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「王都へ返さないで」と鳴る指輪を、忘れ物係は届けたい  作者: 銀細工ナギ


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8/20

消された水路の名前

 橋を渡ったあとも、リエラの耳には水音が残っていた。


 乾いていたはずの水路を、細い流れが走っている。石の隙間から湧いた水は、二人の足元を追い越し、森の奥へ向かっていた。銀糸の地図も同じ方向へ伸びている。さきほどまで眠っていた糸が、まるで道を急かすように、淡い光を帯びていた。


「水が戻ったのに、誰も気づかないでしょうか」


「この水路を知る者が残っていれば、気づく」


 カイは振り返り、三つ目の橋を見た。


 橋の向こうには、追ってきた者たちの足跡がある。水が流れ始めたせいで泥は崩れ、跡はすぐに消えていた。それでも、相手が諦めたとは思えない。


「急ごう」


 彼はそう言って先に立ったが、歩調はリエラに合わせていた。


 水路は森を抜け、崖の下に開いた狭い穴へ入っていった。人ひとりが身をかがめれば通れるほどの幅しかない。中からは冷たい風が吹き、濡れた石壁に古い梯子が掛かっている。


 リエラが入口の脇を照らすと、半ば土に埋まった石柱が見えた。上部には数字の七が刻まれている。その下には、何か文字があったらしい。けれど、表面を削った跡が横一文字に走っていた。


「これも、名前を消された跡ですね」


「ああ」


 カイは指で削り跡をなぞった。新しい傷ではない。雨風に晒され、角は丸くなっている。それでも、削った道具の刃先が深く食い込んだ部分だけは、白い石肌を残していた。


「名前が消えれば、地図からも消せる。地図から消えれば、修理の予算も、守る人間もいらなくなる」


「手紙に書かれていたとおりですね」


「だから、ここへ来たかった」


 カイの声が低くなった。


 リエラは横顔を見た。いつもの命令に従う特配官の顔ではない。何年も前から、消されたものを探している人の顔だった。


 穴の中へ入ると、道はゆるやかに下っていた。流れに沿って進むと、やがて石造りの小屋に出た。屋根は崩れていたが、壁は残っている。入口には錆びた金具があり、そこにも七の印があった。


 カイが扉を押す。蝶番が軋み、湿った空気の中へ古い紙の匂いが広がった。


 小屋の中央には、倒れた机と空の棚があった。棚の奥の壁だけ、妙に黒ずんでいる。リエラが近づくと、流れてきた水が床の溝を伝い、壁の下へ吸い込まれていった。


 水が触れた部分から、白い線が浮かび上がる。


 最初はひび割れに見えた。けれど線は次々につながり、文字になった。


 ――エルセナ水路。


「読めますか」


「はい。エルセナ水路、と」


 口にした瞬間、胸の奥が震えた。


 その名を聞いたことはない。返納局の古い台帳にも、港の案内図にも載っていなかった。それなのに、水が名前を覚えていた。消された文字を、流れだけが守っていたのだ。


 壁の下には、薄い金属板が埋まっていた。カイが短剣で土を払うと、王立郵便の印を模した鳥と、細かな数字が現れる。


 リエラが金属板に触れた。


 暗い小屋で、誰かが何度も筆を走らせている。外では激しい雨が降り、幼い子どもの泣き声が遠くから聞こえた。


 ――エルセナの名を消さないで。水は、帰る場所を覚えている。


 声はそれだけを残して途切れた。


 リエラは手を離し、息を整えた。


「最後の願いですか」


「ええ」


「誰の声だった」


「分かりません。でも、この水路を残したかった人です」


 カイは金属板を外し、裏側を確かめた。そこには折り畳まれた布と、濡れないよう蝋で固めた紙片が挟まっていた。


 紙片には、古い水路図の一部が描かれている。エルセナ水路は港の北側を通り、畑を潤し、最後に王立郵便の旧返納路へつながっていた。


 リエラは指輪の入った袋を取り出した。袋の中で、指輪が小さく鳴る。


「王都へ返さないで」


 あの残響ではない。リエラにはそう感じられた。指輪は言葉を繰り返したのではなく、水路図の上で行き先を示している。


 図の端には、見慣れた記号があった。返納局で使う、保管期限を示す印だ。


「この水路は、返納局に届くものとつながっています」


「なら、昔の返納局が何を受け取ったかを調べられる」


 カイは紙片を折り、懐へしまった。


 その動きがあまりに素早くて、リエラは問いかけた。


「カイさん。エルセナ水路の名前を、知っていたんですか」


 彼の手が止まった。


「……知らなかった。だが、父の手帳に同じ番号があった」


 続く言葉を、カイは飲み込んだ。


 外で枝の折れる音がした。三つ目の橋から、誰かが水路をたどって来ている。


 カイは紙片をリエラへ渡した。


「これは君が持て」


「また、捕まったら私が届けると言うつもりですか」


「違う」


 彼はまっすぐリエラを見た。


「今度は、君と一緒に届ける」


 短い言葉だった。それでも、リエラの胸に灯りがともった。


 二人は小屋の裏にある細い出口へ走った。水路はさらに王都の方角へ伸びている。消された名前を取り戻したことで、隠されていた道まで姿を現し始めていた。


 背後で扉が蹴破られる音が響く。


 リエラは銀糸の地図と紙片を抱え、カイの手を取った。


「エルセナ水路を、返しましょう」


「ああ。正しい場所へ」


 流れは二人の足元を照らすように、暗い地下道を王都へ向かって進んでいった。

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