雨宿りの郵便宿
門をくぐった途端、空が割れた。
大粒の雨が丘を叩き、白い石の道を瞬く間に黒く染めていく。さっきまで見えていた鉄門も、先を歩くカイの背中も、薄い雨の幕の向こうへ霞んだ。
「走るぞ」
カイが振り返る。
「どこへ?」
「屋根のある場所だ」
それだけ言って、彼は道の右手へ折れた。リエラは外套の内側で小箱を押さえながら追う。雨は布を通して肩を冷やし、ぬかるんだ地面は足を取った。けれど、カイの足取りには迷いがなかった。
やがて、雨音の底から古い鐘の音が聞こえた。三度、間を置いて一度。カイは崩れかけた石塀の前で立ち止まり、蔦を手で払いのけた。
その向こうに、低い木造の建物があった。
軒下に掛かった看板には、かすかに文字が残っている。
――旅人と郵便を、雨から守る宿。
「郵便宿……まだ使えるんですか」
「王立郵便の旧規定では、廃止の印がない宿は、緊急時に使っていい」
「規定を覚えているんですね」
「特配官だからな」
言いながら、カイは扉を押した。蝶番が低く唸り、埃の匂いと乾いた薬草の香りが流れてくる。中には長い机と暖炉、壁一面の棚があった。棚には空の郵便袋が並び、梁からは使われなくなった路線札が吊られている。
リエラが中へ入ると、指輪が小箱の中で小さく鳴った。
ちりん。
音は部屋の奥、暖炉脇の壁から返ってきた。
カイが火打ち石を取り出す間、リエラは壁に近づいた。そこには古い投函口が埋め込まれていた。郵便宿に泊まる人が、次の宿へ送る手紙を預けるためのものらしい。木の蓋は固く閉ざされている。
「ここです」
「何がある?」
「分かりません。でも、指輪が鳴りました」
カイは投函口を調べ、錆びた留め金にナイフの先を差し入れた。二度、金属が擦れる。三度目に留め金が外れ、蓋の奥から濡れた紙包みが滑り落ちた。
リエラが拾おうとした手を、カイが止める。
「触れるな。誰のものか確認してからだ」
「落とし物として預かるなら、触れないと」
「声が聞こえるかもしれないんだろう」
雨の音が、急に遠くなった気がした。
「……信じているんですか」
火を起こしかけていたカイの手が止まる。
「信じる、とは違う。君が嘘をついていないことは分かる」
「それは、信じるのと違いません」
「違う。信じるなら、聞こえたものが正しいかどうかも考える」
カイは包みを布で拾い上げ、机の上へ置いた。
「君の力を、証拠にする」
短い言葉だった。
これまでリエラの聞いた声は、偶然や思い込みとして片づけられてきた。局長のマルタだけが仕事の手がかりとして扱ってくれたが、王立郵便の特配官にまで認められるとは思っていなかった。
「ただし、聞こえたことと、見たことを分けて記録する」
「はい」
「俺が見落としを探す。君は、声を覚えておく」
カイの言い方は命令に似ていた。それでもリエラの胸には、初めて自分の力を置ける場所ができたように感じられた。
包みをほどくと、中から薄い帳面と、青い糸で結ばれた鍵が出てきた。帳面の表紙には、郵便宿の古い印が押されている。最後の記入は十七年前の日付だった。
リエラが鍵に触れた瞬間、冷たい雨の匂いが鼻を突いた。
『返さないで。橋を越えたら、道が消される』
女の声だった。遠くで馬がいななき、誰かが扉を叩いている。
『七の水門、三つ目の分岐、二の鐘。そこなら、まだ届く』
声はそこで途切れた。
リエラは息を吸い、目を開けた。鍵を握った指が震えている。
「何を聞いた」
カイは急かさなかった。ただ、帳面を開く手を止めて、彼女を見ていた。
「橋を越えたら道が消される。七の水門、三つ目の分岐、二の鐘……そこなら、まだ届く、と」
カイは帳面のページを繰った。古い宿の記録には、泊まった郵便夫の名前と、次の宿へ託した荷物だけが並んでいる。十七年前の最後の欄には、宛名の代わりに数字が書かれていた。
七・三・二。
「父の手帳にあった数字と同じだ」
カイの声が低くなる。
そのとき、屋根の上で何かが重く跳ねた。二人が顔を上げる。続いて、軒下の泥を踏む音がした。ひとつではない。雨に紛れて、建物の周囲を誰かが歩いている。
カイは帳面と鍵を外套へしまい、暖炉の火を消した。暗闇の中で、彼の手がリエラの手首を探り当てる。
「声を立てるな」
耳元で囁かれ、リエラは頷いた。
投函口の向こうから、低い男の声が響いた。
「郵便宿に入った者は、封鎖道の規則に従え」
リエラの胸元で、指輪が一度だけ鳴った。
今度の音は、返してほしいという願いではなかった。見つからないで、と誰かが息を殺している音だった。
カイの指が、彼女の手を強く握る。
雨が止むまで、二人は古い郵便宿の暗がりに身を隠した。けれど雨が上がったとき、彼らが届けるべき場所は、もう一つ増えていた。




