第十七章 穂がつくころ
穂が出始めたのは、約束の翌朝から三日後のことだった。
澪芹が苗代を見に行って、戻るなり「来てください」と言った。声に珍しく急いた色があった。稲乃は草鞋を履いて出た。豆太も後ろについた。
南の苗代の端、昨日まで枯れかけていた苗の列に、細い穂の芽が出ていた。米粒ほどの小さな膨らみが、茎の先に宿っている。一本ではなかった。五本、十本、その周りにも。
澪芹が稲乃の横でしゃがんで、穂の芽に触れた。触れて、手を引いて、また触れた。
「本物ですか」
「本物じゃ」
「枯れていた苗が」
「根が戻っておる。土の中で何かが変わった」
稲乃は神気を土へ伸ばした。祭の夜に動いた土地の神気が、この三日で少し広がっていた。穰津彦の怒りがまだ底にあるが、その上の層で、土地本来の温かさが息を吹き返しつつあった。
「まだ全部ではない。しかし動いておる」
「収穫に間に合いますか」
「……分からぬ。しかしこのまま進めば、可能性がある」
澪芹は穂の芽を見たまま、少し息を吐いた。安堵というより、長い間張っていた何かが少し緩んだ、そういう吐き方だった。
豆太が穂の芽の周りをくるくる回った。
「やったやっただも。まめが一番嬉しいも」
「そなたが何かしたわけではないのぅ」
「でも嬉しいだも。土地の気配が変わったの、まめが一番分かるんだも。だから嬉しさも一番だも」
稲乃は反論しなかった。豆太の言いたいことは分かった。
早苗に知らせると、早苗は苗代へ走ってきた。
穂の芽を見て、しゃがんで、しばらく動かなかった。
「……本当に出てる」
「ああ」
「枯れてたやつが」
「根が戻った」
早苗は立ち上がって、稲乃を見た。目が少し赤かった。泣いたわけではなかったが、泣く一歩手前の目だった。
「まだ収穫まで時間があるから、油断するなよ」
「言われるまでもない」
「でも、ちょっとだけ、よかった」
「……ああ」
早苗は澪芹を見た。
「澪芹」
「うん」
「よかったね」
澪芹は早苗を見た。それだけで言葉が続かなかった。二人は幼なじみで、ずっとこの村にいた。何年も続いた凶作を、二人で並んで見てきた。それが今朝、少し変わった。
「うん」
早苗が澪芹の肩をぽんと叩いて、田の方へ歩いていった。
稲乃はその背中を見ていた。早苗の肩が、少し震えていた。しかし歩き続けていた。それが早苗という人間だった。
穂が出たことを村人に知らせると、反応はさまざまだった。
信じない者もいた。見に来て、自分の目で確かめてから黙って帰る者もいた。少しだけ顔が変わった者もいた。泣いた者は、老いた女が一人だけいた。
長のところへ澪芹が知らせに行くと、長は布団の上で長い間黙っていて、最後に「そうか」と言ったそうだった。
稲乃はその話を聞いて、何も言わなかった。
そうか、という短い言葉の中に、何年分のものが入っているか、想像するだけで重かった。
昼過ぎに、鈴那が来た。
穂の芽のことは豆太が知らせに行っていたので、鈴那は様子を見に来た。苗代を見て、土の状態を確かめて、稲乃の神気を一度測るような目で見た。
「戻ってきているわね」
「少しずつじゃ」
「田に触れて、人の祈りに触れて、ということが効いている。都で力を失った原因がどこにあるにしても、回復の道はここにある」
「そうかもしれぬ」
「穰津彦との決着は、収穫の前に要る。今の状態なら、あと半月ほどで十分な力が戻るかもしれない」
「その読みはどこから」
「あなたの神気の戻り方を見ていれば、だいたい分かる」
鈴那は稲乃を見た。
「怖いか」
「何がじゃ」
「穰津彦と向き合うことが」
稲乃は少し考えた。
「怖い、とは少し違う。重い、という感じじゃ」
「重い」
「あれは、わらわが他人事とは思えぬから。都に捨てられた神の悲しみが、自分のことのように重い」
「だからこそ、向き合えると思う。他人事と思って祓おうとする者より、重さを分かる者の方が、穰津彦の悲しみに届く可能性がある」
鈴那は言う。
「届いたとして、どうなるのじゃ」
「分からない。鎮まるかもしれない。消えるかもしれない。あるいは、別の形になるかもしれない」
「消えたくないと思うかもしれぬ。穰津彦は」
「そうね。百年以上、ここにいた。鎮まることを、死と感じるかもしれない」
「それでも」
「向き合うしかない。でも、消すことが目的ではないはずよ。名を呼んで、見捨てないと示すことが目的なら、消えることを強いることにはならない」
稲乃はその言葉を、しばらく持っていた。
消すことではなく、向き合うこと。悲しみを、終わらせることではなく、受け取ること。
「……難しいのぅ」
「難しい。でも、あなたには澪芹がいる」
「澪芹が何をするのじゃ」
「祝詞を上げる。名前を呼ぶ。それだけでいい」
鈴那は少し笑った。
「人間が神の名を呼ぶことは、神気では届かないものに届く。あの子の祝詞は正確だから、きっと届く」
夕方、早苗が澪芹のところに来て、二人で少し話した。
稲乃は縁側で神名札を読んでいたから、話の内容は聞こえなかった。しかし澪芹の表情が変わっていくのは見えた。
最初は普通の顔で、だんだん少し困ったような顔になって、最後に少し笑った。
早苗が帰るとき、稲乃を一度見た。何かを言いたそうな顔だったが、言わなかった。ただ、軽く頷いて、道を下っていった。
「何を話しておったのじゃ」
澪芹が縁側に来て、稲乃の隣に座った。
「……早苗に、気づかれていました」
「何を」
「いろいろと」
「いろいろ、とは」
澪芹は少し間を置いた。
「稲乃さまのことを、どう見ているかを、ずっと前から気づいていたそうです」
稲乃は神名札から目を上げた。
「早苗が」
「はい。でも言わなかったと。言えば澪芹が固くなると思って」
「……気の利く娘じゃな」
「そうなんです」
澪芹は田を見た。
「早苗に、背中を押されました」
「何と言われたのじゃ」
「言えません」
「なぜ」
「恥ずかしいので」
稲乃は澪芹を見た。澪芹は田を見たまま、頬が少し赤かった。
「押されて、どうするのじゃ」
「どう、とは」
「押された先に、何かするのか」
澪芹はしばらく田を見ていた。
「……秋になれば、言葉にできるかもしれません」
「秋まで待つのか」
「今は、田と穰津彦のことが先です。それが終わったら」
「終わったら」
「終わったら、言います」
澪芹の灰青の瞳が、夕日の中で落ち着いていた。
「今は、それだけにしておいてください」
稲乃は澪芹を見た。
それだけでもうよいと、今日は思えた。秋まで、言葉を待てる。その間に田を守り、穰津彦と向き合い、収穫を迎える。それが終われば、澪芹は言葉を持ってくる。
そう分かっていれば、今夜は待てた。
「分かった」
「はい」
「秋に聞く」
「はい」
二人で田を見た。穂の芽が出た苗代が、夕日に照らされている。まだ小さな膨らみだったが、今朝はなかったものだった。
その夜、豆太が縁側で稲乃の膝に乗って、言った。
「姫さま、土地の震えが大きくなってるも」
「穰津彦か」
「うん。穂が出たことで、収穫が近くなって、穰津彦さまも感じてるんだと思うだも。収穫の前に全部持っていきたいって気持ちが、強くなってるも」
「どのくらいで限界が来る」
「今のままだと、半月くらいだも。鈴那さんが言ってたのと同じくらい」
「半月で、力が十分戻るかどうかじゃな」
「戻ると思うだも。まめには分かるだも」
「何が分かるのじゃ」
「田に触れるとき、姫さまの神気が昨日より強いだも。田も感じてると思うも。だから穂が出たんだも」
稲乃は豆太の頭をなでた。
「豆太」
「なんだも」
「そなたは、最初からここにいたのか。この土地に」
「ずっといただも。まめが生まれた頃から、ここにいるだも」
「穰津彦のことも、知っておったのか」
「知ってたというか、感じてたも。ずっと底の方で悲しい気配がして、怖かっただも。でも触れたら駄目な気がして、近づかなかっただも」
「それでよかったの」
「でも姫さまが来てから、向き合えそうな気がしてきただも」
「なぜじゃ」
「姫さまが、怒りより先に悲しみを感じてくれたから」
豆太は稲乃を見上げた。
「穰津彦さまのことを、退治するんじゃなくて、会いに行く気持ちで考えてくれてるから」
稲乃は田を見た。
会いに行く、という言葉が、豆太から出るとは思わなかった。しかしその言い方は、正確だと思った。祓いではなく、向き合うこと。怒りを鎮めるのではなく、悲しみを受け取ること。それは会いに行くことだった。
「豆太は、怖いか」
「怖いだも。あの気配は怖いだも」
豆太は少し間を置いた。
「でも、まめも行くだも。姫さまと澪芹ちゃんだけじゃ心配だも」
「足手まといになるぞ」
「なってもいいだも。それでも行くだも」
稲乃は豆太の頭をもう一度なでた。
「……よい狸じゃ」
「知ってるだも」
豆太がくるりと丸まった。
田が暗くなっていた。穂の芽が出た苗代は見えなかったが、そこにあることが分かっていた。小さな命の膨らみが、夜の田の中にある。
失いたくなかった。
今夜初めて、稲乃はその言葉を自分の言葉として持った。田が実ることを望んでいたのは最初からだった。村を守りたいと思っていたのも途中からだった。しかし失いたくない、という言葉は、もっと別のものも含んでいた。
澪芹が灯籠を持って縁側に来た。
「豆太、寝るんですか」
「寝るだも。姫さまの膝がいいだも」
「じゃあ邪魔します」
澪芹は稲乃の横に座って、灯籠を置いた。豆太が稲乃の膝で丸まったまま動かない。三人が縁側に並んだ。
「眠れそうですか」
「もう少ししたら」
「今夜は揺れが大きかったですよね、底の方の」
「分かったのか」
「はっきりとは分かりません。でも、何か変わった気がして、目が覚めました」
「鋭くなっておるの、そなた」
「稲乃さまと一緒にいるからかもしれません」
澪芹は田を見た。稲乃も田を見た。
実りを失いたくない。この日々を失いたくない。澪芹を失いたくない。
三つが同じ重さで、胸の中にあった。
「澪芹」
「はい」
「秋になっても、ここにいるか」
澪芹は少し間を置いた。
「私はここの巫女です。どこにも行けません」
「そういう意味ではなく」
「……分かっています」
澪芹は田を見たまま、続けた。
「秋になっても、ここにいます。収穫が終わっても、冬が来ても。それは変わりません」
「わらわが都へ戻らなければならなくなっても」
「稲乃さまが戻らなければならなくなっても、私はここにいます。待ちます」
稲乃は何も言わなかった。
待つ、と澪芹は言った。神が都へ戻ることになっても、待つ、と言った。その言葉の重さが分かって、稲乃には返す言葉がなかった。
返す言葉の代わりに、稲乃は澪芹の手に自分の手を重ねた。
澪芹が少し息を止めた。
手を引かなかった。
豆太が膝の上で、眠ったふりをしながら尻尾を一度振った。眠っていないことは、稲乃には分かっていた。
「豆太、起きておるじゃろう」
「寝てるだも」
「嘘をつくな」
「寝てるだも」
澪芹が小さく笑った。
田に風が来た。穂の芽を揺らして、また止んだ。底の方で穰津彦が動いていたが、今夜は昨夜より少し落ち着いている気がした。
収穫まで、半月。
それまでに決着をつける。穰津彦と向き合い、名を呼び、見捨てないと示す。それが終われば、収穫が来る。
そして秋になれば、澪芹が言葉を持ってくる。
稲乃はそれを待ちながら、澪芹の手を離さないまま、田を見続けた。夜が深くなっていった。豆太の寝息が、本物になった。
灯籠の火が、静かに揺れていた。




