無口な特配官の回収命令
雨は昼を過ぎても、港町ルーヴェンの屋根を叩き続けていた。
返納局の窓は白く曇り、通りを行く人の姿もぼんやりと滲んでいる。リエラは帳簿の上に置いた指輪から目を離せなかった。銀の輪は、さっきから一度も鳴っていない。けれど、黙っているからといって安心できるものでもない。
向かいの席では、特配官のカイが濡れた外套を脱いでいた。外套の裏地には王立郵便の紋章が細く刺繍されている。彼は壁際の椅子に腰を下ろし、マルタが取り出した記録簿を黙って読んでいた。
「回収命令は、返納命令とは違うんだね」
リエラが尋ねると、カイは紙面から顔を上げた。
「違います。返納先が決まっている品は、返納命令になります。回収命令は、指定された場所から品物を取り戻すためのものです」
「でも、この指輪はもうここにあります」
「だから、私が回収します」
話が最初に戻ってしまった。リエラは小さく息を吐いた。
「持ち主の名前も、取り戻す理由も知らないまま?」
「命令書には、王家に属する品である、と」
「王家のものなら、どうして北の防波堤に落ちていたんですか」
カイの灰色の瞳が、指輪へ向いた。表情は変わらないのに、ほんのわずか、まつげの影が揺れた。
「それを調べるのも、私の仕事です」
マルタが机の上に命令書を広げた。封蝋には翼を広げた魚の印が押されている。リエラが見た指輪の紋章と同じだった。ただし、命令書の印は端が欠けていて、誰かが一度、乱暴に封を剥がしたように見える。
「この紙、開けられた跡があるよ」
「受け取った時点で、すでにこうでした」
「それを郵便として運んできたのが、あなた?」
「はい」
「途中で誰かに見られたかもしれないのに?」
「見られたかどうかは、問題ではありません」
「問題でしょう。回収する品物が危険なものなら、なおさら」
カイは答えなかった。代わりに命令書を裏返し、紙の隅に押された小さな番号を指でなぞった。
「本局からの命令は、今朝の鐘が鳴る前に発令されています。私が王都を出たのは、その直後です」
「そんなに早く?」
「特配ですから」
王都とルーヴェンの間には、馬車で三日はかかる。雨の街道なら、さらに半日。今朝の発令で、もうここへ来ているのはおかしかった。
リエラの疑問を読んだように、カイは懐から折り畳まれた紙を出した。紙には王立郵便の中継印がいくつも並んでいる。最後の印は、ルーヴェンではなく、町の北にある小さな関所のものだった。
「昨夜のうちに関所まで来ていました」
「では、指輪が見つかる前から?」
「見つかる予定だった、と考えるべきでしょう」
その言葉に、マルタの指が記録簿の上で止まった。
「誰かが灯台守に拾わせたってことかい」
「断定はできません」
「ずいぶん便利な返事だね」
マルタが睨んでも、カイは目を逸らさなかった。無口というより、余計な言葉を命令されていないのだ、とリエラは思った。話さないのではなく、話してはいけない。そんな固さが彼の声にはあった。
リエラは指輪を布の上から持ち上げた。冷たい銀の感触。昨夜聞いた声が、胸の奥に蘇る。
王都へ返さないで。
「この指輪は、王都へ送らないと何か困るんですか」
「困るのは、王立郵便です」
「あなたではなく?」
カイは一拍置いてから、答えた。
「私は命令に従わなければ、特配官でいられません」
淡々とした言い方だった。けれど、手袋を外した彼の左手に、古い傷が走っているのが見えた。指の付け根から手首へ伸びる白い線は、細い縄で強く縛られた跡にも見える。
「それでも、指輪を渡すつもりはありません」
リエラが言うと、カイはわずかに眉を寄せた。
「規則に反します」
「あなたは、命令に従わなければ特配官でいられないと言いました。私は、聞いた願いを無視したら忘れ物係でいられないと思っています」
「聞いた願い?」
しまった、とリエラは思った。マルタの視線がこちらを向く。しかし、もう引き返せない。
「この指輪は、王都へ返さないで、と言いました」
雨音が急に遠くなった。
カイは驚かなかった。ただ、命令書を持つ手だけが強く紙をつかんだ。
「誰が言ったのか、わかりますか」
「わかりません。聞けるのは、品物が最後に抱いた願いだけです」
「なら、その声が本当に持ち主のものかもわからない」
「はい」
「それでも信じるんですか」
「信じるかどうかを決める前に、無視はできません」
カイは指輪を見た。彼の視線は王家の紋章ではなく、内側に浮かんだ一本の線へ向けられている。
「その線は、古い水路の記号です」
今度はリエラが息を止めた。
「知っているんですか」
「知っているだけです。行き先までは」
彼は命令書を折り直し、懐へしまった。帰るつもりかと思ったが、椅子からは立たない。
「今夜、指輪を局の金庫に保管してください」
「回収しないんですか」
「しません。まだ」
「命令違反ですよ」
「だから、あなたに頼んでいる」
初めて、カイがリエラをまっすぐ見た。冷たい灰色の目の奥に、隠しきれない焦りがあった。
「明朝までに、指輪が示す場所を確認したい。あなたの力が必要です」
「私の力を、信じるんですか」
「信じる必要はありません。確かめる必要があります」
それは彼らしい答えだった。けれど、命令書だけを信じている人間の口から出るには、少しだけ正直すぎた。
リエラは指輪を帳簿の横へ戻した。銀の輪は静かだった。カイが立ち上がり、濡れた外套を手に取る。
その瞬間、指輪がかすかに鳴った。
りん、と。
今度は音と一緒に、細い光が指輪の内側からこぼれた。光は帳簿の白紙を走り、一本の線になって北へ伸びる。線の先で、小さな点が三度またたいた。
カイが息を呑む。
「明日の朝、北門へ」
彼はそれだけ言った。
「回収命令に従うためですか」
「命令の先に、何があるのか確かめるためです」
扉が閉じる。雨の向こうへ消えた背中は、振り返らなかった。
リエラは白紙に残った光の線を見つめた。北門の先には、街道しかない。地図から消された古い水路が、その下を流れていることを除けば。
マルタがため息をつく。
「特配官と一緒に行くつもりかい?」
「まだ、決めていません」
そう答えた途端、指輪がもう一度だけ鳴った。
今度の音は、拒む声ではなかった。
まるで、急いで、と促すような音だった。




