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実りを失った稲荷姫は、呪われた村で祈りを耕す〜もふもふ眷属に見守られ、神さまは今日も泥まみれ〜  作者: 明石竜


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第十五章 捨てられた神の名

 祭の二日後、朝から記録を並べた。

 澪芹が社の奥から出してきた神名札の原本、鈴那が持参した写本と断片、葛葉が山から戻って携えてきた都の古い記録の写し。それらを縁側と卓の上に広げると、社の中が紙だらけになった。

 四人と一匹が、その中に座った。

 葛葉は昨夜のうちに山から戻っていた。祭の夜に封じられたものが動いたことを、山の上から感じ取ったと言った。朝に社へ来たとき、本殿の裏の石を一目見て、黙って部屋へ入った。それから自分の荷の中から、紙の束を出してきた。

「都の古い記録の写しです。稲乃さまがここへ来ることになった直前に、私が写しておいたもの」

「なぜ写しておいたのじゃ」

「嫌な予感がしたので」

 葛葉は冷静にそれだけ言った。

 鈴那が葛葉の紙を受け取って、自分の記録と並べた。二人がしばらく無言で読んだ。稲乃は神名札を手に取って、神気で文字の消えた部分を読もうとした。澪芹は全員の傍に座って、書き取りの紙と筆を準備した。

 豆太は縁側の端で、しっぽを膝に巻いて待った。


 最初に口を開いたのは、鈴那だった。

「葛葉さん、この年号のところ」

「見ています」

「私の記録と一致している。この年に、都で大きな決定があった」

 鈴那は自分の写しを指で押さえた。

「飢饉への対応として、辺境の神祀りを都の管轄に統一する、という決定ね」

「その通り。それまで各地に独自の神を持っていた土地が、この年を境に、都の認める神格だけを祀るよう命じられた」

 稲乃は二人の話を聞きながら、神名札を読んだ。

 文字が消えた部分を、神気でなぞる。薄く残った筆の跡を、気が拾い上げる。一文字、また一文字。

「……名前がある」

 稲乃が言うと、全員が稲乃を見た。

「神名札の、消えた部分に。名前が残っておる。薄いが、読める」

「何という名じゃ」

葛葉が尋ねると、稲乃は神気を集めて、文字をなぞった。

穰津彦じょうつのひこ、と読める」

 鈴那が息を吸った。

「穰津彦」

「知っているのか」

「名前だけ。私の記録の中に、一度だけ出てくる名前よ」

鈴那は自分の写本をめくった。

「ここ。別の土地の記録に、引用として出てくる。かつて山あいの土地に祀られていた実りの神、穰津彦の名が、ある年の飢饉のあとに神祀りの記録から消えた、と」

「実りの神か」

「そう。この土地と同じ種類の神。豊穣を司る、土地に根付いた神格」

 稲乃は神名札を卓に置いた。

 穰津彦。

 名前があった。百年以上、名前を消されたままここにいた神に、名前があった。

「なぜ消されたのじゃ」

 鈴那と葛葉が目を見合わせた。

「葛葉さんの記録に、近いことが書かれていると思うけれど」

「はい」

葛葉は自分の紙を手に取った。

「都の記録には、こう書かれています。辺境の一部の神格が、飢饉の年に土地を実らせることができなかったため、禍つ神として記録を改めた、と」

「禍つ神」

「都合の悪い存在に、都がつける名前よ」

鈴那が穏やかな口調で言った。

「実りをもたらせなかったのは、神が悪かったからではなく、都が見捨てたからかもしれない。支援を断ち、祭を縮小させ、それで実らなくなったところを、神の失態として記録した」

 縁側が静かになった。

 稲乃は手の中で、神名札を持っていた。薄く残った名前が、掌に触れている気がした。

「つまり、穰津彦は、本当の罪を犯したわけではなかった」

 澪芹の問いかけに、

「そう思います」

鈴那が答えた。

「飢饉で実らせられなかったのは、その土地の神なら誰でも同じだった。しかし都は責任の行き場を求めて、辺境の神格を禍つ神に仕立てた。そうすれば都の判断は正しかったことになる」

「責任を押しつけた、ということか」

「記録の上では、そうとしか読めない」

 葛葉が補足した。

「都の記録には、この判断を下した者の名前も書かれていない。決定として存在するだけで、誰がそれを言い出したかは残っていません」

「残さなかったのじゃな。都合が悪いから」

「おそらく」


 しばらく、誰も話さなかった。

 鈴那が茶を替えた。葛葉が紙を揃えた。澪芹は書き取りの筆を持ったまま、動かなかった。

 豆太がゆっくりとした口調で言った。

「穰津彦さまは、ずっとここにいたんだも。名前を消されても、ここから離れなかったんだも」

「そうじゃな」

「なんで離れなかったんだろ。いなくなればよかったのに」

「離れられなかったのかもしれぬ。土地に根付いた神は、その土地から離れることが難しい」

「悲しいだも」

「ああ」

 稲乃は神名札を見た。

 穰津彦。名前を消されて、禍つ神として記録された神。百年以上、この土地の底にいる。実りをもたらしたかったのに、実らせられなかった。見捨てられたことへの怒りが、飢えに変わって、土地の水に混じり続けた。

 自分に似ている、と稲乃は思った。

 実りをもたらせなかった神。都に追われた神。辺境の地へ来た神。

 穰津彦は都に見捨てられて、稲乃は都を追われた。形は違うが、根は同じだと、稲乃は感じていた。

 その重さが、胸の奥に沈んでいった。

「稲乃さま」

 澪芹が呼んだ。

「なんじゃ」

「顔色が、さっきから悪いです」

「……考えておっただけじゃ」

「何を」

 稲乃は答えかけて、止まった。

 鈴那が稲乃を見ていた。葛葉も稲乃を見ていた。その目に、何かが混じっていた。

「稲乃さまは、穰津彦のことを他人事に思えないのでしょう」

 鈴那が問いかけたことを、稲乃は否定しなかった。

「……似ておると思った」

「どこが」

「実りをもたらせなかったことを、失態として記録された。責任の行き場として、使われた。追われた」

 部屋が静かだった。

「都で笑いものにされてきた、ということは澪芹から少し聞きました。詳しくは知らないけれど、あなたが都に都合よく使われた部分はあったと思う」

「証拠はないのぅ」

「でも、そう見える。実りの力を持つ神が、力を突然失うことは普通はない。何か理由がある。その理由を、あなた自身は知っているの?」

 稲乃は少し間を置いた。

「……ある神事の失敗が、きっかけと言われておる」

「あなたのせいだったの」

「そう言われた」

「あなたはそう思っているの」

 稲乃は答えなかった。

 思っていない、とは言い切れなかった。しかし思っている、とも言い切れなかった。あの日、何が起きたのかを正確に把握できたことは、一度もなかった。ただ、失敗した、と告げられた。そして力が戻らないまま、都を出た。

「分からぬ」

 それだけ言った。

 葛葉が口を開いた。

「都の記録に、あの神事のことは残っていません。ただ、あの神事の直後に、上位神が稲乃さまの扱いを変えたことは確かです。何かが、都合が悪かった」

「葛葉」

「言います」

葛葉は稲乃を真正面から見た。

「稲乃さまは、誰かの都合に使われた可能性がある。穰津彦と同じように」

 稲乃は葛葉を見た。

 都を出るとき、誰もそんなことは言わなかった。ただ責任を取れと言われた。ただ、あの村を頼むと言われた。その言い方の冷たさを、今も覚えていた。

「…………」

 言葉が出なかった。

 胸の奥に、長い間沈めていたものが、形を持ち始めていた。怒りなのか、悲しみなのか、自分でも分からなかった。

 澪芹が動いた。

 立ち上がって、稲乃の隣に来た。何も言わなかった。ただ、稲乃の横に座った。稲乃の袖が澪芹の袖に触れた。

 それだけだった。

 しかしその触れ方が、今の稲乃には丁度よかった。言葉でもなく、手当てでもなく、ただそこにいると伝わる距離だった。

 

 昼過ぎまで、記録を読み続けた。

 分かったことを、澪芹が紙に書き取った。

 穰津彦は、百年以上前にこの土地に根付いていた実りの神だった。飢饉の年に都の判断で禍つ神として記録を改められ、祭から外された。名前を消され、供物を断たれ、信仰を取り上げられた。しかし土地から離れられず、怒りと飢えの中で、形を失いながらも残り続けた。

 その残滓が、土地の水に染みて、田を枯らし続けた。刈り取り鬼と呼ばれるようになったのは、穰津彦が実りを「守る」ことができなかったために、代わりに実りを「奪う」形に変質したからかもしれない、と鈴那は言った。

「守れなかったものを、奪うことで存在し続けた」

「それが怨みになったのか」

「怨みというより、狂いね。長い時間をかけて、感情の形が変わった。最初は悲しみだったものが、怒りになって、狂いになった」

 豆太が縁側で小さく言った。

「悲しかったんだも」

「ああ。最初は、悲しかったのよ」

 鈴那が言った。

 稲乃は卓の上の記録を見た。

「解決するには、どうすればよいと思うか」

 鈴那が少し考えた。

「祓っても意味がないと思う。形を失ったものは、払っても消えない。別のやり方が要る」

「どんな」

「向き合うこと。名前を呼ぶこと。都のやり方ではなく、この土地のやり方で」

「名前を呼ぶだけで」

「だけ、ではないわ。名前を呼んで、見捨てないと示す。それができれば、狂いが解ける可能性がある。ただし、相当な力が要る。祓いではなく、向き合うということは、相手の怒りと悲しみを全部受け取ることになる。それを受け取れる神気と、覚悟が要る」

 鈴那の言ったことに、稲乃は何も言えなかった。

 葛葉が言った。

「今の稲乃さまの神気では、一人では難しいかもしれません」

「分かっておる」

「力が戻れば別ですが」

「分かっておると言うた」

 葛葉は黙った。

 澪芹が書き取りの紙から顔を上げた。

「私も、できることがありますか」

「そなたは人間じゃ」

稲乃は言いかけた。

「人間でも、祝詞は上げられます。名前を呼ぶことはできます」

「しかし穰津彦の怒りに触れたら」

「触れても、やります」

 澪芹の灰青の目が、しめやかに稲乃を見ていた。

「一緒にやると言いました。田を守ると約束しました」

「それは田のことじゃ」

「田の底にあるものも、田のことです」

 稲乃は澪芹を見た。

 鈴那が小さく笑った。意地悪ではなく、何かを認めた笑いだった。葛葉は表情を動かさなかったが、目が少し和らいだ。

「……決めるのは、もう少し先じゃ。今はまだ、力が足りぬ。秋までに何かが変わらなければならぬ」

「変わりますか」

「分からぬ。しかし田に触れ、土に触れ、人の祈りに触れることで、少しずつ戻ってきておる気がする。確かではないが」

「確かでなくてもいいです」

「なぜ」

「確かでなくても、少しずつ戻ってきているのが本当なら、それで十分です」


 夕方に、鈴那は「また来ます」とだけ言って、帰っていった。

葛葉は稲乃に「都には今夜、文を送ります」と伝えた。

「何を送るのじゃ」

「この土地の状況を。それから、穰津彦の名前を」

「都が何かすることを期待しておるのか」

「期待はしていません。ただ、記録に残しておく必要があると思って。都が穰津彦の名を消したなら、誰かが書き戻さなければならない」

 稲乃は葛葉を見た。

「……それは、都に背くことじゃ」

「そうかもしれません」

葛葉は微かに笑った。

「しかし、稲乃さまがお選びになるなら、わたくしは口を挟みません。ただし、見届けます」

 葛葉は鳥居をくぐっていった。

 稲乃は葛葉の背中を見送った。


 澪芹が隣に来た。

「葛葉さんは、稲乃さまのことが好きなんですね」

「好き、という言い方ではないが」

「眷属として大事に思っている、ということですか」

「それが近いのぅ」

「……羨ましいですね」

「何が」

「長い時間を、共に過ごしてきた相手がいること」

 稲乃は澪芹を見た。

「そなたには早苗がおるではないか」

「早苗には、私という存在がいます。でも私には」

澪芹は少し間を置いた。

「祖母がいなくなってから、長い時間を共に過ごす相手がいなかった」

「…………」

「神さまが来てから、少し変わりました」

 澪芹は田の方を向いて言った。稲乃を見ないで言った。だからこそ、言えた言葉のような言い方だった。

 稲乃は何と返すか分からなかった。

 長い時間を共に、という言葉が胸に来た。稲乃がここにいられる時間は、秋までかもしれない。葛葉の言葉が頭をよぎった。都に戻ることになる可能性。

 しかし今夜は、そのことを澪芹に言えなかった。

 言えないまま、二人で田を見た。

 日が落ちて、田が暗くなっていった。穰津彦の名前が、頭の中にあった。名を消されて、百年以上、その土地に残り続けた神の名前が。

 見捨てない、と示すことが必要だ、と鈴那は言った。

 稲乃は、その言葉の意味を今日一日かけて考えていた。

 見捨てない、と示すこと。都のやり方ではなく、この土地のやり方で。

 それは穰津彦に向けた言葉かもしれなかった。しかし稲乃の胸の中で、その言葉は別の方向にも向いていた。

 澪芹に、見捨てられたくない。

 初めてはっきりとそう思ったのは、今夜のことだった。

 思ってから、稲乃は少し驚いた。神が人間に、見捨てられたくないと思う。都ではあり得ないことだった。しかしここでは、そう思った。

 田が暗かった。穰津彦がそこにいた。稲乃もそこにいた。澪芹も隣にいた。

 何かが、少しずつ動いていた。


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