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実りを失った稲荷姫は、呪われた村で祈りを耕す〜もふもふ眷属に見守られ、神さまは今日も泥まみれ〜  作者: 明石竜


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第十四章 祭りの翌朝

 翌朝、社の境内にはまだ祭の名残が残っていた。

 灯籠は半分ほど片づけられていたが、供物台はそのまま本殿の前に置かれ、榊の青さも、昨夜の火の匂いも、まだ薄く朝の空気に残っている。夜のうちに風が変わったはずなのに、今朝の静けさは安らいだものではなかった。何かが眠り直したのではなく、こちらを窺いながら息を潜めている、そんな静けさだった。

 稲乃は縁側から境内を見渡した。

 田は朝靄の向こうで白く霞んでいる。昨夜、風にそよいだ苗の姿がまるで夢だったように見えるのに、神気を細く伸ばせば、確かに土地の奥がわずかに動いているのが分かった。よい方へ転んだとは、まだ言えぬ。むしろ、触れてはならぬものの表面に、こちらの祈りがかすかに触れてしまったのだという感覚の方が強かった。

「姫さま、起きてるだもか」

 豆太が縁側の柱の陰から顔を出した。葉っぱは少し曲がり、しっぽはまだ寝起きのようにふくらんでいる。

「とっくに起きておる。そなたこそ寝癖のようなしっぽをしおって」

「これは毛並みだも」

 言い返しながらも、豆太はすぐ真面目な顔になった。

 鼻をひくひくと動かして、境内の空気を嗅ぐ。

「……やっぱり、昨日と違うも」

「どう違う」

「閉じてたところが、ちょっとだけ近くなってるだも。いい匂いってわけじゃないも。でも、前みたいに何も分からない閉じ方じゃない」

 稲乃は豆太の頭をひとつ撫でて、縁側から降りた。

 本殿の前では、もう澪芹が片づけを始めていた。白い小袖の袖を少し絡げ、灯籠の油皿を外して布で拭いている。祭の翌朝だというのに、特別な顔はしていなかった。いつものように静かで、いつものように手を動かしている。ただ、手つきだけが、ほんの少しだけ昨夜の続きに触れているように見えた。

「起きるのが早いのう」

 稲乃が声をかけると、澪芹は手を止めて顔を上げた。

「神さまもです」

「わらわは神じゃからな」

「そうでした」

 澪芹はごく薄く言って、また油皿を布で拭いた。

 それがからかいではないと分かるくらいには、稲乃ももうこの少女の声に慣れていた。

「……昨夜、少しだけ応えた気がした」

 自分でも独り言のような声音だった。

 澪芹は油皿を箱に納めてから、ゆっくりと頷いた。

「はい。何も変わらない夜では、なかったです」

「怖くはなかったか」

「怖かったです」

 即答だった。

 澪芹は立ち上がって、供物台の方へ向かった。

「でも、ひとりではありませんでしたから」

 稲乃は一瞬、何も言えなかった。

 澪芹はそれ以上続けず、供物台の脚に手をかけた。持ち上げようとしたところで、少しぐらつく。祭具は古く、木が水気を吸って思ったより重かった。

「貸せ」

 稲乃も反対側に手をかけた。

「持てますか」

「誰に言うておる」

「念のためです」

 澪芹の指先が供物台の角に触れ、稲乃の手の甲とほんの少し当たった。

 ただそれだけのことなのに、稲乃は妙に意識してしまって、供物台を置くときに少しだけ強く音を立てた。

「乱暴です」

「重かったのじゃ」

「そういうことにしておきます」

 また、ごく薄い声だった。笑っているわけではない。しかし昨夜までより、言葉の置き方が少し柔らかかった。

 しばらく二人で黙って片づけを続けた。

 榊を束ね、使い終えた紙垂を外し、供物の器を下げる。祭の翌朝の社は、静かで、忙しかった。何かが変わったと大声で言う者はいない。ただ昨夜の痕を一つひとつ畳みながら、その変化をそれぞれの手で確かめているような朝だった。

 最初に来たのは、この村に来た翌朝に干からびかけた柿を供えていった年嵩の女だった。

 今朝の女は、小さな包みをひとつ抱えていた。白い布を解くと、黒豆がひと握りほど入っている。見栄えのする供物ではなかった。しかし昨日の柿二つとは違った。これは残り物ではなく、今朝、わざわざ選んで持ってきたものだと分かる量だった。

「たいしたものではありませんが」

 女はそう言って、神前に豆を置いた。

 それから少し迷うように本殿の方を見て、澪芹へ向き直る。

「……昨夜、風が変でしたね」

「はい」

澪芹が答えた。

「南の田の葉が、少し立って見えたんです。見間違いかもしれませんが」

「見間違いではないかもしれぬ」

稲乃がそう言うと、女は稲乃を見た。

 最初の日のような、何も預けまいとする目ではなかった。信じ切っているわけではない。けれど昨夜のことを、無視しないと決めた者の目だった。

「……そうですか」

 それだけ言って、女は深く頭を下げ、帰っていった。

 そのあとも、ぽつりぽつりと人が来た。

 若い母親が、握り飯をひとつ。腰の曲がった老人が、梅干しを三粒。子どもを連れた男が、水を替えた瓶子を黙って置いていく。誰も祭の成功を口にはしない。けれど昨夜の社を見た者たちが、自分の家から持ち寄れるものを、ほんの少しずつ置いていった。

 稲乃はそれを見ていた。

 都ならば、見栄えのする供物がいくらでも並ぶ。

 だが、今朝ここに置かれていくものは、昨日よりもずっと重かった。貧しい村の手からようやく切り出された、信じることへの小さな持ち直しだった。

「……昨日とは違うのう」

「はい」

 澪芹も同じものを見ていた。

 声は穏やかだったが、いつもより少しだけあたたかかった。

「まだ信じているわけではないと思います。でも、見なかったことにはできないんだと思います」

「それで十分じゃ」

 稲乃はすぐに答えた。

 そう言いながら、自分にも言い聞かせていた。十分だ。いきなりすべては変わらぬ。昨日まで閉じていたものが、今朝ひとつ開いた。それでよい。

「へえ、朝からにぎやかじゃない」

 ぶっきらぼうな声がして、早苗が現れた。

 肩に木材を一本担いでいる。後ろには、村の若い男がひとり、釘と道具袋を持っていた。

「それ、何じゃ」

「供物台、片方の脚がぐらついてたでしょ。見てられないから直しに来たの」

 早苗はそう言って、稲乃ではなく澪芹の方を見る。

「昨日のまま崩れたら縁起でもないし」

「ありがとうございます」

澪芹がお礼を言うと、早苗は少しだけ肩をすくめた。

「別に。手が空いてたから」

 明らかに嘘だった。畑も水路も忙しい時期に、手が空いているわけがない。

 けれど早苗はそれ以上言わせない顔で、さっさと供物台の脇にしゃがみ込んだ。男と二人で脚を外し、木材を合わせ、手早く補強していく。村に残る気がないと言いながら、こういう時に最初に動くのは結局この娘なのだと、稲乃は思った。

「神さま」

 作業の合間に、早苗が顔を上げた。

「な、なんじゃ」

「昨日は……まあ、悪くなかった」

 それだけ言って、すぐに釘打ちへ戻る。

 礼とも認めとも言い切らない、いかにも早苗らしい言い方だった。


 豆太は境内の端をうろうろしていたが、やがて本殿の裏へ回り込んだ。

 次の瞬間、葉っぱを逆立てたみたいにして戻ってくる。

「姫さま。あっち、やっぱり近いも」

「本殿裏か」

「うん。昨日より、石の下の匂いが近い。閉じてないっていうか、こっちを見てる感じがするも」

 稲乃の表情が変わったのを、澪芹も見たらしかった。

 供物台のそばから立ち上がり、こちらへ来る。

「何かありましたか」

「……よい方にだけ動いたわけではなさそうじゃ」

 稲乃は低い声で言った。

 神気を細く伸ばせば、本殿の裏で微かな脈のようなものが打っている。昨夜の祭で灯を入れたせいで、向こうもこちらを認識し始めたのだ。田だけを見ていて済む段ではない。

 澪芹は少しの間、本殿の方を見た。

 そして、迷いのない声で言った。

「では、記録を全部出します」

「祖母の写しも、神名札もか」

「はい。読めないと思っていたものも全部」

「一緒に読むぞ」

「……はい」

 短いやり取りだった。

 けれど、その「はい」は、祭の前よりも深く響いた。

 夕方までに境内は片づいた。供物台は早苗たちが直し、灯籠は箱へ戻り、神前には今朝持ち寄られた小さな供えものだけが残った。昨日までのこの社にはなかった景色だった。

 日が傾き、本殿の影が長く伸びたころ、稲乃はひとり神前に立った。

 昨日の祭は、終わったのではない。何かを起こしたのだ。

 こちらが呼び、土地が応え、石の下のものもまた目を覚ましかけた。

 ならば、知らねばならぬ。

 何がここで捨てられ、何の名が消され、何が飢えたまま百年を越えたのか。

 稲乃は振り返った。

 社の戸口には、紙束を抱えた澪芹が立っていた。

「明日の朝、全部持ってきます」

「頼む」

「一緒に読みます」

「ああ」

 今度は確認ではなかった。

 約束に近い声だった。

 暮れかけた空の下で、豆太が本殿裏をちらりと見て、小さく身震いした。

「……名前を知らないままにしとくの、もう無理そうだも」

 その通りじゃ、と稲乃は心の中で答えた。

 昨夜、こちらが触れてしまったのだ。ならば今度は、触れ返してきたものの名を知らねばならぬ。


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