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「王都へ返さないで」と鳴る指輪を、忘れ物係は届けたい  作者: 銀細工ナギ


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7/20

三つ目の橋で拾った手紙

 鐘が二つ鳴る前に、三つ目の橋へ。


 その言葉を胸の中で繰り返しながら、リエラは霧の街道を急いでいた。


 銀糸の地図が示した古い道は、今では荷車も通らない細道だった。雨上がりの草が外套の裾を濡らし、靴の底には重たい泥がまとわりつく。隣を歩くカイは、何度も振り返っては、二人の後ろに誰もいないことを確かめていた。


「一つ目の橋です」


 霧の向こうに、低い石橋が現れた。


 橋の下には水路があるはずだった。けれど、石積みの間を覗いても、見えるのは枯れた葦と黒い土だけだ。橋の欄干には古い郵便印が刻まれていたが、印の中央だけが削り取られている。


 リエラが指で触れると、冷えた石の奥から、かすかな音がした。


 ――ここは、まだ道だ。


「何か聞こえたか」


「いいえ。石には願いが残らないみたいです」


 そう答えたものの、リエラは胸の奥がざわつくのを感じていた。誰かが、橋だけを残して水路を消した。その仕事は、地図の線を消すよりずっと乱暴だった。


 二つ目の橋は、そこから半刻ほど先にあった。丸太を渡しただけの簡素な橋で、下には細い水が流れている。水は北から来ているのに、銀糸の線は西へ向かって震えた。


 カイが橋のたもとで足を止める。


「誰かが通った」


 泥の上に、今朝ついたばかりの靴跡があった。二人分。ひとつは踵が深く沈み、もうひとつは細い金具の跡を残している。昨夜、郵便宿を見張っていた者たちかもしれない。


「引き返しますか」


「いや。鐘が鳴る前に行く」


「危険ですよ」


「君を一人で戻すほうが危険だ」


 あまりに平坦な声だったので、リエラは聞き流しそうになった。けれど、カイの耳がわずかに赤くなっているのを見つけてしまい、急に足元の泥が気になった。


 三つ目の橋は、街道から外れた場所にあった。


 木々の間に隠れるように、古い石橋が半分だけ姿を見せている。残りの半分は崩れ、橋脚の一つが傾いていた。水は流れていない。なのに、橋の下から湿った風が吹き上げてくる。


 銀糸はリエラの手の中で強く引かれた。地図から抜け落ちた一本の糸が、橋の中央の石へ向かって伸びている。


「この石です」


 カイは周囲を見回してから、腰を落とした。隙間に短剣の先を差し込むと、石は思いのほか簡単に動いた。下から現れたのは、油紙に包まれた細長い封筒だった。


 宛名はない。


 封蝋には王立郵便の印に似た紋が押されていたが、中央の鳥は翼を片方失っている。カイの表情が硬くなった。


「知っている印ですか」


「父の手帳に、よく似たものがあった」


 彼が封筒を受け取ろうとしたとき、リエラの指先が紙に触れた。


 冷たい雨の匂いがした。暗い橋の下で、誰かが息を殺している。遠くで鐘が一つ鳴り、男の声が低く震えた。


 ――これを拾う人が、橋を閉じる前に読めますように。


 声はそこで途切れた。


 リエラは息をのみ、封筒から手を離した。最後の願いを聞いたあとの紙は、ただの紙に戻っている。


「今のは、願いか」


「はい。橋を閉じる前に読んでほしい、と」


 カイは封蝋を見つめたまま、短剣で端を切った。中には折り畳まれた便箋が一枚入っていた。


 橋守殿へ。


 七の水門を閉じる命令は、王都の正式な記録にはない。水路を止めれば、港の北側は干上がる。畑だけではない。古い返納路も、橋の下の待避所も使えなくなる。


 誰かが水路の名を帳簿から消している。名がなければ、そこに水があったことも、橋を守る者がいたことも、なかったことにされる。


 三つ目の橋の下に、最初の記録を残す。


 どうか、王都の印だけを信じないでほしい。水の行き先を知る者の言葉を、次の橋守へ。


 署名の部分は、刃物で切り取られていた。


 カイは便箋を持つ手に力を込めた。紙が破れそうになり、リエラはそっと彼の手首に触れた。


「カイさん」


「……父は、この手紙を知っていたのかもしれない」


「まだ、そうとは限りません」


「分かっている」


 返事は早かった。けれど彼の目は、切り取られた署名から動かなかった。


 そのとき、森の向こうで枝の折れる音がした。


 カイはリエラを橋の陰へ引き寄せ、片手で口元に指を立てた。しばらくして、街道のほうから低い話し声が聞こえてくる。


「三つ目を見れば分かる。銀の糸を探せ」


 別の声が答えた。


「手紙もだ。あれを先に見つけろ」


 リエラの心臓が跳ねた。けれど、肩を包むカイの腕は少しも揺れなかった。彼は音が遠ざかるまで待ち、それから地図と手紙をリエラの懐へ押し込んだ。


「持っていてくれ」


「カイさんが持つべきでは?」


「俺が捕まれば、君が届ける」


「そんな言い方、しないでください」


 思わず強い声が出た。カイは目を見開き、すぐに視線を逸らした。


「……悪かった」


 鐘が二つ鳴った。


 霧の向こうで、三つ目の橋の石が低く唸った。乾いていた水路の底から、細い水音が返ってくる。銀糸の地図にはなかった線が、濡れた石の上に一瞬だけ浮かんだ。


 その線の先には、削り取られた郵便印と同じ形の文字があった。


 リエラが読み取るより早く、雨水が文字を覆う。


「見えましたか」


「一文字だけです」


「何と?」


 リエラは手紙を胸に抱き、消えた水路を見つめた。


「たぶん……水路の名前の、最初の文字です」


 カイは橋の向こうを見た。霧の奥で、誰かが二人を待っている気配がした。


「なら、名前を探す」


「返す相手を、ですか」


「ああ。手紙も、水路も」


 彼の言葉に、リエラは小さくうなずいた。


 三つ目の橋を渡ると、二人の背後で、乾いた水路に水が流れ始めた。

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