返納祭の灯り
地下通路は、潮の匂いがした。
七番棟の床下から伸びた道は、古い水路の底に沿っているらしい。ところどころ天井の石が崩れ、雨水が細い筋になって落ちていた。ネレイアの持つ灯り石が照らすたび、壁に刻まれた銀糸の印が浮かび上がる。
「この先は、返納局の裏手へ出るわ」
ネレイアが低い声で言った。
「昔は水路の点検用に使われていた。閉じたことになっているけれど、誰も本当に閉じてはいない」
「閉じたことにされている、ですね」
リエラが言い直すと、前を行くカイが振り返った。
「言葉を選ぶようになったな」
「カイさんに教わりました。命令と事実は、同じではないって」
暗い通路の中で、彼の目が少しだけやわらいだ。
階段を上がると、返納局の裏庭に出た。祭りの準備をしていたマルタが、濡れた三人を見て眉を上げる。
「ずいぶん遅い帰還ね。まさか、祭りの目玉まで拾ってきたんじゃないでしょうね」
「目玉どころか、王都が隠した水路の記録よ」
ネレイアが木箱を置いた。
マルタは蓋を開け、切り取られた頁を一枚ずつ確かめた。やがて、いつもの大きなため息をつく。
「明日の返納祭で話すつもりなのね」
「はい。でも、誰かが私の話を信じるとは限らない」
「信じさせる必要はないわ。見せて、聞かせて、考える時間を渡しなさい。返納局は、持ち主の代わりに決める場所ではないもの」
マルタは記録の頁を油紙に包み直した。
「なくしたものを返す祭りよ。なら、消されたものを返してもいいでしょう」
翌日の夕暮れ、港町は無数の灯りで縁取られた。
返納祭では、拾われた品物を並べた長机の上に、小さな灯り籠を置く。持ち主が現れた品には白い糸を、まだ帰る先の分からない品には青い糸を結ぶ決まりだった。
リエラは受付の横で、指輪の入った袋を胸に抱えていた。祭りのざわめきの中でも、指輪は沈黙している。けれど、その沈黙は怯えているものではなかった。誰かの手に渡る順番を待っているように感じられた。
広場の中央で、ネレイアが立ち上がった。
「私は、水路管理局の記録係でした」
最初の声は小さかった。風にさらわれそうになったその声を、カイが広場の四隅に置かれた音響石へ通した。魔力を帯びた石が、ネレイアの言葉を静かに広げていく。
「廃止されたはずの水路が、六年前の夜にも流れていました。橋が閉じたあとも、下流の畑へ水は届いていた。なのに記録から名前が消され、存在しない工事の書類に、私は印を押しました」
人々の間に、ざわめきが起こった。
「嘘だ。あの水路は危険だから埋められたんだ」
誰かが叫ぶ。
すると、魚籠を抱えた老人が前へ出た。
「埋められたのは上の道だけだ。春先になると、第三橋の下から水音がしていた。わしは五年前まで、そこで網を洗っていた」
「うちの畑にも来ていたよ。役所の人間が来てから、急に水が止まったけど」
別の声が重なる。
ひとつの証言は、頼りなく揺れる灯りのようだった。けれど、灯りはひとつ増え、ふたつ増え、やがて広場全体を照らした。
マルタが長机の上に記録の頁を並べた。欠けた羽根の印、古い水門の番号、銀糸の地図に記された水の流れ。ばらばらだったものが、同じ場所を指している。
「これは王都へ送るべき書類ではありません」
リエラは、気づけば人々の前に立っていた。
「まず、ここで暮らしてきた人たちに返すものです。水を使った人、橋を渡った人、記録を消されたことで困った人。その人たちが、何を返してほしいのかを選ぶために」
声は震えた。それでも、最後まで途切れなかった。
「落とし物は、拾った人が勝手に持ち主を決めてはいけません。でも、返す相手が間違っていると分かっているのに、命令だから渡すこともできない。私は、そう思います」
隣に立ったカイが、広場へ向けて一歩進んだ。
「王立郵便の特配官として、記録を確認した。ここにあるものは、王都へ届ければ正しく扱われるとは限らない。だから、証言とともに保全する」
彼がリエラの手を取った。
人前で触れられたのは初めてだった。指先から伝わる温度に、リエラの胸が詰まる。
「俺は、リエラ・ノートの判断を支持する」
短い言葉だった。けれど、命令を読み上げるときの声ではなかった。
そのとき、広場の灯り籠が一斉に揺れた。風はない。地下水路を流れる水の気配が、石畳の下からかすかに響いている。
誰かが、広場の端にある古い排水口へ駆け寄った。
「水が来てる!」
錆びた格子の向こうから、細い流れが姿を現した。灯り籠の光を映しながら、水は港の方へゆっくり流れていく。
歓声は上がらなかった。皆、消されたものが戻ってくる音を聞いていた。
リエラの胸元で、指輪が一度だけ鳴った。
今度の残響は、言葉にならなかった。ただ、怯えた音ではなく、長い間待っていた人がようやく息をつくような音だった。
祭りの灯りが消え始めたころ、広場の入口に黒い外套の一団が現れた。先頭の男は王都の紋章を掲げ、手に封蝋のついた書状を持っている。
「王都水路管理局の命により、関係書類と証拠品を回収する」
カイの手が、リエラの手を強く握った。
返納祭の灯りは、まだ消えていない。
リエラは指輪の袋を抱え直し、黒い外套の一団をまっすぐ見た。
「返す相手を、間違えないでください」
その言葉に、カイが隣でうなずいた。
灯りの下で選び直されたものを、今度こそ誰にも奪わせないために。




