、田全体を見渡して言った。
「祭のあとみたいだねえ」
その言い方に、誰もすぐには返さなかった。
けれど、否定する者もいなかった。
豆太が稲束の近くでくるくる回った。
「田のにおいがちがうも。おなかすくにおいだも」
「それはおまえがいつも腹を空かせておるだけじゃ」
「でもほんとだも。前はさみしいにおいも混じってたも」
豆太はしっぽを揺らしながら、空を見上げた。
「今日は、さみしいのが少ないも」
稲乃は何も言えなかった。
袖に、稲の匂いが移っていた。
泥と、藁と、陽にあたった穂の匂い。神の装束に似つかわしいとは言えない匂いだった。都にいたころなら、すぐに着替えを命じていたかもしれぬ。
けれど今は、その匂いが離れがたかった。
この村の秋の中に、自分も立っていたのだと、匂いが教えていた。
社へ戻る道すがらも、村人たちの足取りは朝より軽かった。疲れているはずなのに、背がほんの少しだけ上を向いている。誰かが束の数を言い、誰かが干し場の話をし、子どもは明日も手伝うと言い張った。
稲乃はその後ろ姿を見ながら歩いた。
任を果たした、というだけではなかった。
左遷先でも、仮住まいでも、まして憐れまれて与えられた場所でもない。
まだそんなふうに言い切るのは早いのかもしれぬ。それでも、胸の奥のどこかが、この村をただの赴任先として扱うことを、もう拒んでいた。
明日の朝からまた続ける。それでも、今日刈った分だけで田の景色は変わった。黄金の穂は束になり、束は積まれ、積まれた稲は冬を越すかたちになっていく。
老いた女が、積み上がった稲束を見て、泣いた。
声を上げて泣いた。誰かが支え、誰かがもらい泣きした。
稲乃はそれを見ていた。
神気を使って実りをもたらすことと、この涙のあいだには、何十日もの田があった。泥の中に入って、水路の泥をかき出して、苗代の草を取り、夜の見回りをして、鈴那の記録を読み、穰津彦と向き合った。そのすべての先に、この涙があった。
それが、実りというものだと思った。
重さだけではなく、これもまた実りだった。
豆太が足元で、しっぽを精一杯振っていた。
「やったやっただも。まめ、一番嬉しいも」
「そなたは何もしておらぬじゃろう」
「土地の気配を伝えただも。あと、姫さまと澪芹ちゃんの間に挟まっていただも。これは大事な仕事だも」
「後半は仕事ではない」
「仕事だも」
稲乃は豆太の頭を叩こうとして、やめた。代わりになでる。
豆太が満足そうに丸くなった。
そのとき、鈴那がそばへ来た。
「葛葉さんから聞いたわ。都から文が来たそうね」
「ああ」
「今夜、澪芹に話すの?」
「そのつもりじゃ」
「そう」
鈴那はそれ以上、踏み込まなかった。
ただ、刈り取られた田を見て、感慨深そうに言う。
「今日の景色を、ちゃんと覚えておくといいわ」
稲乃は答えなかった。
けれど、その言葉は胸の奥に残った。
日が落ちるころには、今夜の分だけが小さな椀に集められていた。
社の台所で、澪芹がその米を研いだ。ほんの少しの量だった。両手に収まるほどしかない。けれど桶の中で米粒が水に触れる音は、とても静かで、大切なものに聞こえた。
豆太は何度も鍋を覗きにきて、そのたびに澪芹に追い払われた。
「まだです」
「まだだも?」
「まだです」
「匂いはしてるも」
「していても、まだです」
早苗は縁側で笑いもしない顔のまま、「行儀が悪い」とだけ言った。葛葉は少し離れて腕を組み、黙って見ている。
やがて鍋の蓋の端から、湯気が立った。炊けた米の匂いが、ゆっくりと社の中へ広がっていく。
誰もすぐには喋らなかった。
「……米の匂いだ」
最初に言ったのは、あの年嵩の女だった。最初の頃、柿二つを供えた女であることに、稲乃は気づいた。女はそれだけ言って、口を閉じた。声が少し震えていた。
澪芹が蓋を開ける。白い湯気が上がった。湯気の中に、小さな白い粒がぎっしりと並んでいる。たったそれだけの光景なのに、稲乃は胸の奥を掴まれるような気がした。
食べられる。体に入る。冬を越す力になる。
ようやくそこまで来たのだ。
稲乃は鍋の湯気を見つめたまま、ふと足元が少し揺れるのを感じた。立っていられないほどではない。ほんの一瞬、身体の芯が空いたような感覚だった。
「稲乃さま」
隣で、澪芹の声がした。
見上げると、灰青の瞳がまっすぐこちらを見ていた。
「なんでもない」
「嘘です」
「……あと少し座れば戻る」
「あとで、ちゃんと座ってください」
念を押すように言って、澪芹はまた鍋へ目を戻した。
その横顔を見ながら、稲乃は思った。
今夜は喜びの夜だ。
けれどこの喜びの中でも、澪芹だけは、自分がまだどこかへ行ってしまう側にいることを感じ取っている。
社の中に、炊きたての米の匂いが満ちていた。村人たちの顔はやわらぎ、豆太は今にも飛びつきそうにそわそわしている。早苗は呆れた顔でそれを見て、葛葉は微かに目を細めていた。
ようやく、ここまで来た。
そう思うのに、稲乃の胸の奥には、甘さに似た痛みがひと筋だけ残っていた。
夜になった。
社の縁側に、稲乃と澪芹が並んで座った。豆太は縁側の柱の陰にいた。今夜は気を利かせて消えようとしなかった。稲乃はそれを、今夜は許すことにした。
田が静かだった。呪いが鎮まった田の水が、月明かりを映していた。穰津彦の悲しみのない、ただの水だった。
「澪芹」
「はい」
「今日、葛葉から文を受け取った」
「はい」
「都から、収穫が終わり次第戻るようにと」
澪芹は田を見たままだった。
「収穫は明日終わる」
「はい」
「分かっておったか」
「来るとは思っていました」
稲乃は澪芹を見た。
「そなたは、どうしてほしいのじゃ」
澪芹はしばらく答えなかった。
「……私が言っていいことと、言ってはいけないことがあります」
「どういう意味じゃ」
「私がここにいてほしいと言えば、稲乃さまの選択に影響が出る。それが嫌で」
「影響が出てもよいのぅ」
「よくないです。稲乃さまが選ぶことを、私の言葉で決めてほしくない」
稲乃は澪芹を見た。
「難儀な娘じゃな」
「そうかもしれません」
「わらわのことを考えすぎじゃ」
「そうかもしれません」
「だから聞く。わらわがここに残ることを、そなたは望むか」
澪芹はしばらく黙っていた。
田を見ていた。月を見ていた。それから稲乃を見た。
「望みます」
はっきりと言った。
「しかし」
「しかし、ではなく。望みます。それが私の本心です」
稲乃は澪芹を見た。
灰青の瞳が、月明かりの中で穏やかだった。怖れていなかった。言ったことを後悔していなかった。ただ、本当のことを言った目だった。
「分かった」
「……はい」
「わらわも、ここにおりたい」
澪芹が少し息を吸った。
「しかし都の文に逆らうことになる。都に残った神々との関係も、変わるかもしれぬ。葛葉が巻き込まれるかもしれぬ。それでも、ここにおりたいと思う」
「決めたんですか」
「今夜、そなたの言葉を聞いて、決めた」
「私の言葉で決めてほしくないと言いましたが」
「参考にしたのじゃ。決めたのはわらわじゃ」
澪芹は稲乃を見た。それから少し目を逸らした。
「……そういう言い方をするんですね」
「文句があるか」
「ありません」
豆太が柱の陰で尻尾を振った。尻尾の先が柱にぶつかって、音が出た。
「豆太、聞いておったじゃろう」
「聞いてないだも」
「嘘をつくな」
「ちょっとだけ聞いてただも」
「全部聞いておるじゃろう」
「……全部だも」
澪芹が小さく笑った。
稲乃も、笑いそうになった。笑わなかったが、口の端が動いた。
「豆太」
「なんだも」
「今夜のことは」
「誰にも言わないも」
「ならば縁側に来てよい」
豆太が柱の陰から飛び出して、二人の間に割り込んだ。稲乃と澪芹の間に、丸い体が収まった。
「せまいじゃろう」
稲乃が問いかけた。
「いいだも。まめ、ここが好きだも」
澪芹が豆太の頭をなでた。豆太がくるりと丸まった。
三人で田を見た。
月が田の上にあった。刈られたあとの株が、水に映っていた。残った穂が、風にかすかに揺れていた。明日、あの穂も刈られる。そうすれば今年の収穫が終わる。
終わったあとに、稲乃はここに残る。
どうなるかは分からなかった。都がどう言うか、葛葉がどう動くか、何が起きるか。しかし今夜、それより先に決めなければならないことを、決めた。
「澪芹」
「はい」
「明日、一緒に刈るか」
「はい」
「最後の穂を」
「はい」
「一緒に」
「……はい」
それだけだった。
しかしそれで十分だった。
田の水が、静かに月を映していた。穰津彦の悲しみのない、ただの田の夜だった。しかしただの夜ではなかった。何十日もの先に来た夜だった。
豆太が眠った。
稲乃と澪芹は、田が見えなくなるまで、並んで座っていた。




