↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「王都へ返さないで」と鳴る指輪を、忘れ物係は届けたい  作者: 銀細工ナギ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
9/20

特配官が隠していた理由

 地下道の水は、夜の森よりも静かだった。


 リエラとカイは、足首まで浸かる細い流れをたどっていた。背後では、古い小屋の扉を蹴る音がまだ響いている。追ってきた者たちは、二人が水路のどこへ消えたのか見失ったらしい。


 カイは片手に小さな灯りを掲げ、もう片方の手でリエラの腕を支えていた。足元の石は滑りやすく、暗闇の中では一歩ごとに水の深さが変わる。


「もう少しです」


「分かるんですか」


「父の手帳に、この道のことが書かれていた。地上から見えない返納路だと」


 その言葉に、リエラは前を向いたまま尋ねた。


「やっぱり、お父さまを探すためにここへ来たんですね」


 カイの歩みが止まった。


 水音だけが二人の間を流れていく。


「……ああ」


 短い返事だった。けれど、今までのように言葉を閉じる気配はなかった。


 少し先に、石壁をくり抜いた扉がある。扉の中央には、王立郵便の古い鳥の印が刻まれていた。カイは胸元から黒い金属札を取り出し、印の目に差し込む。乾いた音とともに、扉の内側でいくつもの錠が外れた。


 二人が中へ入ると、道は急に広くなった。


 そこは、使われなくなった郵便の中継所だった。壁沿いに小さな受け箱が並び、天井からは魔石の灯りがひとつだけ下がっている。埃をかぶった机の上には、乾いた封蝋と、半分崩れた記録簿が残っていた。


 カイは扉を閉め、金属札を抜いた。外からは見えない仕掛けなのだろう。錠が戻る音を聞いてから、彼はようやく灯りを机の上へ置いた。


 リエラは、彼の外套の内側に赤い封蝋の封筒があるのを見た。


「それも、隠していたものですか」


 カイは封筒に触れた。


「王立郵便からの命令書だ」


「指輪を回収しろ、という?」


「それだけではない」


 彼は封筒を取り出したが、封は切らなかった。赤い蝋には、鳥の印の下に細い波の模様が刻まれている。リエラが返納局で見てきたどの印とも違っていた。


「指輪を王都へ届けたあと、関連する記録をすべて回収し、名前を口にするな。そう書かれている」


「エルセナ水路の名前を?」


「水路の名も、橋の番号もだ」


 リエラの胸が冷えた。


 消された石柱。水で浮かび上がった文字。誰かが何年もかけて隠そうとしてきたものを、命令書は初めから存在しなかったことにしようとしている。


「それなのに、どうして私を連れてきたんですか」


「君を巻き込むつもりはなかった」


「もう巻き込まれています」


 思ったより強い声が出た。


 カイは目を伏せた。怒らせたことに困っているのではない。責められるのを、ずっと待っていたように見えた。


「最初に港へ来たとき、俺の命令は指輪だけを回収することだった。だが、指輪を拾った日付が、父の最後の記録と同じだった」


 彼は記録簿の上に、古びた革の手帳を置いた。表紙の角は擦り切れ、留め具には泥がこびりついている。七の数字が、何度も押されたように表紙へ残っていた。


「父は橋守だった。八年前、七つ目の橋で水門を開けた責任を負わされ、その夜に姿を消した。町では、洪水を起こして人を傷つけた橋守だと言われている」


 カイの指が手帳の上で固くなる。


「でも、父は水の流れを変えたのではない。変えられていた流れを戻そうとした。そう書かれた頁だけが、手帳から切り取られていた」


「だから、特配官に?」


「郵便なら、普通の役人が入れない場所へ行ける。封印された道も、記録を運ぶ人間の行き先も分かる。父が最後に何を届けたのか、探すためだった」


「命令を受けたふりをして、指輪の行き先を調べていたんですね」


「ふりではない。命令には従っていた。従うことでしか、父の記録に近づけなかった」


 そこで彼は言葉を切った。


「君の力を利用するつもりもあった」


 地下道の冷気より、その言葉のほうがリエラの肌を冷たくした。


「……利用?」


「物に残った最後の願いを聞ける人間を、俺はずっと探していた。記録は消せる。証言は黙らせられる。だが、物に残った声まで消す方法は知らなかった」


 カイはリエラを見た。


「君が指輪の声を聞いたと知ったとき、俺は喜んだ。これで父の無実に近づけると思った。だから、君が怖がっていることにも、帰りたがっていることにも、気づかないふりをした」


 リエラはすぐには答えられなかった。


 彼が自分を選んだ理由が、優しさだけではなかった。その事実は痛かった。けれど、雨の郵便宿で濡れた靴を乾かしてくれたことも、三つ目の橋で手を離さなかったことも、すべてが嘘だったとは思えない。


「私に話さなかったのは、命令のせいですか」


「それもある。君に知られれば、返納局まで調べられる。俺が父を探していると知られれば、特配の資格を失う。……それに」


 彼の声が、初めて揺れた。


「理由を話したら、君が俺から離れると思った」


 リエラは目を瞬いた。


 無口で、命令ばかりして、危険な道を一人で進もうとする男が、そんなことを恐れていた。


「勝手ですね」


「ああ」


「私が残るかどうかを、私に聞きもしないで決めるなんて」


「すまない」


 カイは頭を下げた。大げさな仕草ではない。ただ、まっすぐに非を認めるための姿勢だった。


 リエラは、机の上の手帳へ手を伸ばした。触れる前に、カイが止める。


「まだ、聞かないでくれ」


「どうして」


「父の最後の頁には、封印がかかっている。王家の印で閉じられているんだ。開けば、戻れなくなる」


 赤い封蝋の封筒が、灯りの下で鈍く光った。


 リエラはその封筒を見つめ、それからカイの手を見た。彼はいつも、何かを渡すときに自分の手を引いていた。危険から守るためだと思っていたが、もしかすると、彼自身が選ぶことを怖がっていたのかもしれない。


「返納局の仕事は、届いたものを正しい場所へ返すことです」


 リエラは静かに言った。


「でも、返す相手が嘘をついているなら、勝手に渡してはいけない。私はそう思っています」


「……君は、俺を返すのか」


「まだ決めていません」


 リエラは手帳から指を離した。


「ただし、聞くことは選べます。あなたが隠していた理由も、探しているものも。私が自分で決めるために、全部話してください」


 カイは長く息を吐いた。張り詰めていた肩が、ほんの少し下がる。


「分かった。もう隠さない」


 その瞬間、机の上の封筒から、かすかな音がした。


 封蝋の奥で、何かが三度、硬い机を叩いている。


 リエラには声として聞こえなかった。それでも、カイの顔色が変わったことで、ただの風ではないと分かった。


「父の手紙ですか」


「……分からない」


 カイは封筒を見下ろした。


「だが、父が最後に残したものなら、今度は君と一緒に開く」


 地下道の向こうで、水が低く鳴った。


 二人の間にあった隠し事は、すぐには消えない。それでもリエラは、彼の隣に立ったまま、王都へ続く古い返納路を見つめた。


 返すべきものを、返す相手を選ぶために。


 そして、まだ誰にも届けられていない警告を受け取るために。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。