王都の印章と、父の警告
封筒は、机の上で小さく震えていた。
音は三度。硬いものが、内側から封蝋を叩いている。
リエラは息を止め、赤い蝋へ指を近づけた。触れる前から、そこに残った願いの気配が皮膚の奥へ伝わってくる。いつもなら、最後の声は一度きりだ。けれど、この封蝋に残っているものは、声ではなく焦りだった。誰かが、届く時間を惜しんでいる。
「開けます」
カイがうなずいた。
彼は胸元から細い刃を取り出し、封筒の端へ差し込んだ。刃先が封蝋に触れた途端、鳥の印が淡く光る。王立郵便の古い封印なら、受け取る資格のない者が開けようとしたとき、羽根の模様が閉じるはずだった。
しかし、光は消えなかった。
「正規の印なんですね」
「印だけはな」
カイは刃を止めた。
赤い蝋には、王冠をくわえた鳥の紋章が刻まれている。その下に波のような細い線が走っていた。リエラは返納局で扱った王都宛ての荷札を思い出す。王立郵便の印は、どんな古いものでも鳥の右の羽根に三本の切れ目がある。だが、この印には二本しかなかった。
「カイさん。これは王都の印章に似せた、別の印です」
「……やはりそうか」
彼は懐から、父の手帳に挟まっていた薄い紙片を出した。そこには、七つの橋の番号と、何度も書き直された印の絵がある。鳥の羽根に三本の切れ目。そのうち一本を消した印の横に、父の字で短く記されていた。
水路管理局が使う合印。
「王都の印章を借りて、水路の記録だけを動かすための印です。郵便の封印に見せかければ、誰も中身を確かめない」
カイの声は低かった。怒っているのか、ようやく答えに触れたことを恐れているのか、リエラには分からない。
「では、この命令書は王立郵便からではなく、水路管理局が作ったもの?」
「おそらく。だが、王都の印を勝手に使える人間は限られる」
カイは封蝋を切った。
中から出てきたのは、一枚の命令書と、折り畳まれた灰色の紙だった。命令書には、指輪と関連記録を王都の水路管理局へ送れ、とある。末尾には管理官の名があった。
イヴァン・グレイ。
リエラがその名を読み上げると、封蝋の奥で聞こえていた音が止まった。
「この人を知っているんですか」
「父の手帳に何度も出てくる。水路の廃止を決めた担当官だ」
「廃止されたのは、使われなくなったからではないんですよね」
「橋守の記録が、都合よく消えたからだ」
灰色の紙を開くと、古い水路図の一部が現れた。港町から北へ伸びる水路に、七つの橋が赤い糸で結ばれている。リエラが銀糸の地図で見た線と同じだった。ただし、地図の端には小さな書き込みがある。
潮が満ちる日に、七番水門を閉じるな。
その下に、別の筆跡で乱暴に線が引かれていた。
「この字は……」
「父だ」
カイは即答した。
リエラは紙の角に触れた。残響が指先から走る。湿った石の匂い。遠くで鳴る鐘。誰かが息を切らしながら、紙へ言葉を押しつけている。
声がした。
『印を信じるな。水を止めるのは、橋ではない』
リエラは反射的に手を離した。
「何が聞こえた?」
「お父さまの声です。……印を信じるな。水を止めるのは、橋ではない」
カイの顔から血の気が引いた。
「続きは?」
「一度しか聞けません。けれど、声の最後に鐘が鳴っていました。港の鐘ではありません。もっと高くて、近い音です」
カイは地図を見下ろした。七つの橋のうち、北側にある三つ目の橋のそばには、古い見張り塔の記号がある。そこには水路管理局の廃止印が重ねられていた。
「橋を閉じれば水が止まると、記録には書かれている。だが父は、水門そのものを誰かが操作していると言っている」
「橋守の責任にして、水門を動かした人を隠した……?」
「そして、証拠を運んだ父を消した」
断定の形をしているのに、カイの声には震えがあった。
リエラは灰色の紙を丁寧に折り直した。返納局では、届いたものを乱暴に扱わない。たとえ宛名がなくても、誰かが託したものには、託した理由がある。
「この紙は、私が預かります」
「王都へ送るのか」
「いいえ。まだ、返す相手を決めていません」
カイが目を上げる。
「でも、あなたのお父さまの警告を、無かったことにはしません。まずは鐘の音の場所を探しましょう。水路管理局が消した記録と、印を使った人を結びつけるために」
「危険だ」
「それは、もう聞き飽きました」
リエラが言うと、カイの口元がわずかに緩んだ。笑ったというより、彼女が隣にいることを受け入れた顔だった。
「……分かった。君を一人にはしない」
「私も、あなたを一人で行かせません」
二人は命令書を封筒へ戻した。王都の印章は、正しい道を示すためではなく、間違った返却先へ人を誘うために使われていた。
中継所を出る前、リエラは机の上の封蝋を見た。欠けた羽根の印の下で、波の模様だけがかすかに光っている。
父の警告は、まだ届けられていない。
そしてその宛先は、王都ではなく、北の見張り塔だった。




