指輪が鳴らした最初の行き先
返納局の窓を叩いていた雨は、昼前には細い霧になっていた。
リエラは机の上の指輪を、何度目か分からないほど見つめていた。薄い銀の輪。その表面には王家の紋章が刻まれ、内側には水滴のような青い石が一つ埋め込まれている。昨日、拾得物の箱から取り出したとき、指輪は確かに声を残した。
――王都へ返さないで。
声というより、耳の奥で鳴った小さな金属音だった。リエラにしか聞こえない、物が最後に抱えた願いの残響。
いつもなら、願いは一度聞けば消える。けれどこの指輪は、消えたはずの音をまだ抱えていた。
ちりん。
机の上で、指輪がかすかに震えた。
「……今の、聞こえた?」
向かいで帳簿を整理していたマルタが顔を上げる。
「何も。窓の留め金じゃないかい?」
「そうかもしれません」
リエラは指輪に手を伸ばしかけて、止めた。触れなくても鳴ったのなら、これは残響ではない。何かを知らせようとしている。
局長室の扉が開いた。
濡れた外套を脱いだカイ・セヴェルが、いつもの無表情で立っていた。灰色の髪から雨粒が落ち、王立郵便の紋章がついた肩章だけが、薄暗い室内でやけに鮮明に見える。
「回収に来た」
「指輪を、ですか」
「命令書がある」
カイは封蝋の割れた書面を机に置いた。王立郵便本局からの回収命令。拾得物はただちに特配官へ引き渡すこと、とある。
リエラは書面を見てから、指輪へ目を戻した。
「昨日、返す前に調べる時間をくださいと言いました」
「調べた結果は?」
「まだ何も。ただ、この指輪は王都へ戻りたくないと言いました」
カイの目が、初めてわずかに揺れた。
「指輪が、そう言ったのか」
「正確には、指輪に残った願いが聞こえました」
「願いは証拠にならない」
「分かっています」
その言葉は、何度も言われてきた。聞こえたものを帳簿に書くことはできない。裁判所にも、役所にも、郵便局にも。だからリエラは、いつも物の声を胸の内にしまってきた。
それでも、指輪をただ渡す気にはなれなかった。
ちりん。
今度の音ははっきりしていた。
指輪の青い石が、窓の外へ向かって淡く光った。
カイが息をのむ。
「触れていないのに鳴ったな」
「はい」
「どちらへ向いている?」
リエラは指輪を両手で囲んだ。音の余韻を追うと、胸の奥に知らない景色が浮かんだ。港から離れた丘。崩れた石垣。白い道標。そのそばで、水の流れる音がしている。
そして、ひどく遠いところから、別の言葉が重なった。
――最初は、灯台のない水門へ。
「西です」
リエラは顔を上げた。
「港の西。古い水門があるはずです」
「はず、というのは?」
「地図では、もう使われていないことになっています」
マルタが棚から町の古地図を取り出した。港町の周囲には、現在使われている運河と排水路が赤い線で描かれている。西側の丘には何もない。ただ、地図の端に小さく「旧水門・記録抹消」と書かれていた。
リエラの指先が冷たくなる。
「記録抹消……?」
「三年前の改訂で消えた場所だね」マルタが言った。「水路管理局の判断で、危険につき封鎖と」
「王立郵便の地図にもありません」
カイは古地図を見下ろし、しばらく黙っていた。
「行く」
「え?」
「指輪が示した場所へ行く。お前も来い」
「命令ですか」
「違う」
カイは命令書を折り、懐へしまった。
「俺の判断だ」
短い言葉だった。けれど、命令に従う人だと思っていたカイが、自分で選んだと言ったことが、リエラには意外だった。
「特配官が、拾得物の調査までしていいんですか」
「配達先が不明なら、確認するのも仕事だ」
「それなら、私も忘れ物係として同行します。指輪が何を求めているのか、聞けるのは私だけなので」
カイはリエラを見た。冷たい色の目だったが、拒む光はなかった。
「歩けるか」
「港の階段を毎日上り下りしています」
「雨のあとの丘は滑る」
「転んだら、手を貸してください」
言ってから、少し大胆だったかもしれないと思った。
しかしカイは眉一つ動かさず、ただ手袋を外した。大きな手が、机の端に置かれた指輪の小箱を持ち上げる。
「なくすな」
「なくさないために、あなたが持つんですか?」
「お前が聞く。俺が守る」
その役割分担が、妙に自然に聞こえた。
局を出る前、リエラは返納帳に行き先を書こうとした。けれど、旧水門へ続く道の正式な名前が見つからない。地図では線が途中で途切れ、道標の欄は空白になっている。
宛名もない。道の名もない。
ただ、指輪だけが西を指している。
外へ出ると、雨上がりの港に薄い陽が差した。石畳の水たまりに、雲の切れ間が揺れている。カイは先に歩き出し、リエラは小箱を胸に抱いてその隣へ並んだ。
数歩進んだところで、箱の中からまた音がした。
ちりん、ちりん。
今度は二度。
リエラは足を止めた。西の丘の向こうから、かすかに水の流れる音が聞こえた気がする。
指輪が鳴らした最初の行き先は、地図から消された水門だった。
その先に誰が待っているのかは、まだ分からない。
けれど、王都へ返さないでという願いが、初めて具体的な道を選んだ。
リエラは小箱を握り直し、カイの歩幅に合わせて歩き始めた。




