第十九章 神を見捨てない祝詞
祝詞が完成したのは、夜明けの一刻前だった。
鈴那の記録と、葛葉の断片と、澪芹の写しと、稲乃の神気による補完を全部合わせて、ようやく形になった。穰津彦の名を呼び、その神気に届く言葉を持つ祝詞だった。古い言葉で書かれていたが、澪芹は一度読んで、覚えた。
「これで届きますか」
「届かせる。届かなければ、届くまでやる」
「分かりました」
鈴那は祝詞を見て、一か所だけ直した。
「ここの音が崩れている。じょうつのひこ、という読みが古い発音と違う」
「どう読むのじゃ」
「じょうつのひこ、ではなく、みのるつひこ、と読む。この土地の古い発音では」
澪芹は書き直した。声に出して読んだ。一度、二度。
「みのるつひこ」
「そうよ。名前は正確に呼ばなければ届かない」
鈴那は言う。
「稲乃さまは、何をするのですか。澪芹が祝詞を上げている間」
葛葉が尋ねた。
「穰津彦の神気を受け取る。怒りを受け取って、悲しみを受け取って、それを抱えながら、見捨てないと示す」
「全部受け取れますか」
「分からぬ。しかしやる」
「神気が削られる可能性がある」
「分かっておる」
「神格を失う可能性もある」
「分かっておると言うた」
葛葉は黙った。
稲乃は葛葉を見た。
「葛葉は、止めに来たのか」
「……止めに来たわけではありません」
「では何を言いたいのじゃ」
「覚悟が要ると言いたかっただけです」
「覚悟はできておる。最初からじゃ」
葛葉は少しの間稲乃を見て、それから視線を外した。細い目の端が、少し下がっていた。それが葛葉の心配の表し方だと、稲乃は知っていた。
「……見届けます」
「ああ」
日が暮れた。
社の前に、稲乃たちは集まっていた。
早苗が来て、稲乃に尋ねた。
「田の縁に立っていていいか」
「来るなと言っても来るじゃろう」
「うん、来る。だから最初から言った」
「田から離れるな。社の奥には入ってくるな」
「分かった」
鈴那も来た。
「私は社の外で結界を張り直します。中で何かあったとき、外に漏れないように」
「頼む」
「葛葉さんは」
鈴那が尋ねると、葛葉は鳥居の方を見た。
「わたくしは社の鳥居の内側にいます。中に入りはしません」
「なぜじゃ」
「稲乃さまが選んだことです。わたくしが手を出すことではない。ただ、見届けます」
稲乃は葛葉を見た。それ以上は言わなかった。
豆太が稲乃の足元から言った。
「まめも行くだも」
「来るか」
「行くだも」
「足手まといになっても知らぬぞ」
「知ってるも。それでも行くだも」
稲乃は豆太を見た。それから澪芹を見た。
「行くか」
「はい」
澪芹は祝詞を書いた紙を胸に持っていた。巫女装束に着替えていた。白い小袖に浅葱の袴。継ぎ当ての入った古い装束が、灯籠の光に照らされていた。
稲乃は白い装束を改めて整えた。都を出るときに着ていたものとは違う。この村で何度も泥に入ったから、裾が変色していた。しかしそのままにした。
この土地で過ごした証だと、思った。
本殿の裏へ入ったのは、夜の初めだった。
石は昨夜より温かかった。温かい、というのは正確ではなかったが、冷たくはなかった。穰津彦の神気が、石の下で最大限まで膨らんでいた。封じが、今夜だけかろうじて保っている状態だった。
稲乃は石の前に立った。澪芹が隣に来た。豆太が足元にいた。
「始めるか」
「はい」
「怖いか」
「怖いです」
「怖くても」
「います」
稲乃は石に手を置いた。
神気が石の表面に触れた。穰津彦の気配が、すぐに反応した。怒りが手のひらに来た。百年分の怒りが、一度に来た。
押し返されそうになった。
稲乃は押し返されながらも、手を離さなかった。
「澪芹」
「はい」
「祝詞を」
澪芹が声を出した。
低く、落ち着いた声だった。練習したときより落ち着いていた。紙を持たずに、空で上げた。一字一句が、正確だった。
みのるつひこ。
名前が呼ばれた瞬間、石の下で何かが動いた。
怒りが、少し止まった。
百年間、名前を呼ばれなかった。禍つ神として記録を書き換えられて、祭から外されて、供物を断たれて、名前を消された。その名前が、今夜、呼ばれた。
穰津彦が、止まった。
稲乃はその隙に、神気を石の中へ送った。封じをほどくのではなく、内側へ入ることを試みた。穰津彦の怒りの中へ、稲乃の神気が降りていった。
冷たかった。
怒りの底は、冷たかった。怒りとは熱いものだと思っていたが、百年経った怒りは冷たかった。熱が抜けて、残った怒りだけが冷たく固まっていた。
その底に、もっと古いものがあった。
稲乃は降りていった。
怒りをかき分けて、飢えの記憶をかき分けて、その奥へ。豆太が感じていた悲しみが、底にあった。
形がなかった。
百年の間に、形が溶けていた。悲しみが悲しみとして成立していなかった。ただ、冷たく、暗く、何かが残っていた。
かつて実りをもたらしたかった神の、残滓だった。
稲乃は、その残滓に神気を触れさせた。
ぶつかった。
反応した。怒りではなく、驚きのような反応だった。何かが来た、と感じた反応だった。
澪芹の祝詞が続いていた。
みのるつひこ、この土地に根付いた神よ、あなたの名前を呼ぶ、見捨てない、まだここにあなたへの祈りがある。
祝詞の言葉が、石を通じて底まで届いた。
稲乃はその言葉を受け取りながら、穰津彦の残滓に向かって言った。声ではなく、神気で言った。
聞こえているか。
反応があった。
あなたが捨てられたことを、都が見捨てたことを、わらわは知っておる。罪があなたにあったわけではない。都合で記録を書き換えられた。そのことの不当さを、わらわは知っておる。
穰津彦の残滓が、揺れた。
揺れ方が変わった。怒りの揺れではなく、別の揺れだった。
稲乃は続けた。
わらわも、都に捨てられた。あなたとは比べ物にならぬ短さだが、捨てられた痛みは知っておる。実りをもたらせなかったことを、失態として記録された痛みも、知っておる。
底の冷たさが、少し変わった。
冷たさが、緩んだ。固まっていたものが、少しだけ、溶けた。
そのとき、稲乃の神気に、穰津彦の残滓が触れてきた。
受け取った瞬間、稲乃の全身に衝撃が来た。
百年分だった。
百年分の怒りと、飢えと、悲しみが、一度に流れ込んできた。神気が揺れた。体が揺れた。膝がついた。石の前に膝をついたまま、稲乃は歯を食いしばった。
怒りが来た。退かなかった。
飢えが来た。拒まなかった。
悲しみが来た。目を逸らさなかった。
その奥に、もう一つあった。
願いだった。
実りをもたらしたかった。この土地の人々に、米を届けたかった。飢えさせたくなかった。それだけを願っていた。それが、百年の間に怒りに変わり、飢えに変わり、刈り取り鬼になった。
しかし願いは、底に残っていた。
消えずに残っていた。
稲乃は泣きそうになった。泣かなかったが、神気が揺れた。
澪芹の祝詞がまだ続いていた。
豆太が稲乃の膝元で、稲乃の手に体を寄せた。
稲乃は穰津彦の願いを受け取って、神気で返した。
あなたの願いを、受け取った。捨てていない。都が消した名前を、わらわは今夜呼んだ。この地の巫女がその名を呼んだ。あなたの願いが、ここに届いた。
底が、揺れた。
大きく揺れた。
穰津彦の神気が、一度に膨らんだ。
来る、と稲乃は思った。
全部来た。
怒りの塊が、稲乃の神気にぶつかった。
稲乃は退かなかった。
飢えの塊が押し寄せた。
稲乃は拒まなかった。
悲しみの塊が流れ込んだ。
稲乃は目を逸らさなかった。
その奥から、願いだけが浮かび上がった。
稲乃はそれを、逃さなかった。
稲乃の神気が、一度に削られた。
石の前で、稲乃は体を保てなくなった。手をついた。掌が地面についた。
「稲乃さま」
澪芹が来た。稲乃の背中に手が当たった。
「祝詞を続けろ。まだ終わっておらぬ」
「でも」
「続けろ。最後まで」
澪芹は続けた。
みのるつひこ、あなたを見捨てない、この土地はあなたを忘れない、あなたの名前を呼ぶ、あなたの願いを受け取る。
穰津彦の神気が、稲乃の中で動いた。
怒りが、ほどけた。
飢えが、薄れた。
悲しみが、静まった。
願いだけが、そのまま残った。
稲乃は神気を集めた。削られた神気を、残った分だけ集めて、穰津彦の願いに向けた。
この願いを、受け取る。この地の神として、受け取る。あなたが実らせたかったものを、わらわが代わりに受け取る。
穰津彦の神気が、大きく揺れた。
それから、静かになった。
底の冷たさが抜けていく。
固まっていたものが、ゆっくりと水へ還っていった。
田の上で、風が吹いた。
山から来た風が、田を渡った。苗が揺れた。水面が揺れた。光が走った。実りの光だった。青白くではなく、黄金に近い光が、田の上を走った。
豆太が震えた。
「……姫さまの力が戻ったも」
稲乃は気づいていた。
穰津彦の願いを受け取った瞬間、失われていた実りの力が戻ってきた。都での神事の失敗以来、ずっと使えなかった力が、今夜、戻ってきた。
穰津彦が渡したのかもしれなかった。百年間、実らせたかった力を、稲乃に渡したのかもしれなかった。
しかしその代償として、稲乃の神気は大きく削られていた。
体が、思うように動かなかった。
石の前に手をついたまま、起き上がれなかった。
「稲乃さま」
澪芹が稲乃の体を支えた。肩を抱いて、体を起こそうとした。
「大丈……」
稲乃は言おうとして、声が出なかった。
「しゃべらなくていいです」
澪芹の声が、近かった。
「祝詞は最後まで上げました。穰津彦のことは、ちゃんと届きましたか」
届いた、と稲乃は言えなかった。代わりに頷いた。
「よかった」
澪芹は稲乃を支えたまま、石を見た。
石は変わっていなかった。苔むした大きな石が、そこにある。しかし石の周りの空気が、今夜来る前と違っていた。重さがなかった。百年分の怒りと悲しみを抱えていた石が、今夜軽くなっていた。
「終わったんですね」
稲乃は頷いた。
「稲乃さまは」
澪芹が稲乃の顔を見た。神気が削られた稲乃の顔は、来る前より青白かったかもしれない。自分では分からなかった。
「大丈夫じゃ」
稲乃は、今度は声が出た。
「嘘ですよね」
「嘘ではない。動けないだけじゃ。神気が戻れば動ける」
「どのくらいかかりますか?」
「……分からぬ」
豆太が稲乃の手を踏み台にして、稲乃の膝に乗った。
「でも力は戻ったも。実りの力が戻ったも。まめには分かるも」
「戻ったの?」
澪芹が稲乃を見た。
「ああ」
「本当に」
「本当じゃ」
澪芹は少し息を吐いた。
「それなら……それなら、よかったです。本当に」
声が少し震えていた。
稲乃は澪芹を見た。
澪芹は震えていなかった。体は震えていなかった。しかし声だけが、少し揺れていた。長い夜を一緒に過ごして、祝詞を全部上げて、今になって揺れ始めていた。
「澪芹」
「はい」
「泣くのか」
「泣いていません」
「声が揺れておる」
「揺れていません」
稲乃は澪芹を見た。澪芹は稲乃を見なかった。石を見ていた。
「……少し揺れているかもしれません」
「泣いていいの」
「泣く理由がありません」
「あるじゃろう」
「何がですか?」
「今夜、ずっと祝詞を上げ続けた。最後まで止まらなかった。それは大変だったじゃろう」
「大変ではありませんでした」
「そうか」
「稲乃さまがそこにいたから、上げ続けられました」
稲乃は何も言わなかった。
澪芹が稲乃の肩を、もう少し強く抱いた。
鈴那が社の外から声をかけてきた。
「終わった?」
「終わった」
稲乃は答えた。
「田の上で光が走ったわ。実りの力が戻ったのね」
「ああ」
「稲乃さまは」
「動けぬ。しかしたいしたことはない」
「またたいしたことはない、か」
鈴那の声に、小さな笑いが混じった。
「澪芹が支えているから、今夜は信じるわ。葛葉さんに知らせてくる」
足音が遠ざかった。
豆太が稲乃の膝の上で、しっぽを揺らした。
「姫さま」
「なんじゃ」
「穰津彦さまは、どこへ行ったも」
稲乃は少し考えた。
「消えたわけではないと思う。しかし怒りと悲しみの形では、もういないじゃろう」
「どこにいるの?」
「この土地の中に、いるかもしれぬ。別の形で」
「実りの力を渡してくれたんだも」
「そうかもしれぬ」
「それって、許してくれたってこと」
稲乃は石を見た。
「……許すとは少し違うかもしれぬ。ただ、願いを受け取ってくれる者が来た、と思ったのかもしれぬ」
「どっちにしても、よかっただも」
「ああ」
豆太がくるりと丸まった。
田が静かだった。
金色の光は消えていたが、光が走ったあとの田は、来る前と違っていた。水の重さが変わっていた。土の奥の冷たさが消えていた。
呪いは完全に消えたわけではなかった。百年分のものが、一夜で全部なくなるはずがなかった。しかし核が、今夜鎮まった。穰津彦の怨みの中心が、今夜解けた。あとは時間をかけて、土地が回復していく。
収穫は、できる。
稲乃はそれを確信した。
「澪芹」
「はい」
「収穫できる」
澪芹は稲乃を見た。
「本当に」
「本当じゃ。実りの力が戻ったから、明日から田に入れる。残り三日で、十分じゃ」
澪芹は少しの間、稲乃を見ていた。
それから、稲乃の肩に頭をもたせかけた。
一瞬だけだった。すぐに顔を上げた。しかしその一瞬が、稲乃には分かった。
「……よかった」
澪芹は安堵したように言う。
「ああ」
二人はそのまま、石の前にいた。
豆太が膝の上で眠った。
田の水が、静かに流れていた。穰津彦の悲しみではなく、ただの田の水として。




