第十八章 刈り取り鬼の夜
収穫の三日前に、夜が来た。
夕方から空気が変わっていた。豆太が耳を伏せたまま社の縁側から離れなくなって、田の水が妙に静かになった。風がないのに水面が揺れない、というのは普通ではない。稲乃が神気を伸ばすと、土地の底が膨らんでいた。
「今夜来るの」
鈴那が社に来ていた。昨日の夕方から泊まっていた。何かを感じ取っていたらしく、今朝は荷を解かなかった。
「来る。今夜が、一番危ない」
稲乃が言うと、鈴那は窓から田を見た。
「穰津彦が動く前に、収穫を終わらせることはできないの?」
「三日では早すぎる。穂がまだ熟しておらぬ。今夜を乗り越えるしかない」
「葛葉は」
「昨夜から山にいる。気配を感じれば来るはずじゃ」
鈴那は窓から田を見た。
「村人を呼ぶ」
「呼ぶのか」
「あなた一人と澪芹だけでは田を全部守れない。私も一人では足りない。腕のある者が要る」
「村人は怪異に対する術を持たぬ」
「術がなくてもできることがある。火を焚くこと。声を上げること。田の縁に立つこと。それだけで、穢れの動きが変わる」
稲乃は少し考えた。
「早苗に頼む。あれなら動ける」
「私が行きます」
澪芹が縁側から言った。いつから聞いていたのか、社の端に立っていた。
「早苗への声かけは私がします。鈴那さんはここで準備を」
「危険じゃ、今夜の外は」
「村の道なら知っています。一人で行けます」
鈴那が稲乃を見た。
「行かせていいわ。澪芹は判断が早い」
稲乃は澪芹を見た。
「……早く戻れ」
「はい」
澪芹は走っていった。
日が落ちるまでに、十七人が田のそばに集まった。
早苗が声をかけた若者たちと、長の言葉を聞いた年配の者が数人。全員ではなかったが、それでも十七人来た。火の入った提灯を持ち、田の縁に並んで立った。
稲乃は田の中央に立った。
鈴那が南の端、葛葉が北の端、澪芹が本殿に近い西の端。豆太は稲乃の足元にいた。
「今夜は田を守る」
稲乃は十七人に向けて言った。声を神気で少し通した。夜の田に響いた。
「怪異が来たら、提灯を田の方へ向けろ。声を上げろ。退いたら追うな。田から離れるな。それだけでよい」
誰も何も言わなかった。しかし全員が頷いた。
早苗が稲乃の目を見た。頷いた。稲乃も頷いた。
夜が来た。
最初の気配は、夜の四半刻後だった。
北の山から降りてきた。豆太が耳をぴんと立てて、体を低くした。葛葉の気配が動いた。北の水路のあたりで、冷たさが広がり始めた。
「北から来るだも」
「見えるか」
「まだだも。でも近いだも」
稲乃は北へ神気を向けた。穰津彦の気配が、山から降りてきた。昨夜より大きかった。形が、昨夜より少し明確になっていた。
半月以上、封じの下で膨らみ続けたものが、今夜ついに形を持とうとしていた。
水路の水が跳ねた。
黒い靄が、水面の上に現れた。今夜の靄は昨夜より厚く、高さがあった。鎌を引きずる音が始まった。金属が石を削る音が、田の端から端まで響いた。
十七人が提灯を向けた。
靄が止まった。
提灯の火を嫌うのか、光を向けると動きが鈍くなった。葛葉が北から祓いを試みた。稲乃も神気を送った。
靄が分かれた。
一つが二つになって、二つが四つになった。
「増えるだも」
「分かっておる」
稲乃は神気を広げた。しかし四つ全部を同時に押さえることはできなかった。一つを押さえると、別の一つが田へ進む。鈴那が南で押さえると、北が動く。
靄の一つが、田の中に入った。
穂に触れた。
水面が黒くなった。触れた穂の周りの水が、一瞬で濁った。穂が傾いた。根から力を吸われているのが、稲乃には神気で見えた。
「駄目じゃ」
稲乃は田に入った。草鞋を脱ぐ間もなく、泥の中に入った。靄に向かって神気を叩きつけた。靄が弾けた。しかし散った欠片が、また集まり始めた。
「集まるのが速いだも」と豆太が叫んだ。
「今夜は本気じゃ。力を出し切ろうとしておる」
葛葉が北の靄を二つ、結界で押さえた。しかし長く保てないと、葛葉の神気が言っていた。
早苗が提灯を田の上に突き出して、大声で叫んだ。
「こっちを向け。田には入るな」
靄が早苗の方を向いた。提灯の火が顔の前まで来て、靄の動きが止まった。その隙に稲乃が神気を入れた。靄が縮んだ。
「そこだも」
「見えておる」
縮んだ靄に向かって、稲乃は全力の神気を送った。
靄が弾けた。散った。
しかし同時に、別の靄が田の奥まで進んでいた。
澪芹が叫んだ。
「西の田が」
稲乃が振り向いた。西の田の水が、広い範囲で黒く変わっていた。穂が一列、傾き始めていた。
「くそ」
早苗が嘆く。
「諦めるな。まだ終わっておらぬ」
「でもあれだけ広がったら」
「一列だけじゃ。広げさせなければよい」
稲乃は西へ走った。田の縁を走りながら神気を展開して、黒くなった水の縁に結界を張った。広がりが止まった。中の穂は傾いたままだったが、これ以上は広がらない。
葛葉が北の靄を抑えたまま、稲乃に向けて言った。
「稲乃さま、神気が危ない」
「分かっておる」
「このまま続けると、穰津彦と向き合う前に尽きる」
「分かっておると言うた」
鈴那が南から来た。
「一度引かせましょう。全部を今夜鎮めることはできない。田の被害を最小限にして、穰津彦と向き合う力を残す」
「しかし今夜引いたら」
「今夜引いても、田は大半が持ちます。今押さえている西の列は傷んだが、他は大丈夫。今夜はここまでにして、穰津彦との決着は明日の夜にする」
「明日の夜では遅い」
「今夜やれば、あなたの神気が持たない」
稲乃は西の田を見た。黒くなった水が、結界の中で止まっていた。傾いた穂が、夜の中で静かにある。
判断しなければならなかった。
今夜全部を押さえようとすれば、自分の神気が尽きる。神気が尽きた状態で穰津彦と向き合うことはできない。鈴那の言う通り、今夜はここまでにして、明日の夜に全力で向き合う方が確率が高い。
しかし今夜引いたら、この傾いた穂は戻らない。
「……一列分の穂は、諦める」
声に出すと、重かった。
「よい判断です」
鈴那が言った。
稲乃は神気を集め直した。散らばった神気を引き戻して、中央に据える。鈴那が南の靄を封じ、葛葉が北の靄を封じた。それぞれが神気の壁を作って、靄がそれ以上進めないようにした。
靄が止まった。
田の中で揺れていた黒い形が、壁に阻まれて、動けなくなった。
しばらく、そのままだった。
やがて靄が薄くなり始めた。夜明けではまだ遠かったが、これ以上進めないと判断したのか、靄は少しずつ収まっていった。鎌を引きずる音が遠くなった。
水路の水が、また静かになった。
村人たちが田の縁に立ったまま、靄が消えるのを見ていた。
誰も逃げていなかった。提灯を持ったまま、怖かったはずなのに、田から離れていなかった。
早苗が稲乃のところへ来た。
「終わったの」
「今夜は、じゃ」
「まだある」
「明日の夜に、決着をつける」
早苗は田を見た。西の一列が傾いている。
「あれは」
「戻らぬ。今夜の被害じゃ」
「……どのくらいあるの?」
「西の一列分だけじゃ。他は持った」
「他は持った。神さまのおかげか」
「みんなが田の縁に立っていたおかげじゃ。靄が分散した」
「でも神さまがいなかったら全部だった」
「みんなが来なければ、わらわ一人では全部は守れなかった」
早苗はしばらく稲乃を見た。
「……明日の夜に決着って、危ないの?」
「危ない」
「神さまが、どうにかなる可能性もある」
「ある」
「正直だね、いつも」
「嘘をついても意味がないからのぅ」
早苗は少し息を吐いた。
「……澪芹を泣かせるなよ」
稲乃は早苗を見た。
「泣かせるつもりはない」
「でも、万が一があったら」
「ないようにする」
「するだけじゃなくて、ちゃんと戻ってきてよ。約束して」
稲乃は少しの間、早苗を見た。
「約束する」
「絶対だよ」
「絶対じゃ」
早苗はもう一度田を見て、それから踵を返した。村人たちに声をかけて、今夜は終わりだ、帰れ、と言い始めた。
誰かが稲乃に向かって頭を下げた。続いて、何人かが頭を下げた。全員ではなかったが、数人が、田を守った神に頭を下げた。
稲乃は黙って受け取った。
社に戻ると、澪芹が縁側で稲乃を待っていた。
稲乃が泥だらけの足で石段を上ると、澪芹は稲乃の顔を見て、それから足を見て、すぐに水を持ってきた。
「足を出してください」
「たいしたことはない」
「泥が入っています」
「傷はあらぬ」
「傷がなくても、出してください」
稲乃は縁側に腰を下ろして、足を差し出した。澪芹が泥を丁寧に洗い流した。手が冷たかった。夜の水が冷たかった。しかし丁寧だった。
「神気は」
「使い過ぎた。しかしまだある」
「明日の夜に向き合えますか」
「向き合える」
「無理をしていませんか」
「無理はしておらぬ。今夜の判断は正しかった」
澪芹は足を洗い続けた。
「西の田が」
「一列分、傷んだ。取り戻せぬ」
澪芹は手を止めなかった。
「……残念です」
「ああ」
「でも他は持ちました」
「ああ」
「稲乃さまが田に入って、守ったから」
「みんなが来たから、じゃ」
「どちらもです」
澪芹は足を拭いて、水桶を片付けた。それから稲乃の横に座った。
鈴那が縁側に来て、葛葉も来た。豆太が足元に丸まった。
「明日の夜に向き合う」
稲乃は全員に言った。
「準備がある」
「何が要る」
鈴那が問うた。
「穰津彦の名前を呼ぶ祝詞が要る。古い祝詞の欠けた部分を、今夜補わなければならぬ」
「記録を持ってきます」
澪芹がすぐに立ち上がった。
「葛葉、都の記録の中に、穰津彦の神事の断片はあるか」
「一部あります」
「持ってきてくれ」
「はい」
「澪芹」
澪芹が稲乃を見た。
「今夜、祝詞を一緒に作る。明日の夜に、そなたに上げてもらわなければならぬ」
「分かりました」
「長い夜になる」
「構いません」
「眠れぬかもしれぬ」
「一緒にいます」
稲乃は澪芹を見た。
鈴那が記録を取りに部屋へ行った。葛葉も荷を開きに行った。澪芹は稲乃のそばに残り、豆太はその足元にいた。
「豆太」
「なんだも」
「今夜の田、よく持った」
「みんなが来てくれたから、持ったんだも」
「そなたが土地の異変を感じ取って、準備の時間を作ったから、みんなが間に合ったのじゃ」
豆太がしっぽをゆっくりと振った。
「……まめ、役に立てたも」
「役に立った」
「じゃあ明日も行くだも」
「来るか」
「行くだも。姫さまと澪芹ちゃんだけじゃ心配だも」
「足手まといになっても知らぬぞ」
「いいだも。それでも行くだも」
稲乃は豆太の頭をなでた。豆太がくるりと丸まった。
田が静かだった。西の一列が傷んでいたが、他は立っていた。穂が夜の中で、暗く、小さく、しかし確かにそこにあった。
明日の夜に、全部が決まる。
穰津彦と向き合い、名を呼び、見捨てないと示す。それで呪いが鎮まれば、収穫が来る。
しかし鎮まらなければ。
考えた。考えて、しかし止めた。今夜は祝詞を作る夜だ。考えることは一つでいい。
鈴那が記録を持って戻ってきた。
葛葉が都の断片を持って来た。
澪芹が筆と紙を用意した。
稲乃たちが、灯籠の前に集まった。
長い夜が始まった。
田の水が、遠くで静かに揺れていた。




