忘れ物係に、王都へ返せない指輪
港町ルーヴェンの朝は、潮の匂いと鐘の音で始まる。
返納局の窓を開けると、夜のあいだに降った雨が石畳を濡らしていた。魚市場へ向かう荷車が水たまりを跳ね、向かいのパン屋から焼きたての麦パンの香りが流れてくる。リエラ・ノートは小さく息を吸い、机の上に並んだ忘れ物を見渡した。
片方だけの手袋、子ども用の青い髪留め、錆びた鍵、そして昨夜、灯台守が届けてきた銀色の指輪。
リエラの仕事は、落とし物を持ち主へ返すことだ。品物を受付番号の木札と一緒に棚へしまい、届け出を照合し、期限が来れば町の掲示板に知らせる。誰かの手から離れたものを、あるべき場所へ戻す。それだけの、静かで地味な仕事だった。
ただしリエラには、ひとつだけ他人にはできないことがある。
落とし物に触れると、その品物が最後に抱いた願いを、一度だけ聞けるのだ。
願いは声とは限らない。ぬくもりのようなものだったり、胸を締めつける短い言葉だったりする。けれど、それが証拠として認められたことは一度もない。
「物がしゃべった、なんて報告書に書いたら、局が笑いものになるからね」
局長のマルタはそう言って、リエラの力を否定しなかった。代わりに、聞こえたことは自分の胸にしまっておきなさい、と教えた。
リエラは銀の指輪を布越しに持ち上げた。
王家の紋章に似た、翼を広げた魚の印が刻まれている。指輪の内側には細い文字があったが、潮と泥で半分ほど隠れていた。昨夜、灯台守が見つけた場所は、北の防波堤の先。満潮のあと、崩れた石の隙間に引っかかっていたという。
誰のものか調べるため、直接触れてみる。
冷たい金属が指先に触れた瞬間、波の音が遠ざかった。
暗い水の底で、誰かが指輪を強く握っている。震える息。濡れた石を踏む足音。遠くで、橋の鎖が軋んだ。
そして、耳元でかすかな声が鳴った。
「王都へ返さないで」
リエラは指輪を取り落としかけた。
聞こえた願いは、それだけだった。誰が、なぜ、何から逃げていたのか。指輪はもう黙っている。願いを聞く機会は一度きりだ。
「リエラ、朝から顔色が悪いよ」
帳簿を抱えたマルタが奥の部屋から出てきた。リエラは慌てて指輪を台の上へ置く。
「この指輪、王家の印かもしれません」
「王家の印なら、なおさら規則どおりに届ける。王都の返納窓口へ照会を出しましょう」
「でも……返さないで、と」
言いかけて、リエラは口を閉じた。物が鳴らした願いを、マルタ以外に話したことはない。
そのとき、表の扉が三度叩かれた。
入ってきた男は、雨の中を長く歩いてきたらしい。濃紺の外套の肩に水滴を残し、胸元には王立郵便の銀章がある。リエラより頭ひとつ分背が高く、灰色の瞳は、部屋の中を一度見ただけで棚の配置まで覚えたようだった。
「特配官カイ・セヴェルです」
男は濡れた封書を一通、マルタへ差し出した。
「王立郵便本局から、指輪の回収命令を受けています。品物を」
あまりに早く、迷いのない声だった。
マルタは封書の印章を確かめ、リエラを見た。リエラは指輪へ視線を落とす。翼を広げた魚の紋章は、窓から差した薄い光の中で、まるで水面の下に沈んでいるように揺れていた。
「見つかった場所を教えてください」
リエラが尋ねると、カイはわずかに眉を動かした。
「防波堤の先、と聞いています」
「それだけですか? 誰が見つけたかは」
「灯台守。記録にあります」
「王都へ送る理由は?」
「命令だからです」
短い答えに、リエラは胸の奥がざらつくのを感じた。命令は、落とし物の持ち主を教えてくれない。返す先が正しいかどうかも、教えてくれない。
カイが手を伸ばす。
その指先が指輪に触れる直前、金属の奥から、かすかな音がした。
りん、と。
リエラにしか聞こえないはずの音だった。
カイの手が止まる。
「今、鳴りましたか」
初めて、彼の声から確かな動揺がこぼれた。
リエラは指輪を自分の手元へ引き寄せた。王都へ返さないで。その願いが、雨音の向こうからもう一度、胸の中へ落ちてくる。
「申し訳ありません」
彼女はできるだけ静かに言った。
「この品物は、まだ返納先が確定していません」
「回収命令があります」
「命令書に、持ち主の名前は書かれていません」
カイの灰色の瞳が、まっすぐリエラを射抜いた。怒っているようには見えない。ただ、何かを知っている人の目だった。
マルタが二人の間に帳簿を置く。
「返納局の規則では、照会記録が揃うまで品物は局内保管だよ。特配官さん、あなたが本当に急いでいるなら、ここで待って記録を確認するといい」
しばらく、雨が窓を叩く音だけが続いた。
やがてカイは手を下ろした。
「……わかりました。確認します」
リエラは胸を撫で下ろしかけたが、その瞬間、指輪の内側に隠れていた細い刻印が雨明かりに浮かび上がった。
魚の紋章の下に、一本の線。その線は、王都へ続く街道ではなく、港町の外れから北へ伸びる古い水路の形に似ていた。
カイもそれを見ていた。
「その印を、どこで見ましたか」
「今、初めてです」
「そうですか」
彼はそれ以上、何も言わなかった。
けれどリエラにはわかった。王立郵便の特配官は、ただ指輪を回収しに来たのではない。この指輪が何を知っているのか、彼も探している。
返すべきものは、すぐに返す。
それが忘れ物係の決まりだった。
それでもリエラは、初めてその決まりに小さな疑問を抱いた。
願いを聞いた指輪を、願った人が望まない場所へ届けてしまって、本当にそれでいいのだろうか。
窓の外で、港の鐘が九つ鳴った。
雨はまだ止まない。
リエラは銀の指輪を帳簿の上に置き、北へ伸びる見えない水路を思い浮かべた。
その隣で、カイ・セヴェルは黙ったまま、王都からの命令書を握りしめていた。




