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「王都へ返さないで」と鳴る指輪を、忘れ物係は届けたい  作者: 銀細工ナギ


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12/20

指輪を捨てた人

 南へ戻る街道には、夕方から細い雨が降り始めた。


 リエラは胸元の袋を何度も確かめた。中には第三橋の地下道で託された帳面と、王家の印が押された指輪が入っている。帳面は油布で包み、指輪はさらに布袋へ入れた。それでも歩くたび、胸の奥に小さな金属音が響く気がした。


「疲れたなら、今日は宿を取る」


 前を歩くカイが振り返らずに言った。


「倉庫街までは、もう少しです」


「無理をしている顔だ」


「カイさんは、私の顔をよく見ているんですね」


 からかうつもりはなかったのに、彼の歩みが一拍だけ止まった。


「道を見ている」


「そういうことにしておきます」


 雨音の向こうで、カイが小さく息を吐いた。笑ったのかもしれないと気づいたとき、リエラの指先まで温かくなった。


 港町へ戻ると、倉庫街の通りには色とりどりの灯りが吊られていた。明日から始まる返納祭の準備で、返納局の職員や露店の人々が忙しく行き交っている。見つかった品物を並べ、持ち主に返すための祭りだ。なくした人と拾った人が、同じ灯りの下で顔を合わせる。


 銀糸の模様が記されていたのは、古い塩倉庫の七番棟だった。扉は固く閉ざされていたが、錠の横に、糸を三本束ねた印が彫られている。リエラがそこへ触れると、袋の中で指輪が震えた。


 今度は声ではなく、誰かが急いで紙をめくる音が聞こえた。続いて、押し殺した泣き声。


『これを持っている限り、あの人は私を逃がさない』


 リエラは手を引いた。


「中に、指輪を捨てた人がいます」


「気配が分かるのか」


「いいえ。指輪が、まだ覚えています」


 カイは扉を見つめ、三度、拳で叩いた。


「アルノー・フェルから伝言を預かった。帳面を返しに来た」


 しばらく返事はなかった。やがて内側で何かが倒れ、足音が遠ざかる。


「開けてください。追いません」


 リエラが声をかけると、扉の向こうから女の声がした。


「その人は、まだ生きているの?」


「はい。第三橋の地下道で、あなたを待っていました」


「嘘よ。あの人は、もう誰も信じない」


「だから私たちに帳面を託しました」


 錠が外れる音がした。


 隙間から現れたのは、濃い灰色の外套を着た二十代後半ほどの女性だった。髪は短く切られ、右手の甲に細い火傷の跡がある。倉庫の奥には、灯り石と古い紙束、そして銀糸を織り込んだ地図が積まれていた。


「私はネレイア・ソル。昔、水路管理局で記録を書いていた」


 彼女は二人を中へ入れたが、カイの腰の剣を見ると、扉のそばから離れなかった。


「指輪を捨てたのは、あなたですか」


 リエラが尋ねると、ネレイアはしばらく黙っていた。それから、濡れた外套の裾を握りしめる。


「捨てたというより、手放したの。あれは王都の役人から渡された。水門の記録を確認するための通行証だと言われたけれど、実際には印を押すための指輪だった」


「何に印を?」


「存在しない工事に。水路を廃止し、橋を閉じ、住民を移す。その書類に、私は何度も印を押させられた」


 カイの表情が硬くなった。


「父は、そのことを知っていたのか」


「セヴェル橋守は、知っていた。だから私に、書き写す前の原本を見せたのよ。廃止されたはずの水路が、六年前の夜にも流れていた記録を」


 ネレイアは倉庫の奥から、小さな木箱を取り出した。蓋を開けると、切り取られた帳面の頁が幾重にも重なっている。頁の端には、第三橋の帳面と同じ欠けた羽根の印が押されていた。


「この頁を持って逃げようとした夜、あの人に見つかった。私は指輪を外して水門へ投げた。追跡の魔法がかかっていたから。けれど、指輪は流れに乗らず、誰かの手に渡った」


「それが、私のところへ届いたんですね」


「あなたが拾うことを、指輪が選んだのかもしれない」


 ネレイアは苦く笑った。


「私は、返納局へ届けば終わると思っていた。誰かが正しい相手へ返してくれると思った。でも王都の印を見たら、怖くなった。返せば、私が書いた偽の記録まで、正しいものにされる」


 リエラは袋の中の指輪に触れた。冷たい金属の向こうに、あの声の震えが残っている。


「あなたは、指輪に『王都へ返さないで』と願いました」


「ええ。あれを返す相手を間違えたら、橋も水路も、本当に消されるから」


「では、帳面を誰に届ければいいのか教えてください」


「王都の誰かではないわ。まず、この町の人たちに見せるの。水路の水を使って暮らしてきた人たちに、何が消されようとしているかを」


 ネレイアは窓の外を見た。祭りの灯りが、雨に濡れた石畳へ揺れている。


「返納祭なら、なくしたものを探す人が集まる。私も明日の夜、灯りの下で話す」


「王都から追手が来るかもしれません」


「もう来ていると思う」


 その言葉と同時に、通りの向こうで靴音が止まった。


 カイはリエラを背にかばい、灯りを吹き消した。七番棟の中が暗闇に沈む。扉の外から、低い男の声が響いた。


「ネレイア・ソル。預かり物を返してもらおう」


 指輪が、布袋の中で一度だけ鳴った。


 リエラはカイの袖をつかんだ。彼の腕がわずかに強張る。


「返す相手を、選ぶんですよね」


「ああ」


「なら、今は返しません」


 カイが振り向いた。暗がりでも、その目の色だけは分かった。


「その言葉を、待っていた」


 ネレイアは木箱を抱え、倉庫の床板を外した。地下へ続く細い階段が現れる。


 外では、男が扉を叩き始めた。


 三人は声を潜め、地下の暗い通路へ下りていく。返納祭の灯りは、まだ雨の向こうで揺れていた。


 指輪を捨てた人は、逃げるためではなく、誰かに選び直してもらうために手放したのだ。


 リエラはそう思いながら、カイの手が自分の手を探し当てるのを待った。

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