消された水路の名前
橋を渡ったあとも、リエラの耳には水音が残っていた。
乾いていたはずの水路を、細い流れが走っている。石の隙間から湧いた水は、二人の足元を追い越し、森の奥へ向かっていた。銀糸の地図も同じ方向へ伸びている。さきほどまで眠っていた糸が、まるで道を急かすように、淡い光を帯びていた。
「水が戻ったのに、誰も気づかないでしょうか」
「この水路を知る者が残っていれば、気づく」
カイは振り返り、三つ目の橋を見た。
橋の向こうには、追ってきた者たちの足跡がある。水が流れ始めたせいで泥は崩れ、跡はすぐに消えていた。それでも、相手が諦めたとは思えない。
「急ごう」
彼はそう言って先に立ったが、歩調はリエラに合わせていた。
水路は森を抜け、崖の下に開いた狭い穴へ入っていった。人ひとりが身をかがめれば通れるほどの幅しかない。中からは冷たい風が吹き、濡れた石壁に古い梯子が掛かっている。
リエラが入口の脇を照らすと、半ば土に埋まった石柱が見えた。上部には数字の七が刻まれている。その下には、何か文字があったらしい。けれど、表面を削った跡が横一文字に走っていた。
「これも、名前を消された跡ですね」
「ああ」
カイは指で削り跡をなぞった。新しい傷ではない。雨風に晒され、角は丸くなっている。それでも、削った道具の刃先が深く食い込んだ部分だけは、白い石肌を残していた。
「名前が消えれば、地図からも消せる。地図から消えれば、修理の予算も、守る人間もいらなくなる」
「手紙に書かれていたとおりですね」
「だから、ここへ来たかった」
カイの声が低くなった。
リエラは横顔を見た。いつもの命令に従う特配官の顔ではない。何年も前から、消されたものを探している人の顔だった。
穴の中へ入ると、道はゆるやかに下っていた。流れに沿って進むと、やがて石造りの小屋に出た。屋根は崩れていたが、壁は残っている。入口には錆びた金具があり、そこにも七の印があった。
カイが扉を押す。蝶番が軋み、湿った空気の中へ古い紙の匂いが広がった。
小屋の中央には、倒れた机と空の棚があった。棚の奥の壁だけ、妙に黒ずんでいる。リエラが近づくと、流れてきた水が床の溝を伝い、壁の下へ吸い込まれていった。
水が触れた部分から、白い線が浮かび上がる。
最初はひび割れに見えた。けれど線は次々につながり、文字になった。
――エルセナ水路。
「読めますか」
「はい。エルセナ水路、と」
口にした瞬間、胸の奥が震えた。
その名を聞いたことはない。返納局の古い台帳にも、港の案内図にも載っていなかった。それなのに、水が名前を覚えていた。消された文字を、流れだけが守っていたのだ。
壁の下には、薄い金属板が埋まっていた。カイが短剣で土を払うと、王立郵便の印を模した鳥と、細かな数字が現れる。
リエラが金属板に触れた。
暗い小屋で、誰かが何度も筆を走らせている。外では激しい雨が降り、幼い子どもの泣き声が遠くから聞こえた。
――エルセナの名を消さないで。水は、帰る場所を覚えている。
声はそれだけを残して途切れた。
リエラは手を離し、息を整えた。
「最後の願いですか」
「ええ」
「誰の声だった」
「分かりません。でも、この水路を残したかった人です」
カイは金属板を外し、裏側を確かめた。そこには折り畳まれた布と、濡れないよう蝋で固めた紙片が挟まっていた。
紙片には、古い水路図の一部が描かれている。エルセナ水路は港の北側を通り、畑を潤し、最後に王立郵便の旧返納路へつながっていた。
リエラは指輪の入った袋を取り出した。袋の中で、指輪が小さく鳴る。
「王都へ返さないで」
あの残響ではない。リエラにはそう感じられた。指輪は言葉を繰り返したのではなく、水路図の上で行き先を示している。
図の端には、見慣れた記号があった。返納局で使う、保管期限を示す印だ。
「この水路は、返納局に届くものとつながっています」
「なら、昔の返納局が何を受け取ったかを調べられる」
カイは紙片を折り、懐へしまった。
その動きがあまりに素早くて、リエラは問いかけた。
「カイさん。エルセナ水路の名前を、知っていたんですか」
彼の手が止まった。
「……知らなかった。だが、父の手帳に同じ番号があった」
続く言葉を、カイは飲み込んだ。
外で枝の折れる音がした。三つ目の橋から、誰かが水路をたどって来ている。
カイは紙片をリエラへ渡した。
「これは君が持て」
「また、捕まったら私が届けると言うつもりですか」
「違う」
彼はまっすぐリエラを見た。
「今度は、君と一緒に届ける」
短い言葉だった。それでも、リエラの胸に灯りがともった。
二人は小屋の裏にある細い出口へ走った。水路はさらに王都の方角へ伸びている。消された名前を取り戻したことで、隠されていた道まで姿を現し始めていた。
背後で扉が蹴破られる音が響く。
リエラは銀糸の地図と紙片を抱え、カイの手を取った。
「エルセナ水路を、返しましょう」
「ああ。正しい場所へ」
流れは二人の足元を照らすように、暗い地下道を王都へ向かって進んでいった。




