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「王都へ返さないで」と鳴る指輪を、忘れ物係は届けたい  作者: 銀細工ナギ


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3/20

指輪が鳴らした最初の行き先

 返納局の窓を叩いていた雨は、昼前には細い霧になっていた。


 リエラは机の上の指輪を、何度目か分からないほど見つめていた。薄い銀の輪。その表面には王家の紋章が刻まれ、内側には水滴のような青い石が一つ埋め込まれている。昨日、拾得物の箱から取り出したとき、指輪は確かに声を残した。


 ――王都へ返さないで。


 声というより、耳の奥で鳴った小さな金属音だった。リエラにしか聞こえない、物が最後に抱えた願いの残響。


 いつもなら、願いは一度聞けば消える。けれどこの指輪は、消えたはずの音をまだ抱えていた。


 ちりん。


 机の上で、指輪がかすかに震えた。


「……今の、聞こえた?」


 向かいで帳簿を整理していたマルタが顔を上げる。


「何も。窓の留め金じゃないかい?」


「そうかもしれません」


 リエラは指輪に手を伸ばしかけて、止めた。触れなくても鳴ったのなら、これは残響ではない。何かを知らせようとしている。


 局長室の扉が開いた。


 濡れた外套を脱いだカイ・セヴェルが、いつもの無表情で立っていた。灰色の髪から雨粒が落ち、王立郵便の紋章がついた肩章だけが、薄暗い室内でやけに鮮明に見える。


「回収に来た」


「指輪を、ですか」


「命令書がある」


 カイは封蝋の割れた書面を机に置いた。王立郵便本局からの回収命令。拾得物はただちに特配官へ引き渡すこと、とある。


 リエラは書面を見てから、指輪へ目を戻した。


「昨日、返す前に調べる時間をくださいと言いました」


「調べた結果は?」


「まだ何も。ただ、この指輪は王都へ戻りたくないと言いました」


 カイの目が、初めてわずかに揺れた。


「指輪が、そう言ったのか」


「正確には、指輪に残った願いが聞こえました」


「願いは証拠にならない」


「分かっています」


 その言葉は、何度も言われてきた。聞こえたものを帳簿に書くことはできない。裁判所にも、役所にも、郵便局にも。だからリエラは、いつも物の声を胸の内にしまってきた。


 それでも、指輪をただ渡す気にはなれなかった。


 ちりん。


 今度の音ははっきりしていた。


 指輪の青い石が、窓の外へ向かって淡く光った。


 カイが息をのむ。


「触れていないのに鳴ったな」


「はい」


「どちらへ向いている?」


 リエラは指輪を両手で囲んだ。音の余韻を追うと、胸の奥に知らない景色が浮かんだ。港から離れた丘。崩れた石垣。白い道標。そのそばで、水の流れる音がしている。


 そして、ひどく遠いところから、別の言葉が重なった。


 ――最初は、灯台のない水門へ。


「西です」


 リエラは顔を上げた。


「港の西。古い水門があるはずです」


「はず、というのは?」


「地図では、もう使われていないことになっています」


 マルタが棚から町の古地図を取り出した。港町の周囲には、現在使われている運河と排水路が赤い線で描かれている。西側の丘には何もない。ただ、地図の端に小さく「旧水門・記録抹消」と書かれていた。


 リエラの指先が冷たくなる。


「記録抹消……?」


「三年前の改訂で消えた場所だね」マルタが言った。「水路管理局の判断で、危険につき封鎖と」


「王立郵便の地図にもありません」


 カイは古地図を見下ろし、しばらく黙っていた。


「行く」


「え?」


「指輪が示した場所へ行く。お前も来い」


「命令ですか」


「違う」


 カイは命令書を折り、懐へしまった。


「俺の判断だ」


 短い言葉だった。けれど、命令に従う人だと思っていたカイが、自分で選んだと言ったことが、リエラには意外だった。


「特配官が、拾得物の調査までしていいんですか」


「配達先が不明なら、確認するのも仕事だ」


「それなら、私も忘れ物係として同行します。指輪が何を求めているのか、聞けるのは私だけなので」


 カイはリエラを見た。冷たい色の目だったが、拒む光はなかった。


「歩けるか」


「港の階段を毎日上り下りしています」


「雨のあとの丘は滑る」


「転んだら、手を貸してください」


 言ってから、少し大胆だったかもしれないと思った。


 しかしカイは眉一つ動かさず、ただ手袋を外した。大きな手が、机の端に置かれた指輪の小箱を持ち上げる。


「なくすな」


「なくさないために、あなたが持つんですか?」


「お前が聞く。俺が守る」


 その役割分担が、妙に自然に聞こえた。


 局を出る前、リエラは返納帳に行き先を書こうとした。けれど、旧水門へ続く道の正式な名前が見つからない。地図では線が途中で途切れ、道標の欄は空白になっている。


 宛名もない。道の名もない。


 ただ、指輪だけが西を指している。


 外へ出ると、雨上がりの港に薄い陽が差した。石畳の水たまりに、雲の切れ間が揺れている。カイは先に歩き出し、リエラは小箱を胸に抱いてその隣へ並んだ。


 数歩進んだところで、箱の中からまた音がした。


 ちりん、ちりん。


 今度は二度。


 リエラは足を止めた。西の丘の向こうから、かすかに水の流れる音が聞こえた気がする。


 指輪が鳴らした最初の行き先は、地図から消された水門だった。


 その先に誰が待っているのかは、まだ分からない。


 けれど、王都へ返さないでという願いが、初めて具体的な道を選んだ。


 リエラは小箱を握り直し、カイの歩幅に合わせて歩き始めた。

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