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実りを失った稲荷姫は、呪われた村で祈りを耕す〜もふもふ眷属に見守られ、神さまは今日も泥まみれ〜  作者: 明石竜


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第十六章 離れない手

 異変は、夜明け前に来た。

 稲乃が目を覚ましたのは、社全体が揺れるような感触があったからだった。地揺れではなく、神気の揺れだった。本殿の裏の石が、昨夜より大きく動いている。

 跳ね起きて、廊下へ出た。

 澪芹も出てきた。部屋が隣だから、同じものを感じたのかもしれない。二人は廊下で顔を合わせた。

「本殿の裏か」

「はい」

「豆太は」

「まめはここだも」

 豆太が廊下の端から来た。尻尾が逆立っていた。

「昨夜より大きいだも。石の下のものが、動こうとしてるだも」

「まだ動けぬはずじゃ。封じが残っている」

「でも、緩んでるだも。祭のあとから、少しずつ緩んでた。今夜、もう一段緩んだ」

 稲乃は本殿の裏へ向かった。澪芹も来た。豆太も来た。

 石は変わっていなかった。苔むした大きな石が、月明かりの中にひっそりとある。しかし石の周りの空気が違った。重かった。澱んでいた。穰津彦の神気が、石の下で圧を増していた。

 稲乃は石の前に立って、神気を伸ばした。

 ぶつかった。

 昨日より圧が強かった。飢えた怒りが、形を持とうとしていた。封じが緩んだことで、百年間眠っていたものが目を覚まそうとしている。収穫前に全部解放されたら、田は持たない。

「どのくらい時間があるか」

 豆太に聞いた。

「早ければ、収穫の前に全部出てくるかもしれないだも。今のままだと」

「今のまま、とは」

「穰津彦さまが、悲しいままだと、ってことだも」

 稲乃は石を見た。

 向き合わなければならない。鈴那はそう言った。名前を呼んで、見捨てないと示す。しかし今の自分の神気では一人では難しいと、葛葉は言った。

 力が足りない。

 ならば一人でやればいい、と稲乃は思った。

 自分が社の奥へ入って、石の下の穰津彦の神気を直接引き受けた方が早い。それで封じが安定するなら、田は秋まで持つ。自分がどうなるかは分からなかったが、田が持てば村は生き残れる。

「……今夜、社の奥に入る」

 澪芹が稲乃を見た。

「一人でですか」

「ああ」

「駄目です」

 稲乃は澪芹を見た。

「駄目とは」

「一人では無理です。葛葉さんも言っていました。今の稲乃さまの神気では」

「時間がない。収穫前に全部出てくれば田が終わる。そうなれば村が」

「分かっています」

澪芹は引かなかった。

「分かっていても、駄目です」

「わらわが一人で行けば、田は守れる可能性がある」

「稲乃さまはどうなるんですか」

「それは」

「それは、どうなるんですか」

 稲乃は答えなかった。

 穰津彦の怒りと悲しみを全部引き受ければ、自分の神気が持つかどうか分からなかった。都に戻る以前に、神格そのものが削られる可能性があった。しかしそれを澪芹に言えなかった。言えば、澪芹は止める。

「答えないということは、危険なんですね」

「……可能性として」

「駄目です」

 澪芹は稲乃の前に立った。一歩分の距離で、稲乃を見上げた。

「私が言ったことを、覚えていますか。一緒にやると言いました。田を最後まで守ると約束しました」

「それは田のことじゃ。今夜のことは別じゃ」

「別ではありません」

「しかし澪芹は人間じゃ。穰津彦の怒りに直接触れたら」

「触れても、やります」

「やります、では済まぬ。そなたが傷ついたら」

「稲乃さまが傷ついてもいいんですか」

 稲乃は返せなかった。

 澪芹の灰青の瞳が、月明かりの中で微かに光っていた。怒っているのではなかった。恐れてもいなかった。ただ、決めている目だった。

「神さまだからじゃなくて」

 澪芹は続けた。声が少し変わった。抑えていたものが、端から溢れ始めるような変わり方だった。

「あなたがいなくなるのが、嫌なんです」

 夜明け前の境内が、とても静かだった。

 豆太が息を詰めた。

 稲乃は澪芹を見た。澪芹は稲乃を見ていた。言ってしまったという顔ではなかった。言うべきことを言った、という顔だった。

「……澪芹」

「嫌なんです。田が実っても、呪いが鎮まっても、稲乃さまがいなければ意味がない。そう思っています」

「それは」

「信仰ではありません。神さまに向ける気持ちではないかもしれません。でも、本当のことです」

 稲乃の胸の中で、何かが崩れた。

 高い場所から積み上げてきた、神としての誇り。人間から距離を置くべきだという、都で教わった理屈。それらが一度に崩れた。崩れて、その下に何があったかが見えた。

 怖かったのだと、稲乃は気づいた。

 見捨てられることが、ずっと怖かった。都で笑いものにされても、追われても、誇りを張って平気なふりをしていたのは、本当は怖かったからだった。誰かに、見捨てないでほしかった。

 その誰かが、今夜、目の前にいた。

 稲乃は動いた。

 自分でも気づかないまま、腕が動いた。澪芹を引き寄せた。一歩の距離が、なくなった。澪芹の肩が稲乃の胸に当たった。

 澪芹が固まった。

 稲乃も固まった。

 しばらく、二人とも動かなかった。

 豆太が縁側の陰に消えた。音がした。消えようとして足音を立てた、豆太らしい消え方だった。

「……稲乃さま」

「黙っておれ、少しの間」

 澪芹は黙った。

 稲乃は澪芹を抱き寄せたまま、石を見た。穰津彦の神気が、石の下で動いていた。怒りの下にある悲しみが、百年分、そこにあった。

 見捨てられた神の悲しみが、分かった。

 今夜、初めて本当に分かった。抱えている澪芹の体温が、掌に伝わってきて、その温かさの中で分かった。

 誰かにそこにいてほしいと思うことは、弱さではない。

 しかしだからこそ、今夜一人で石の奥へ行くことはできなかった。

 澪芹を離した。

 澪芹は少し赤い顔をしていたが、稲乃を見た。

「一人では行かぬ」

「……はい」

「しかし時間がない。収穫前に向き合わねばならぬ。そのために、準備が要る」

「何が必要ですか」

「鈴那の力が要る。葛葉にも来てもらわなければならぬ。それから」

稲乃は澪芹を見た。

「そなたに、穰津彦の名前を呼んでもらわなければならぬ。古い祝詞と一緒に。できるか」

「できます」

「怒りに触れるかもしれぬ」

「触れても」

「怖くないのか」

「怖いです」

しかし、澪芹は引かなかった。

「でも、そこにいます」 

 稲乃は澪芹の目を見た。

 見捨てない、と示すこと。穰津彦に向けて、鈴那は言った。しかし今夜、その言葉は澪芹から稲乃へ向けて来た。

「分かった。最後まで、一緒にやる。それが約束じゃ」

「はい」

「秋まで、ここにいる」

「はい」

「田を守る。この村を守る。そのためにできることを、全部やる」

「一緒に」

「……一緒に」

 稲乃が繰り返すと、澪芹がわずかに息を吐いた。長い間息を詰めていたような、そういう吐き方だった。

 気持ちを言葉にしたことは、どちらも、なかった。

 しかし石の前に二人で立って、夜明け前の境内で約束をしたことが、言葉の代わりだった。それで今夜は十分だと、稲乃は思った。


 夜が明けていった。

 東の山の端が白くなり始めて、田が形を取り戻した。穰津彦の神気は、夜明けとともに少し収まった。夜の間に膨らんでいたものが、日が差すとともに石の下へ戻っていく。

 昼の間は封じが保つ。危ないのは夜だった。

「今日の昼間に、鈴那に文を送る」

「私が持っていきます」

「頼む。葛葉は山にいるはずじゃから、豆太に呼んでもらう」

「まめ、行くだも」

豆太が縁側から顔を出した。いつの間に戻っていた。

「聞いておったのか」

「全部だも」

「全部か」

「全部だも」

豆太はしっぽを揺らした。

「でも誰にも言わないも。さなえにも言わないも」

「言うなよ」

「言わないも」

豆太はしっぽをもう一度揺らした。

「でも一つだけ言っていいだも」

「何じゃ」

「姫さまが今夜、一人で行かないことにしてよかっただも」

 稲乃は答えなかった。

 澪芹も答えなかった。

 しかし二人とも、否定しなかった。

 田が朝日に照らされ始めた。水面が光を弾いて、苗が朝露を光らせている。穰津彦の悲しみが、土の下にある。それに向き合う日が、近い。

 しかし今朝は、それよりも先に、田の見回りがあった。水路の確認があった。早苗が来れば一緒に苗の状態を確かめなければならない。

 朝の仕事が、今日も始まる。

 稲乃は社の中へ戻った。澪芹も戻った。豆太は葛葉を呼びに走った。

 廊下で、澪芹が稲乃の前で止まった。

「稲乃さま」

「なんじゃ」

「さっき言ったこと、恥ずかしくなってきました」

「どれじゃ」

「あなたがいなくなるのが嫌だ、というやつ」

 稲乃は澪芹を見た。澪芹は少し目を逸らしていた。頬が赤かった。夜明けの光のせいだけではなかった。

「恥ずかしくなったなら、撤回するか」

「……撤回しません」

「では恥ずかしくてもよかろう」

「そういう話ではないんですが」

「そういう話じゃ」

 澪芹はしばらく稲乃を見て、それから視線を落とした。

「……稲乃さまは、恥ずかしくないんですか」

「何が」

「さっき、その、抱き寄せたこと」

 稲乃は少しの間黙った。

「……恥ずかしい」

「ですよね」

「しかし撤回しない」

 澪芹が顔を上げた。

「……撤回しないんですか」

「した方がよいか」

「しなくていいです」

 二人は廊下に立ったまま、少しの間黙っていた。田の朝の音が、障子越しに聞こえた。水の音、鳥の声、風の音。

「行くか」

「はい」

 二人で廊下を歩いた。肩の距離が、来たときより近かった。どちらも気づいていたが、どちらも離れなかった。


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