三つ目の橋で拾った手紙
鐘が二つ鳴る前に、三つ目の橋へ。
その言葉を胸の中で繰り返しながら、リエラは霧の街道を急いでいた。
銀糸の地図が示した古い道は、今では荷車も通らない細道だった。雨上がりの草が外套の裾を濡らし、靴の底には重たい泥がまとわりつく。隣を歩くカイは、何度も振り返っては、二人の後ろに誰もいないことを確かめていた。
「一つ目の橋です」
霧の向こうに、低い石橋が現れた。
橋の下には水路があるはずだった。けれど、石積みの間を覗いても、見えるのは枯れた葦と黒い土だけだ。橋の欄干には古い郵便印が刻まれていたが、印の中央だけが削り取られている。
リエラが指で触れると、冷えた石の奥から、かすかな音がした。
――ここは、まだ道だ。
「何か聞こえたか」
「いいえ。石には願いが残らないみたいです」
そう答えたものの、リエラは胸の奥がざわつくのを感じていた。誰かが、橋だけを残して水路を消した。その仕事は、地図の線を消すよりずっと乱暴だった。
二つ目の橋は、そこから半刻ほど先にあった。丸太を渡しただけの簡素な橋で、下には細い水が流れている。水は北から来ているのに、銀糸の線は西へ向かって震えた。
カイが橋のたもとで足を止める。
「誰かが通った」
泥の上に、今朝ついたばかりの靴跡があった。二人分。ひとつは踵が深く沈み、もうひとつは細い金具の跡を残している。昨夜、郵便宿を見張っていた者たちかもしれない。
「引き返しますか」
「いや。鐘が鳴る前に行く」
「危険ですよ」
「君を一人で戻すほうが危険だ」
あまりに平坦な声だったので、リエラは聞き流しそうになった。けれど、カイの耳がわずかに赤くなっているのを見つけてしまい、急に足元の泥が気になった。
三つ目の橋は、街道から外れた場所にあった。
木々の間に隠れるように、古い石橋が半分だけ姿を見せている。残りの半分は崩れ、橋脚の一つが傾いていた。水は流れていない。なのに、橋の下から湿った風が吹き上げてくる。
銀糸はリエラの手の中で強く引かれた。地図から抜け落ちた一本の糸が、橋の中央の石へ向かって伸びている。
「この石です」
カイは周囲を見回してから、腰を落とした。隙間に短剣の先を差し込むと、石は思いのほか簡単に動いた。下から現れたのは、油紙に包まれた細長い封筒だった。
宛名はない。
封蝋には王立郵便の印に似た紋が押されていたが、中央の鳥は翼を片方失っている。カイの表情が硬くなった。
「知っている印ですか」
「父の手帳に、よく似たものがあった」
彼が封筒を受け取ろうとしたとき、リエラの指先が紙に触れた。
冷たい雨の匂いがした。暗い橋の下で、誰かが息を殺している。遠くで鐘が一つ鳴り、男の声が低く震えた。
――これを拾う人が、橋を閉じる前に読めますように。
声はそこで途切れた。
リエラは息をのみ、封筒から手を離した。最後の願いを聞いたあとの紙は、ただの紙に戻っている。
「今のは、願いか」
「はい。橋を閉じる前に読んでほしい、と」
カイは封蝋を見つめたまま、短剣で端を切った。中には折り畳まれた便箋が一枚入っていた。
橋守殿へ。
七の水門を閉じる命令は、王都の正式な記録にはない。水路を止めれば、港の北側は干上がる。畑だけではない。古い返納路も、橋の下の待避所も使えなくなる。
誰かが水路の名を帳簿から消している。名がなければ、そこに水があったことも、橋を守る者がいたことも、なかったことにされる。
三つ目の橋の下に、最初の記録を残す。
どうか、王都の印だけを信じないでほしい。水の行き先を知る者の言葉を、次の橋守へ。
署名の部分は、刃物で切り取られていた。
カイは便箋を持つ手に力を込めた。紙が破れそうになり、リエラはそっと彼の手首に触れた。
「カイさん」
「……父は、この手紙を知っていたのかもしれない」
「まだ、そうとは限りません」
「分かっている」
返事は早かった。けれど彼の目は、切り取られた署名から動かなかった。
そのとき、森の向こうで枝の折れる音がした。
カイはリエラを橋の陰へ引き寄せ、片手で口元に指を立てた。しばらくして、街道のほうから低い話し声が聞こえてくる。
「三つ目を見れば分かる。銀の糸を探せ」
別の声が答えた。
「手紙もだ。あれを先に見つけろ」
リエラの心臓が跳ねた。けれど、肩を包むカイの腕は少しも揺れなかった。彼は音が遠ざかるまで待ち、それから地図と手紙をリエラの懐へ押し込んだ。
「持っていてくれ」
「カイさんが持つべきでは?」
「俺が捕まれば、君が届ける」
「そんな言い方、しないでください」
思わず強い声が出た。カイは目を見開き、すぐに視線を逸らした。
「……悪かった」
鐘が二つ鳴った。
霧の向こうで、三つ目の橋の石が低く唸った。乾いていた水路の底から、細い水音が返ってくる。銀糸の地図にはなかった線が、濡れた石の上に一瞬だけ浮かんだ。
その線の先には、削り取られた郵便印と同じ形の文字があった。
リエラが読み取るより早く、雨水が文字を覆う。
「見えましたか」
「一文字だけです」
「何と?」
リエラは手紙を胸に抱き、消えた水路を見つめた。
「たぶん……水路の名前の、最初の文字です」
カイは橋の向こうを見た。霧の奥で、誰かが二人を待っている気配がした。
「なら、名前を探す」
「返す相手を、ですか」
「ああ。手紙も、水路も」
彼の言葉に、リエラは小さくうなずいた。
三つ目の橋を渡ると、二人の背後で、乾いた水路に水が流れ始めた。




