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実りを失った稲荷姫は、呪われた村で祈りを耕す〜もふもふ眷属に見守られ、神さまは今日も泥まみれ〜  作者: 明石竜


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第十三章 夏の祭を取り戻せ

 提案したのは、雨の翌朝だった。

 夜中に降り始めた雨が、明け方まで続いた。田には恵みだったが、水路の一部が詰まって、朝から澪芹と早苗が泥をかき出した。稲乃も加わって、三人で半刻ほど作業した。

 泥をかき出し終わって、三人が畦道に腰を下ろしたとき、稲乃は言った。

「祭をしたい」

 澪芹が手拭いで手を拭きながら、こちらを見た。早苗は空を見上げていたが、目を下ろした。

「夏の祭じゃ。小さくてよい。供物と、社の清めと、古い歌を一つ。それだけでよい」

「前に長に話した件ですね」

澪芹が言った。

「ああ。あれから鈴那の記録を読んで、確信が強まった。この土地の神気はまだ眠っておる。祭の火と祈りで、動かせるかもしれぬ」

「かもしれぬ、ですか」

「保証はできぬ。しかし何もせぬよりはましじゃ」

「村の人たち、動くかな」

 早苗が空を見たまま言った。

「分からぬ」

「正直だね」

「動かなければ意味がないから、正直に言う」

 早苗は稲乃を見た。それから澪芹を見た。

「あたし、声かけてみる」

「早苗」

「どうせ今年で最後かもしれないんだから、やれることはやっておいた方がいい。それに」早苗は少し口を曲げた。「祭、子どもの頃に一回だけやったことある。うっすら覚えてる。楽しかった」

 澪芹が早苗を見た。

「楽しかった」

「うん。だから、もう一回くらいいいじゃないって思う。駄目だったとしても、やったことは残るから」

 豆太が草の上で尻尾を振った。

「まめも手伝うも。土地の気配が変わるとき、まめが一番分かるだも。祭が始まれば、絶対何か変わるも」

「豆太が言うなら、信じる」

「まめの言葉を信じてくれるのはさなえだけだも」

「神さまより信用できるもん」

「こら」

稲乃が突っ込み、早苗が少し笑った。


 準備に三日かかった。

 その日の夕方、社の石段の下に、見覚えのある影がひとつ立っていた。

 翌朝、挨拶だけして帰っていった、あの年嵩の女だった。

 女は境内へは上がらず、風呂敷包みを石段の端にそっと置いた。

「榊が、少しだけ残ってたから」

 それだけ言って、帰ろうとする。

 澪芹が一歩、前へ出た。

「ありがとうございます」

 女は振り向かなかった。

「礼を言われるほどのことじゃないよ。ただ、荒れたまま終わるのは気分が悪いだけさ」

 声はそっけなかったが、足はすぐには動かなかった。

 その少しあとのことだった。今度は石段の向こうから早苗が現れた。縄と竹を肩に担いでいる。

「手伝うつもりはなかったんだけど」

 そう言いながら、早苗は竹を下ろした。

「それは、どう見ても手伝う者の荷ではないか」

 稲乃が言うと、早苗は少しだけ眉を上げた。

「祭の飾りに使えそうな竹が、裏の藪にまだ残ってたの。放っといて腐らせるよりはましでしょ」

 豆太が草の上で尻尾を振った。

「さなえ、戻ってきただも」

「戻ってない。まだ決めてない」

 早苗はすぐに言い返したが、社の方へ向ける目は、前より少しだけやわらかかった。

「でも、やるなら中途半端は嫌なんだよ」

 風が吹いて、石段の端に置かれた榊の葉がかすかに鳴った。

 澪芹はそれを見て、ほんの少しだけ息をついた。

 誰も、信じるとは言わなかった。

 それでも、閉じていたものが、指先ほどには開いた気がした。


 一日目は、村人への声かけだった。

 早苗が若者たちに話した。澪芹が長のところへ行った。稲乃は社で神気を整えながら、二人を待った。

 夕方に二人が戻ってきて、澪芹が言った。

「十二人、来ると言ってくれました」

「十二人か」

「全員ではないです。来ない人の方が多い。でも、十二人」

「十二人おれば十分じゃ」

「あたしも入れて十三人。あと鈴那さんも来るって」

「鈴那が来るのか」

「昨日、澪芹から知らせが行ってたみたいで。来てもいいかって言ってきた」

 稲乃は澪芹を見た。

「鈴那に声をかけておったのか」

「この土地の記録を一番持っているのは鈴那さんなので。何か分かるかもしれないと思って」

「……よい判断じゃ」

 澪芹は少し目を逸らした。

 その言葉のあとから、準備は少しずつ動き始めた。

 倉の奥から、長く使われていなかった榊立てや供物台が運び出される。錆びをこすり落とす者、割れた脚に木片をあてて縄で締め直す者、黙々と床を拭く者。どの手つきにも慣れはなかったが、ぞんざいさもなかった。

 幼い子が鈴をひとつ抱えて運ぼうとして、重たそうによろけると、若い母親が苦笑して受け取った。年嵩の女は、持ってきた榊の葉を選り分けながら、「それはまだ青い」と穏やかな声で言った。早苗は縄を張り直しながら、曲がった竹の位置に何度も駄目を出していた。

 澪芹は祖母の手で書かれた祝詞の紙を広げ、風に飛ばされぬよう石で端を押さえた。かすれた文字を指でなぞる横顔は、いつもより少しだけ張って見えた。

 稲乃は運び出された祭具の前にしゃがみ込み、欠けた縁や歪んだ台座にそっと触れた。壊れを直すほどの奇跡は起こせぬ。けれど掌の先から細く神気を通すと、長く眠っていた木と布が、かすかに息を返すような気がした。

 誰も、祭がうまくいくとは言わなかった。

 それでも人の手が入った社には、昨日までとは違う静けさが生まれていた。祈りの置き場所が、もう一度そこに形を取りはじめているような静けさだった。


 二日目は、社の清めと祭具の準備だった。

 倉の中の祭具はほとんど使えなかったが、澪芹が手入れできるものを見つけ出してきた。榊立ては錆を落とせば使えた。幣束は新しく作った。神楽面は一枚だけ、破れていないものがあった。

 稲乃は社の結界を丁寧に張り直した。普段より深く、広く。土地の神気に向けて、開くための結界を。

 鈴那が昼に来て、古い歌の欠片を持ってきた。

「この土地の祭で使われていた歌の断片が、別の記録に引用されていました」

「全部ではないのか」

「三番までのうち、二番だけ」

鈴那は紙を出した。

「でも、核心の部分は残っている」

 稲乃は紙を見た。古い言葉で書かれた、短い歌だった。実りを呼ぶ歌ではなく、土地を呼び起こす歌だった。眠っているものを、丁寧に起こすような歌だった。

「澪芹、これを覚えられるか」

「読んでみます」

 澪芹は紙を受け取って、声に出さずに読んだ。

「……覚えられると思います。意味が分かりやすい」

「祝詞とは違うが、神事の歌じゃ。声の調子が大事になる」

「教えてもらえますか」

「わらわと一緒にやれば分かる。夕方から練習しよう」

 鈴那が二人を見て、何か言いたそうな顔をした。しかし何も言わなかった。ただ、表情の端に小さな笑いがあった。


 三日目は、供物の準備だった。

 村から集まったものは多くなかった。米も野菜も、余裕があるわけではない。しかし十三人が少しずつ持ち寄ったものが、供物台の上に並んだ。

 早苗が運んできた麦を見て、稲乃は少し黙った。

「その麦は」

「うちの父が出した。去年の分が少し残ってたから」

「村の食料じゃろう」

「供物に出せるくらいは、ある。それくらいは余裕があるってことにした」

 余裕があることにした、という言い方だった。あることにしなければ、出せなかったかもしれない。それでも出した。稲乃はそれを受け取った。

「ありがたく使わせてもらう」

「うん。だから絶対、何かしてよ」

「する」

「約束だよ」

「約束じゃ」

 早苗が少し照れたような顔をして、荷を置いた。


 祭の夜が来た。

 日が落ちてから、十四人が社に集まった。鈴那を入れて十四人。村の人口から見れば少なかったが、境内に集まると、以前よりずっと多かった。

 稲乃は本殿の前に立った。

 白い装束を改めて整えて、髪飾りの稲穂意匠を直して、両手に幣束を持った。神として立つ形だった。泥の田に入るときとも、縁側で田を見るときとも違う、今夜だけの形だった。 

境内には、静かな気配が満ちていた。

 誰も大きな声では話さなかった。社の石段の下には、家ごとに持ち寄られたものが、控えめに並べられていた。榊の枝、形の揃わぬ野菜、わずかな米、山で採れた木の実。どれも豊かな供え物ではなかったが、今この村から出せるものばかりだった。

 幼子が何か言いかけると、若い母親がそっと肩を抱いて口元へ指を当てた。早苗は腕を組んだまま拝殿の柱にもたれていたが、いつものような棘は顔に出していなかった。年嵩の女は供えた榊の葉先を指で整え、それから一歩下がった。

 古びた祭具の匂いに、切ったばかりの榊の青さと、湿った土の匂いが混じっていた。

 まだ誰も、願いを口にはしない。

 それでも境内に立つ者たちは、半ばためらいながらも、同じ方を見ようとしていた。

 澪芹が稲乃の左に並んだ。巫女装束を着ていた。白い小袖に浅葱の袴。継ぎ当てのある袴だったが、丁寧に洗ってあった。

「始めるか」

「はい」

 稲乃は幣束を振った。

 祓いの祝詞を上げた。声が境内に広がる。参加した村人たちが頭を下げた。十四人の頭が、夜の灯籠の光の中で一斉に下がる光景は、稲乃が都で見てきたどの神事とも違った。形が崩れていた。作法を知らない者もいた。それでも、頭を下げていた。

 祝詞が終わると、澪芹が歌を始めた。

 低い、穏やかな声だった。練習したときより、落ち着いていた。古い言葉で書かれた歌が、夜の空気に溶けていく。実りを呼ぶのではなく、土地を呼び起こす歌。眠っているものに、まだここに人がいると伝える歌。

 稲乃は澪芹の歌を聞きながら、神気を境内の土へ送った。

 土の下で、何かが動いた。

 動いた、と感じた瞬間、稲乃の掌に温かさが来た。実りの力ではなかった。もっと古い、土地そのものの温かさだった。この土地が、まだ生きていることの証だった。

 澪芹の歌が続く。

 温かさが少し広がった。社の境内から、田へ向かって。

 豆太が社の端で、しっぽを立てていた。耳が動いている。何かを感じ取っている。

 歌が終わった。

 境内が静かになった。

 その静けさの中で、風が来た。

 山から降りてきた風が、田を渡った。苗が一斉にそよいだ。波のように、端から端まで。

 田の水面にひと筋、淡い光が走った。風ではない揺れが、段々田の端から端へ静かに渡っていく。

 誰かが息を呑む気配がしたが、声にはならなかった。

 石段の下にいた年嵩の女は、いつの間にか胸の前でそっと手を合わせていた。早苗は腕を組んだまま、もう一度何か言いかけて、結局何も言わずに田を見つめていた。幼子を背に負った若い母親は、子の口元に指を当てるようにして、身じろぎもせず立っていた。

 長は深く頭を垂れたまま、しばらく上げなかった。

 祈りの言葉を口にする者は、まだいない。

 けれど境内には、祝詞のあとを追うように、黙った願いだけが少しずつ満ちていった。

 見ているだけだった者たちも、いつの間にかこの場に心を置いていた。

 稲乃は田を見ていた。光はすぐに消えた。しかし消えたあとの田が、来る前と少し違った。苗の立ち方が、わずかに変わっていた。

「動いた」

 豆太が言った。

「土地の気配が変わっただも。少しだけど、確かに変わった」

 稲乃は神気を田へ伸ばした。鈴那の記録に書かれていたこと、澪芹の写しの断片、葛葉が触れた呪いの根。それらが繋がりかけていた。

 しかしそのとき、社の奥で何かが動いた。

 境内の奥、本殿の裏に古い石があった。長年、誰も手を触れていない石だった。その石の下から、空気が変わった。

 温かさではなかった。

 冷たさだった。

 土地の神気が目覚めたことに反応して、別の何かも動き出した。封じられていたものが、緩んだ。祭の光が、蓋の役をしていたものを、少し持ち上げた。

 稲乃は本殿の裏へ向かった。

「稲乃さま」

澪芹が後ろから呼んだ。

「来るな。村人を遠ざけておれ」

「一人では」

「一人で見る。すぐ戻る」

 本殿の裏は暗かった。古い石が、月明かりの中に見えた。苔むした大きな石で、その周りだけ草が生えていなかった。

 稲乃は石の前に立った。

 神気を伸ばした。

 石の下に、何かある。封じられた何かがある。怒りではなく、飢えの記憶が、土の中で長い年月をかけて変質したものがある。

 それは怒っていた。しかし怒りの下に、もっと別のものがあった。

 稲乃はそれに触れかけて、手を引いた。

 まだ全部は分からない。しかし一つだけ分かったことがあった。

 これは、一人で向き合えるものではない。

 稲乃は本殿の裏から境内へ戻った。

 澪芹が待っていた。村人たちを少し離した場所で待たせて、一人で本殿の近くに立っていた。

「どうでしたか」

「封じられておる。石の下に。祭の光が緩めた。今夜はこれ以上開けない方がよい。しかし」

「正体が分かりましたか」

「……分かりかけた」

 稲乃は澪芹を見た。

「明日、鈴那ともう一度話をしたい。社の記録も全部持ってきてくれ。葛葉にも知らせが要る」

「分かりました」

「今夜の祭は、成功じゃ。土地が動いた。しかしそれと同時に、封じられていたものも動いた」

「それは、悪いことですか」

「悪いことではないかもしれぬ。向き合うためには、動かさねばならない。ただ、時間がかかる。秋の収穫まで、余裕はそれほどない」

 澪芹は頷いた。

 早苗が近づいてきた。

「田が光ったの、見えた」

「見えたか」

「うん。あれって、いいことだよね」

「いいことじゃ。土地が応えた」

「じゃあ、祭やってよかったんだ」

早苗は少し息を吐いた。

「なんか、久しぶりに気持ちがよかった。みんなで集まって、歌聞いて。それだけでも、よかった」

 稲乃は早苗を見た。

「そうじゃな」

「神さまもそう思う?」

「……ああ。そう思う」

 早苗が少し笑った。疲れた笑いではなく、少し軽い笑いだった。

 村人たちが解散し始めた。礼を言って帰る者、黙って帰る者、いろいろだった。しかし来る前より顔が少し違った。何かを置いてきた、あるいは何かを受け取った顔だった。

 豆太が稲乃の足元に来た。

「姫さま、本殿の裏に何があったも」

「封じられた神気じゃ」

「神さまの気配がしたも。古い神さまの気配」

「……そうか」

「怒ってたけど、悲しかっただも」

 豆太の言葉が、稲乃の胸に落ちた。

 飢えた怒りの下にあったのは、悲しみだった。稲乃が一瞬触れたとき感じたもの、怒りの下にあったものがそれだった。言葉にできなかったが、豆太が言葉にした。

「よく分かったのぅ」

「まめ、悲しい気配は分かるだも。土地の眷属だから」

 稲乃は本殿の裏の方向を見た。

 悲しかった神が、百年以上そこにいる。名を消されて、祭を取り上げられて、それでもその土地に残り続けて、飢えに変わっていった。

 自分がそうなることを、稲乃は想像しようとした。できなかった。しかし想像しなくても、胸のどこかが痛かった。

「澪芹」

「はい」

「今夜の歌、上手かった」

 澪芹は少し目を見開いた。

「……ありがとうございます」

「練習の甲斐があったのぅ」

「稲乃さまが教えてくださったから」

「そなたが飲み込みが早かっただけじゃ」

 澪芹は少しの間、稲乃を見た。

「稲乃さまは、褒めるのが得意ではないんですね」

「なぜそう思うのじゃ」

「照れた顔をしているので」

「照れておらぬ」

「そうですか」

 豆太がくるりと回った。

「照れてるだも、姫さま」

「黙れ豆太」

 早苗が小さく笑った。鈴那が遠くから見て、口の端を上げた。

 境内に灯籠の火がまだ残っていた。田は暗く、しかし本殿の裏の石は見えなかった。あの下に、百年の悲しみがある。

 それと向き合う日が、近づいている。

 稲乃は幣束を両手に持ったまま、田を見た。

 今夜は、ここまでだ。土地は動いた。祭は成った。封じられたものが緩んだ。それが今夜の全部だった。

 澪芹が隣に来た。灯籠を手に持って、稲乃の隣に立った。

「明日、記録を全部持ってきます」

「頼む」

「一緒に読みますか」

「ああ」

「では、朝から」

 二人で境内に残った灯籠を消した。一つ、また一つ。最後の一つを消すと、境内が月明かりだけになった。

 田が静かだった。

 さっきの風はもうなく、苗も揺れていなかった。しかし来る前と同じ静けさではなかった。土地の何かが、わずかに開いた夜だった。

 それが吉と出るか凶と出るかは、まだ分からなかった。

 しかし稲乃は、澪芹が隣にいることを確かめてから、社の中へ戻った。


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