表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
実りを失った稲荷姫は、呪われた村で祈りを耕す〜もふもふ眷属に見守られ、神さまは今日も泥まみれ〜  作者: 明石竜


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
17/23

第十七章 穂がつくころ

 穂が出始めたのは、約束の翌朝から三日後のことだった。

 澪芹が苗代を見に行って、戻るなり「来てください」と言った。声に珍しく急いた色があった。稲乃は草鞋を履いて出た。豆太も後ろについた。

 南の苗代の端、昨日まで枯れかけていた苗の列に、細い穂の芽が出ていた。米粒ほどの小さな膨らみが、茎の先に宿っている。一本ではなかった。五本、十本、その周りにも。

 澪芹が稲乃の横でしゃがんで、穂の芽に触れた。触れて、手を引いて、また触れた。

「本物ですか」

「本物じゃ」

「枯れていた苗が」

「根が戻っておる。土の中で何かが変わった」

 稲乃は神気を土へ伸ばした。祭の夜に動いた土地の神気が、この三日で少し広がっていた。穰津彦の怒りがまだ底にあるが、その上の層で、土地本来の温かさが息を吹き返しつつあった。

「まだ全部ではない。しかし動いておる」

「収穫に間に合いますか」

「……分からぬ。しかしこのまま進めば、可能性がある」

 澪芹は穂の芽を見たまま、少し息を吐いた。安堵というより、長い間張っていた何かが少し緩んだ、そういう吐き方だった。

 豆太が穂の芽の周りをくるくる回った。

「やったやっただも。まめが一番嬉しいも」

「そなたが何かしたわけではないのぅ」

「でも嬉しいだも。土地の気配が変わったの、まめが一番分かるんだも。だから嬉しさも一番だも」

 稲乃は反論しなかった。豆太の言いたいことは分かった。


 早苗に知らせると、早苗は苗代へ走ってきた。

 穂の芽を見て、しゃがんで、しばらく動かなかった。

「……本当に出てる」

「ああ」

「枯れてたやつが」

「根が戻った」

 早苗は立ち上がって、稲乃を見た。目が少し赤かった。泣いたわけではなかったが、泣く一歩手前の目だった。

「まだ収穫まで時間があるから、油断するなよ」

「言われるまでもない」

「でも、ちょっとだけ、よかった」

「……ああ」

 早苗は澪芹を見た。

「澪芹」

「うん」

「よかったね」

 澪芹は早苗を見た。それだけで言葉が続かなかった。二人は幼なじみで、ずっとこの村にいた。何年も続いた凶作を、二人で並んで見てきた。それが今朝、少し変わった。

「うん」

 早苗が澪芹の肩をぽんと叩いて、田の方へ歩いていった。

 稲乃はその背中を見ていた。早苗の肩が、少し震えていた。しかし歩き続けていた。それが早苗という人間だった。


 穂が出たことを村人に知らせると、反応はさまざまだった。

 信じない者もいた。見に来て、自分の目で確かめてから黙って帰る者もいた。少しだけ顔が変わった者もいた。泣いた者は、老いた女が一人だけいた。

 長のところへ澪芹が知らせに行くと、長は布団の上で長い間黙っていて、最後に「そうか」と言ったそうだった。

 稲乃はその話を聞いて、何も言わなかった。

 そうか、という短い言葉の中に、何年分のものが入っているか、想像するだけで重かった。


 昼過ぎに、鈴那が来た。

 穂の芽のことは豆太が知らせに行っていたので、鈴那は様子を見に来た。苗代を見て、土の状態を確かめて、稲乃の神気を一度測るような目で見た。

「戻ってきているわね」

「少しずつじゃ」

「田に触れて、人の祈りに触れて、ということが効いている。都で力を失った原因がどこにあるにしても、回復の道はここにある」

「そうかもしれぬ」

「穰津彦との決着は、収穫の前に要る。今の状態なら、あと半月ほどで十分な力が戻るかもしれない」

「その読みはどこから」

「あなたの神気の戻り方を見ていれば、だいたい分かる」

 鈴那は稲乃を見た。

「怖いか」

「何がじゃ」

「穰津彦と向き合うことが」

 稲乃は少し考えた。

「怖い、とは少し違う。重い、という感じじゃ」

「重い」

「あれは、わらわが他人事とは思えぬから。都に捨てられた神の悲しみが、自分のことのように重い」

「だからこそ、向き合えると思う。他人事と思って祓おうとする者より、重さを分かる者の方が、穰津彦の悲しみに届く可能性がある」

 鈴那は言う。

「届いたとして、どうなるのじゃ」

「分からない。鎮まるかもしれない。消えるかもしれない。あるいは、別の形になるかもしれない」

「消えたくないと思うかもしれぬ。穰津彦は」

「そうね。百年以上、ここにいた。鎮まることを、死と感じるかもしれない」

「それでも」

「向き合うしかない。でも、消すことが目的ではないはずよ。名を呼んで、見捨てないと示すことが目的なら、消えることを強いることにはならない」

 稲乃はその言葉を、しばらく持っていた。

 消すことではなく、向き合うこと。悲しみを、終わらせることではなく、受け取ること。

「……難しいのぅ」

「難しい。でも、あなたには澪芹がいる」

「澪芹が何をするのじゃ」

「祝詞を上げる。名前を呼ぶ。それだけでいい」

鈴那は少し笑った。

「人間が神の名を呼ぶことは、神気では届かないものに届く。あの子の祝詞は正確だから、きっと届く」


 夕方、早苗が澪芹のところに来て、二人で少し話した。

 稲乃は縁側で神名札を読んでいたから、話の内容は聞こえなかった。しかし澪芹の表情が変わっていくのは見えた。

 最初は普通の顔で、だんだん少し困ったような顔になって、最後に少し笑った。

 早苗が帰るとき、稲乃を一度見た。何かを言いたそうな顔だったが、言わなかった。ただ、軽く頷いて、道を下っていった。

「何を話しておったのじゃ」

 澪芹が縁側に来て、稲乃の隣に座った。

「……早苗に、気づかれていました」

「何を」

「いろいろと」

「いろいろ、とは」

 澪芹は少し間を置いた。

「稲乃さまのことを、どう見ているかを、ずっと前から気づいていたそうです」

 稲乃は神名札から目を上げた。

「早苗が」

「はい。でも言わなかったと。言えば澪芹が固くなると思って」

「……気の利く娘じゃな」

「そうなんです」

澪芹は田を見た。

「早苗に、背中を押されました」

「何と言われたのじゃ」

「言えません」

「なぜ」

「恥ずかしいので」

 稲乃は澪芹を見た。澪芹は田を見たまま、頬が少し赤かった。

「押されて、どうするのじゃ」

「どう、とは」

「押された先に、何かするのか」

 澪芹はしばらく田を見ていた。

「……秋になれば、言葉にできるかもしれません」

「秋まで待つのか」

「今は、田と穰津彦のことが先です。それが終わったら」

「終わったら」

「終わったら、言います」

澪芹の灰青の瞳が、夕日の中で落ち着いていた。

「今は、それだけにしておいてください」

 稲乃は澪芹を見た。

 それだけでもうよいと、今日は思えた。秋まで、言葉を待てる。その間に田を守り、穰津彦と向き合い、収穫を迎える。それが終われば、澪芹は言葉を持ってくる。

 そう分かっていれば、今夜は待てた。

「分かった」

「はい」

「秋に聞く」

「はい」

 二人で田を見た。穂の芽が出た苗代が、夕日に照らされている。まだ小さな膨らみだったが、今朝はなかったものだった。


 その夜、豆太が縁側で稲乃の膝に乗って、言った。

「姫さま、土地の震えが大きくなってるも」

「穰津彦か」

「うん。穂が出たことで、収穫が近くなって、穰津彦さまも感じてるんだと思うだも。収穫の前に全部持っていきたいって気持ちが、強くなってるも」

「どのくらいで限界が来る」

「今のままだと、半月くらいだも。鈴那さんが言ってたのと同じくらい」

「半月で、力が十分戻るかどうかじゃな」

「戻ると思うだも。まめには分かるだも」

「何が分かるのじゃ」

「田に触れるとき、姫さまの神気が昨日より強いだも。田も感じてると思うも。だから穂が出たんだも」

 稲乃は豆太の頭をなでた。

「豆太」

「なんだも」

「そなたは、最初からここにいたのか。この土地に」

「ずっといただも。まめが生まれた頃から、ここにいるだも」

「穰津彦のことも、知っておったのか」

「知ってたというか、感じてたも。ずっと底の方で悲しい気配がして、怖かっただも。でも触れたら駄目な気がして、近づかなかっただも」

「それでよかったの」

「でも姫さまが来てから、向き合えそうな気がしてきただも」

「なぜじゃ」

「姫さまが、怒りより先に悲しみを感じてくれたから」

豆太は稲乃を見上げた。

「穰津彦さまのことを、退治するんじゃなくて、会いに行く気持ちで考えてくれてるから」

 稲乃は田を見た。

 会いに行く、という言葉が、豆太から出るとは思わなかった。しかしその言い方は、正確だと思った。祓いではなく、向き合うこと。怒りを鎮めるのではなく、悲しみを受け取ること。それは会いに行くことだった。

「豆太は、怖いか」

「怖いだも。あの気配は怖いだも」

豆太は少し間を置いた。

「でも、まめも行くだも。姫さまと澪芹ちゃんだけじゃ心配だも」

「足手まといになるぞ」

「なってもいいだも。それでも行くだも」

 稲乃は豆太の頭をもう一度なでた。

「……よい狸じゃ」

「知ってるだも」

 豆太がくるりと丸まった。

 田が暗くなっていた。穂の芽が出た苗代は見えなかったが、そこにあることが分かっていた。小さな命の膨らみが、夜の田の中にある。

 失いたくなかった。

 今夜初めて、稲乃はその言葉を自分の言葉として持った。田が実ることを望んでいたのは最初からだった。村を守りたいと思っていたのも途中からだった。しかし失いたくない、という言葉は、もっと別のものも含んでいた。

 澪芹が灯籠を持って縁側に来た。

「豆太、寝るんですか」

「寝るだも。姫さまの膝がいいだも」

「じゃあ邪魔します」

 澪芹は稲乃の横に座って、灯籠を置いた。豆太が稲乃の膝で丸まったまま動かない。三人が縁側に並んだ。

「眠れそうですか」

「もう少ししたら」

「今夜は揺れが大きかったですよね、底の方の」

「分かったのか」

「はっきりとは分かりません。でも、何か変わった気がして、目が覚めました」

「鋭くなっておるの、そなた」

「稲乃さまと一緒にいるからかもしれません」

 澪芹は田を見た。稲乃も田を見た。

 実りを失いたくない。この日々を失いたくない。澪芹を失いたくない。

 三つが同じ重さで、胸の中にあった。

「澪芹」

「はい」

「秋になっても、ここにいるか」

 澪芹は少し間を置いた。

「私はここの巫女です。どこにも行けません」

「そういう意味ではなく」

「……分かっています」

 澪芹は田を見たまま、続けた。

「秋になっても、ここにいます。収穫が終わっても、冬が来ても。それは変わりません」

「わらわが都へ戻らなければならなくなっても」

「稲乃さまが戻らなければならなくなっても、私はここにいます。待ちます」

 稲乃は何も言わなかった。

 待つ、と澪芹は言った。神が都へ戻ることになっても、待つ、と言った。その言葉の重さが分かって、稲乃には返す言葉がなかった。

 返す言葉の代わりに、稲乃は澪芹の手に自分の手を重ねた。

 澪芹が少し息を止めた。

 手を引かなかった。

 豆太が膝の上で、眠ったふりをしながら尻尾を一度振った。眠っていないことは、稲乃には分かっていた。

「豆太、起きておるじゃろう」

「寝てるだも」

「嘘をつくな」

「寝てるだも」

 澪芹が小さく笑った。

 田に風が来た。穂の芽を揺らして、また止んだ。底の方で穰津彦が動いていたが、今夜は昨夜より少し落ち着いている気がした。

 収穫まで、半月。

 それまでに決着をつける。穰津彦と向き合い、名を呼び、見捨てないと示す。それが終われば、収穫が来る。

 そして秋になれば、澪芹が言葉を持ってくる。

 稲乃はそれを待ちながら、澪芹の手を離さないまま、田を見続けた。夜が深くなっていった。豆太の寝息が、本物になった。

 灯籠の火が、静かに揺れていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ