特配官が隠していた理由
地下道の水は、夜の森よりも静かだった。
リエラとカイは、足首まで浸かる細い流れをたどっていた。背後では、古い小屋の扉を蹴る音がまだ響いている。追ってきた者たちは、二人が水路のどこへ消えたのか見失ったらしい。
カイは片手に小さな灯りを掲げ、もう片方の手でリエラの腕を支えていた。足元の石は滑りやすく、暗闇の中では一歩ごとに水の深さが変わる。
「もう少しです」
「分かるんですか」
「父の手帳に、この道のことが書かれていた。地上から見えない返納路だと」
その言葉に、リエラは前を向いたまま尋ねた。
「やっぱり、お父さまを探すためにここへ来たんですね」
カイの歩みが止まった。
水音だけが二人の間を流れていく。
「……ああ」
短い返事だった。けれど、今までのように言葉を閉じる気配はなかった。
少し先に、石壁をくり抜いた扉がある。扉の中央には、王立郵便の古い鳥の印が刻まれていた。カイは胸元から黒い金属札を取り出し、印の目に差し込む。乾いた音とともに、扉の内側でいくつもの錠が外れた。
二人が中へ入ると、道は急に広くなった。
そこは、使われなくなった郵便の中継所だった。壁沿いに小さな受け箱が並び、天井からは魔石の灯りがひとつだけ下がっている。埃をかぶった机の上には、乾いた封蝋と、半分崩れた記録簿が残っていた。
カイは扉を閉め、金属札を抜いた。外からは見えない仕掛けなのだろう。錠が戻る音を聞いてから、彼はようやく灯りを机の上へ置いた。
リエラは、彼の外套の内側に赤い封蝋の封筒があるのを見た。
「それも、隠していたものですか」
カイは封筒に触れた。
「王立郵便からの命令書だ」
「指輪を回収しろ、という?」
「それだけではない」
彼は封筒を取り出したが、封は切らなかった。赤い蝋には、鳥の印の下に細い波の模様が刻まれている。リエラが返納局で見てきたどの印とも違っていた。
「指輪を王都へ届けたあと、関連する記録をすべて回収し、名前を口にするな。そう書かれている」
「エルセナ水路の名前を?」
「水路の名も、橋の番号もだ」
リエラの胸が冷えた。
消された石柱。水で浮かび上がった文字。誰かが何年もかけて隠そうとしてきたものを、命令書は初めから存在しなかったことにしようとしている。
「それなのに、どうして私を連れてきたんですか」
「君を巻き込むつもりはなかった」
「もう巻き込まれています」
思ったより強い声が出た。
カイは目を伏せた。怒らせたことに困っているのではない。責められるのを、ずっと待っていたように見えた。
「最初に港へ来たとき、俺の命令は指輪だけを回収することだった。だが、指輪を拾った日付が、父の最後の記録と同じだった」
彼は記録簿の上に、古びた革の手帳を置いた。表紙の角は擦り切れ、留め具には泥がこびりついている。七の数字が、何度も押されたように表紙へ残っていた。
「父は橋守だった。八年前、七つ目の橋で水門を開けた責任を負わされ、その夜に姿を消した。町では、洪水を起こして人を傷つけた橋守だと言われている」
カイの指が手帳の上で固くなる。
「でも、父は水の流れを変えたのではない。変えられていた流れを戻そうとした。そう書かれた頁だけが、手帳から切り取られていた」
「だから、特配官に?」
「郵便なら、普通の役人が入れない場所へ行ける。封印された道も、記録を運ぶ人間の行き先も分かる。父が最後に何を届けたのか、探すためだった」
「命令を受けたふりをして、指輪の行き先を調べていたんですね」
「ふりではない。命令には従っていた。従うことでしか、父の記録に近づけなかった」
そこで彼は言葉を切った。
「君の力を利用するつもりもあった」
地下道の冷気より、その言葉のほうがリエラの肌を冷たくした。
「……利用?」
「物に残った最後の願いを聞ける人間を、俺はずっと探していた。記録は消せる。証言は黙らせられる。だが、物に残った声まで消す方法は知らなかった」
カイはリエラを見た。
「君が指輪の声を聞いたと知ったとき、俺は喜んだ。これで父の無実に近づけると思った。だから、君が怖がっていることにも、帰りたがっていることにも、気づかないふりをした」
リエラはすぐには答えられなかった。
彼が自分を選んだ理由が、優しさだけではなかった。その事実は痛かった。けれど、雨の郵便宿で濡れた靴を乾かしてくれたことも、三つ目の橋で手を離さなかったことも、すべてが嘘だったとは思えない。
「私に話さなかったのは、命令のせいですか」
「それもある。君に知られれば、返納局まで調べられる。俺が父を探していると知られれば、特配の資格を失う。……それに」
彼の声が、初めて揺れた。
「理由を話したら、君が俺から離れると思った」
リエラは目を瞬いた。
無口で、命令ばかりして、危険な道を一人で進もうとする男が、そんなことを恐れていた。
「勝手ですね」
「ああ」
「私が残るかどうかを、私に聞きもしないで決めるなんて」
「すまない」
カイは頭を下げた。大げさな仕草ではない。ただ、まっすぐに非を認めるための姿勢だった。
リエラは、机の上の手帳へ手を伸ばした。触れる前に、カイが止める。
「まだ、聞かないでくれ」
「どうして」
「父の最後の頁には、封印がかかっている。王家の印で閉じられているんだ。開けば、戻れなくなる」
赤い封蝋の封筒が、灯りの下で鈍く光った。
リエラはその封筒を見つめ、それからカイの手を見た。彼はいつも、何かを渡すときに自分の手を引いていた。危険から守るためだと思っていたが、もしかすると、彼自身が選ぶことを怖がっていたのかもしれない。
「返納局の仕事は、届いたものを正しい場所へ返すことです」
リエラは静かに言った。
「でも、返す相手が嘘をついているなら、勝手に渡してはいけない。私はそう思っています」
「……君は、俺を返すのか」
「まだ決めていません」
リエラは手帳から指を離した。
「ただし、聞くことは選べます。あなたが隠していた理由も、探しているものも。私が自分で決めるために、全部話してください」
カイは長く息を吐いた。張り詰めていた肩が、ほんの少し下がる。
「分かった。もう隠さない」
その瞬間、机の上の封筒から、かすかな音がした。
封蝋の奥で、何かが三度、硬い机を叩いている。
リエラには声として聞こえなかった。それでも、カイの顔色が変わったことで、ただの風ではないと分かった。
「父の手紙ですか」
「……分からない」
カイは封筒を見下ろした。
「だが、父が最後に残したものなら、今度は君と一緒に開く」
地下道の向こうで、水が低く鳴った。
二人の間にあった隠し事は、すぐには消えない。それでもリエラは、彼の隣に立ったまま、王都へ続く古い返納路を見つめた。
返すべきものを、返す相手を選ぶために。
そして、まだ誰にも届けられていない警告を受け取るために。




