行方不明の橋守を訪ねて
北へ向かう街道は、朝から霧に沈んでいた。
港町を出て半日も歩くと、潮の匂いは薄れ、代わりに濡れた草と石の匂いが強くなる。リエラは胸元の袋を押さえた。中には、欠けた羽根の印が押された命令書と、父の警告が残る灰色の紙が入っている。
隣を歩くカイは、いつもより口数が少なかった。もともと無口な人だが、今日は何度も北の空を見上げている。
「鐘の音が聞こえたら、教えてください」
「君のほうが先に聞きつけるだろう」
「物に残った音は、いつでも聞けるわけではありません」
「分かっている」
短い返事のあと、彼は少しだけ歩調を落とした。リエラの靴がぬかるみに沈まないよう、乾いた石の多い場所を選んでいるらしい。気づいたことを言えば、きっと「道を選んだだけだ」と返される。だからリエラは、何も言わずにその背中を追った。
第三橋は、地図に描かれていた姿よりも古びていた。欄干の半分が崩れ、橋の下を流れる水は細い。橋のたもとには見張り塔が立っていたが、窓は板で塞がれ、扉には水路管理局の廃止印が大きく貼られている。
「ここで橋守をしていた人は?」
近くの粗末な家で尋ねると、白髪の女が警戒した目を向けた。
「橋守なんて、もういないよ。六年前に水路が廃止されたとき、責任を取らされて消えた」
「名前を教えてください」
「アルノー・フェル。役所の記録では、夜逃げしたことになっている」
「役所の記録では、ですか」
カイが聞くと、女は唇を固く結んだ。
「あの人が家族を捨てるわけない。けれど、そう言ったら次は私たちが疑われる。だから、いない人のことは忘れたんだよ」
女はそれ以上話さなかった。ただ、橋の下流を指さした。そこには崩れた石垣と、蔦に覆われた細い道がある。
「毎年、雨が増える前になると、あの道に足跡がつく。誰のものかは知らない。知らないことにしている」
二人は礼を言い、石垣へ向かった。
蔦の奥に、古い鉄の扉があった。鍵穴には錆が浮いている。カイが手袋を外し、軋む錠を調べた。
「ここは水路の点検道だ。見張り塔の地下につながっている」
扉の脇に、細い真鍮の鍵が落ちていた。リエラが拾い上げた瞬間、耳の奥でかすかな音が鳴った。
からん、と一度。
続いて、誰かの声がした。
『戻ってきたら、あの子に水門のことを話す』
リエラは鍵を握ったまま動けなくなった。
「聞こえたのか」
「はい。戻ってきたら、あの子に水門のことを話す、と」
「アルノーの声?」
「分かりません。ただ、声のそばで、金属をこする音がしました」
カイは鍵を見た。表面には、古い橋を表す刻印が残っている。
「中へ入ろう」
地下道は、ひざ下まで冷たい水に浸かっていた。壁には等間隔に小さな灯り石が埋め込まれているが、その多くは消えている。カイが持ってきた火種を灯すと、水面に二人の影が細長く揺れた。
道の奥で、何かが動いた。
「誰だ」
カイが剣に手をかける。
「待ってください。敵なら、こんなに大きな咳はしません」
暗がりから、杖をついた老人が現れた。肩には濡れた外套を掛け、左手には橋守の印が刻まれた木札を握っている。深く刻まれた皺の間から、鋭い目が二人を見た。
「その声は……セヴェルの息子か」
カイの足が止まった。
「父を知っているんですか」
「知っているとも。おまえの父親は、最後まで橋を守ろうとした。だから消された」
老人はアルノー・フェルと名乗った。
六年前の夜、水路管理局の役人が三人、見張り塔へ来たという。彼らは王都の印がついた命令書を見せ、七番水門を閉めるための鍵を要求した。アルノーが拒むと、役人たちは橋の老朽化を理由に彼を解任し、父のカイには別の荷を運ばせるよう命じた。
「あの夜、セヴェルは私に言った。『橋を閉じるな。水門を動かしているのは、橋守ではない』とな」
「父は、あなたに警告を?」
「いや。私が逃げる時間を作るため、わざと役人の前で口にした。あの男は、自分が疑われると分かっていた」
アルノーは木札の裏から、湿気で波打った薄い帳面を取り出した。そこには水門を開閉した時刻と、立ち会った者の印が記されている。六年前の記録だけ、欄外に同じ欠けた羽根の印が何度も押されていた。
「これを持って、私は地下に隠れた。表へ出れば、父親と同じ目に遭うと思ったからだ」
カイは帳面を受け取った。指先が白くなるほど強く握っている。
「なぜ今、私たちに見せるんですか」
リエラが尋ねると、アルノーは彼女の胸元を見た。
「その指輪を持っているからだ。あれを捨てた女が、ここへ来た」
指輪が袋の中で、かすかに震えた。
「女の名前は?」
「知らない。ただ、泣きながら言っていた。『王都へ返さないで。あの人に見つかる前に、誰かへ届けて』と」
アルノーは帳面の最後の頁を開いた。そこには水門の時刻ではなく、ひとつの住所が書かれていた。港町の古い倉庫街。その横に、見覚えのある銀糸の模様が添えられている。
「彼女は指輪をここへ置き、南へ戻った。私は追えなかった。だが、指輪を捨てた理由なら、あの女が知っている」
カイがリエラを見る。彼の目には、怒りと迷いが同時に浮かんでいた。
「まず、帳面を守って王都へ届けるべきです」
「違う」
リエラは首を振った。
「届ける相手を、まだ選んでいません。印を使った人の手に渡せば、父上の警告まで消されます」
アルノーが、静かにうなずいた。
「その仕事をするなら、次は指輪を捨てた人を訪ねなさい。あの人が見たものが、帳面に足りない最後の一行だ」
地下道を出ると、霧の向こうで鐘が鳴った。高く、近い音だった。
リエラは隣のカイの手に、そっと帳面を重ねた。彼は一瞬驚いた顔をして、それから確かな力で受け取った。
「一人で抱えないでください」
「君こそ」
「私は忘れ物係です。預かったものは、二人で運びます」
カイは返事の代わりに、彼女の濡れた袖口を見て、自分の外套を肩へ掛けた。
橋守は行方不明になったのではない。消されることを拒み、証言を抱えたまま、誰かが迎えに来る日を待っていたのだ。
二人は南へ向き直った。次に訪ねるべき人の名は、まだ知らない。ただ、指輪が捨てられた倉庫街だけが、はっきりと行き先を示していた。




