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「王都へ返さないで」と鳴る指輪を、忘れ物係は届けたい  作者: 銀細工ナギ


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6/20

銀糸の地図

 雨が上がったのは、空が白み始めたころだった。


 屋根を叩いていた音が一つずつ遠のき、古い郵便宿には、濡れた木の匂いと二人分の浅い息だけが残った。リエラは壁際に座ったまま、握られた手を見下ろしていた。


 いつの間にか、カイの手は離れている。


「眠れたか」


「カイさんは?」


「見張りをしていた」


 彼は短く答え、暖炉の灰を棒で崩した。火を消したあとも、外から人の気配は戻らなかった。封鎖道の規則を告げた男たちは、雨の中でしばらく宿を囲み、それから何も持たずに去ったらしい。


 リエラは机の上の帳面を見た。濡れた紙は一晩のうちに乾き、表紙の郵便宿印が朝の薄明かりに浮かんでいる。隣には、青い糸で結ばれた小さな鍵が置かれていた。


「七の水門、三つ目の分岐、二の鐘。帳面の数字と、指輪が聞かせた言葉。それに、カイさんのお父さんの手帳にも同じ数字があった」


「ああ」


「この帳面を書いた人は、何を届けようとしていたんでしょう」


「届け先が消されたから、別の記し方をしたんだと思う」


 カイは帳面を一枚ずつめくった。宿の記録は、十七年前の最後の日付で途切れている。けれど、最終ページの余白には数字のほかに、細い線が何本も引かれていた。線は紙の端で途切れ、裏表紙の折り目へ続いている。


「地図かもしれない」


 リエラが顔を寄せると、紙の繊維の間に銀色の光が見えた。糸だ。表からはほとんど分からないほど細い銀糸が、帳面の背と裏表紙を縫い合わせている。


 カイは懐から昨夜の鍵を取り出した。


「帳面を閉じたまま、鍵を差し込める場所を探す」


「壊してはいけませんよ」


「分かっている」


 背表紙の下端に、小さな鍵穴があった。青い糸はその周囲を二重に縫っている。カイが鍵を差し、ゆっくり回すと、紙の内部で小さく金属が鳴った。


 裏表紙が、封筒のように開いた。


 中から滑り出したのは、折り畳まれた薄い布だった。灰色の布地に、銀糸が複雑な線を描いている。リエラが布を机へ広げると、糸の線は昨夜の数字どおり、七つの丸印と三つの分岐を結んでいた。最後の線だけが、地図の外へ伸びている。


「これは水路です」


 港町で育ったリエラには分かった。海へ向かう水路は、潮の満ち引きに合わせて幾度も枝分かれする。けれど、王立郵便の新しい街道図には、こんな水路は載っていない。


 銀糸の地図の片隅には、古い文字で一行だけ縫い込まれていた。


 ――水が消えても、橋は行き先を覚えている。


 リエラの指先が文字に触れた。


『鐘が二つ鳴る前に、三つ目へ』


 女の声が、耳の奥で一度だけ響いた。昨夜の声と同じ人だった。切羽詰まっているのに、最後まで誰かへ届けようとしている声。


「今のは?」


「三つ目へ、鐘が二つ鳴る前に、と」


 カイは地図を見つめ、銀糸の先を指でたどった。線の終わりは、宿から北へ向かう古い街道の途中で途切れている。そこには小さな橋の印があった。


「この先に橋がある」


「三つ目の橋ですか」


「水門から数えれば、そうなる」


 カイは地図を折り、今度はリエラの手に渡した。


「持っていていいんですか」


「君が見つけたものだ」


「でも、郵便物なら特配官が預かるものでは」


「これは宛名がない。だから、俺の規定では届け先を決められない」


 その言葉に、リエラは昨夜聞いた指輪の願いを思い出した。王都へ返さないで。返す相手を間違えれば、誰かの道が消される。


「なら、私たちが決めるんですね」


「二人で決める」


 カイは地図から目を上げた。朝の光が窓から差し込み、濡れた黒髪の端を淡く照らしている。無口な彼が、当たり前のことのように二人という言葉を選んだ。それだけで、リエラの胸は妙に温かくなった。


 宿を出る前に、カイは周囲を確かめた。泥の上には、昨夜のものと思われる靴跡が残っている。宿の裏手から街道へ向かう跡が四つ。けれど、そのうち一つは途中で消えていた。


 靴跡の先に、銀色の糸が一本落ちている。


 リエラが拾おうとすると、カイが手袋越しに先に取った。


「地図から抜けたものかもしれない」


「では、誰かが地図を探していた?」


「昨夜ここにいた者が、帳面の中身を知っていた可能性はある」


 カイは銀糸を地図の端へ近づけた。糸は小さく震え、北の橋の印へ向かって伸びた。


 地図が、道を選んだ。


 二人は古い街道を歩き始めた。朝の霧の向こうで、遠く鐘が一つ鳴る。リエラは銀糸の地図を外套の内側へしまい、隣を歩くカイを見上げた。


「二つ目が鳴る前に、三つ目へ」


「遅れるな」


「カイさんが速すぎるんです」


 彼は返事をしなかった。ただ、歩幅を少しだけ緩めた。


 霧の先には、古い水路をまたぐ橋がある。そこで待っている手紙が、誰に宛てられたものか、まだ二人は知らなかった。

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