宛名のない街道
港を離れると、潮の匂いはすぐに薄れた。
西の丘へ向かう道は、町外れの石橋を渡ったところで二つに分かれていた。右は荷車の轍が深く残る広い道。古い道標には、王都街道、と彫られている。左は草に半ば埋もれた細道で、白い石柱が一本だけ立っていた。
石柱には、かつて板が掛かっていたらしい。釘穴だけが二つ残り、文字の跡は削り取られている。
「地図では、ここから道がない」
カイが王立郵便の折り畳み地図を広げた。港から西へ伸びる赤い線は、石橋の手前で途切れている。その先は空白だ。道が存在しないのではなく、存在したことを記す線だけが消されていた。
「でも、指輪は左です」
リエラの手の中で、小箱がかすかに震えた。細道の奥から、水の音がする。風に揺れた草の音よりも低く、一定の間隔で響いていた。
「宛名がないな」
カイは石柱を見上げた。
「道にですか?」
「道にも、郵便にも。宛先がないものは、途中で捨てられたことにされる」
その言葉に、リエラは彼の横顔を見た。無表情のままなのに、声の底だけが硬い。
二人は細道へ入った。
道は丘の斜面に沿って続いていた。濡れた草が外套の裾を撫で、靴底が柔らかな土に沈む。ところどころに石が敷かれているが、長い年月の間にずれていた。道というより、昔の道を思い出そうとする地面だった。
しばらく歩くと、倒れた木の根元に古い郵便標が落ちていた。王立郵便の紋章が刻まれた小さな鉄板だ。カイが拾い上げ、泥を手袋で拭う。
「これが、ここにあるのは変ですか」
「標識は配達路の目印だ。道が廃止されたなら、本局が回収する」
「回収し忘れたのでは?」
「王立郵便は、忘れ物を嫌う」
カイはそう言ってから、鉄板の裏側を見た。そこには細い傷で、数字が刻まれている。
七、三、二。
「距離ですか?」
「水門までの区画番号かもしれない」
「この道が、本当に郵便路だったなら」
リエラが言うと、カイは返事をしなかった。ただ、拾った標を懐へしまった。
昼を過ぎた頃、細道は低い石垣に突き当たった。石垣の向こうには、幅の広い道がまっすぐ伸びている。舗装は崩れているのに、車輪の跡だけは新しかった。
「誰か、使っているんですね」
リエラがしゃがみ込むと、泥の中に蹄の跡が見えた。二頭立ての馬車らしい。さらに、石垣の隙間には青い糸が引っ掛かっていた。
指でつまんだ瞬間、指輪が箱の中で大きく鳴った。
ちりん――。
青い糸は雨に濡れても色を失わず、光の角度によって銀色に見えた。リエラが糸を箱のそばへ近づけると、音は水門のある方角へ三度続けて響いた。
「指輪が、糸にも反応しています」
「同じ持ち主か?」
「分かりません。でも、誰かがここを通ったのは確かです」
カイは石垣の上へ先に登り、リエラへ手を差し出した。大きくて、傷の多い手だった。
「掴まれ」
「落としませんか、私を」
「落とすなら、先に言う」
冗談なのか本気なのか分からない返事だった。リエラは笑いそうになるのをこらえ、手を重ねた。
引き上げられた拍子に、彼の外套へ肩が触れる。雨と革と、かすかな薬草の匂いがした。カイはすぐに手を離したが、リエラの指先には体温が残った。
石垣の向こうの道には、白い石が一定の間隔で埋められていた。道標と同じ石だ。ただし、どの石にも行き先の文字がない。表面が削られた跡ばかりが続いている。
「宛名のない街道……」
リエラが呟くと、カイが振り向いた。
「今、何と言った?」
「道の名前がないので。誰にも届けられない道みたいだと思って」
カイは白い石を見つめた。やがて、一番手前の石の側面を指でなぞる。
「俺の父は、橋守だった」
突然の言葉に、リエラは息を止めた。
「知っています。行方不明になったと、局長から聞きました」
「橋守は橋だけを守る仕事じゃない。水路と、その水路を渡る道も記録する。父の手帳には、ここに来た印があった」
「それなら、どうして今まで……」
「父が失踪したあと、手帳は焼かれた。残った地図には、この道がなかった」
カイの指が、石の削り跡の上で止まった。
「だから調べている。父が何を見たのかを」
いつも命令書を掲げていた人が、初めて自分の理由を口にした。リエラは小箱を胸元で抱え直した。
「私も、指輪が何を見たのか知りたいです」
「指輪は見ない。聞くだけだろう」
「なら、聞こえた願いを届けます」
「誰に?」
答えようとしたとき、丘の向こうで金属音が鳴った。
二人は同時に振り返った。
道の先に、錆びた鉄門が立っていた。門には新しい鎖が巻かれ、白い紙が貼られている。水路管理局の封鎖印。その下に、赤い文字でこう書かれていた。
――旧水門への通行を禁ずる。
しかし、紙の端はまだ乾いていなかった。封鎖されたのは、つい最近だ。
リエラが一歩近づくと、指輪が箱の中で激しく鳴った。青い糸が風もないのに、門の向こうへ引かれる。
鎖の下には、人ひとりが通れる隙間があった。誰かが無理にくぐった跡だ。
「どうしますか」
リエラが尋ねると、カイは封鎖印を見たまま答えた。
「命令なら従う」
「これは、あなたへの命令ですか?」
「違う。水路管理局の札だ」
「郵便の命令ではないなら?」
カイは一度だけ、リエラを見た。
「俺たちは、まだ配達の途中だ」
彼は鎖の隙間へ身を滑らせた。リエラも続く。門の向こうでは、見えない水が地下を流れ、遠くで誰かが歩く音がした。
宛名のない街道は、消された水門へ伸びている。
そしてその道の先には、誰かが残した青い糸と、まだ届けられていないものが待っていた。
リエラはカイの背中を追いながら、小箱の中の指輪にそっと囁いた。
「今度は、迷わないでください」
返事の代わりに、指輪が一度だけ鳴った。




