最後の配達
王都へ向かう街道は、朝靄のなかで白く伸びていた。
リエラは郵便馬車の後部座席で、膝の上の木箱を両手で押さえていた。箱の中には、旧南環水路の帳面と銅板が収められている。封蝋には返納局の印、側面にはノルド橋の証言者たちの署名。何度確認しても、封は破られていなかった。
向かいに座るカイは、王立郵便の配達証と、受取人を指定した命令書を読み直している。窓から差す光が、彼の指先の傷を細く照らしていた。昨夜、荷を積み込むときについたものだろう。
「そんなに見なくても、逃げませんよ」
「書類は、目を離したときに間違う」
「物は逃げないのに、人は逃げるんですね」
リエラが言うと、カイは一拍遅れて顔を上げた。
「……だから、最後まで届ける」
その声には、ノルド橋で聞いた決意が残っていた。
王都の門をくぐるころには、靄は晴れていた。高い塔の時計が九時を告げ、通りを行き交う人々の上に、銀色の鐘の音が降ってくる。リエラは港町で聞き慣れた潮の音を探したが、ここには馬車の車輪と役人の靴音しかなかった。
王立郵便の本局を通り過ぎ、二人が向かったのは水路調査院の古い建物だった。正面玄関には新しい看板が掛かっているのに、扉の蝶番は錆び、石段の隅には昨年の落ち葉が積もっている。
「調査院は、こちらで間違いありませんか」
「記録上はな」
カイが扉を押すと、受付の若い書記が立ち上がった。
「王立郵便の特配です。受取人は、水路調査院主任記録官。旧南環水路に関する原本と銅板を届けます」
「その記録は、管理局からまだ移送命令が出ていません。受け取れません」
書記は戸惑いながら、奥の机を見た。そこにはイヴァンの部下らしい男が座っている。男はすぐに立ち上がり、王家の印が押された書類を掲げた。
「保管先は王都管理局です。調査院へ持ち込むのは規定違反だ」
「この配達の規定では、指定受取人の署名を得るまで、配達人が保管することになっています」
カイは一歩も退かなかった。
「受取人本人の不在を理由に、別の部署へ渡すこともできません」
「郵便ごときが行政に口を出すのか」
「郵便だから、宛名を変えない」
静かな返答だった。けれど、扉の外まで聞こえるほど、はっきりしていた。
リエラは木箱の留め金に触れた。冷たい金具の下から、かすかな音がした気がする。指輪ではない。箱の中の銅板が、揺れた馬車の振動をまだ覚えているだけだ。
彼女は受付の書記へ向き直った。
「この記録は、町の人たちが写しを作って残しました。原本を隠すためではありません。誰が、いつ、どこへ返したのかを明らかにするためです。受け取れないなら、その理由を配達証に書いてください」
書記の顔色が変わった。理由を書けば、拒否した事実が記録に残る。残れば、後から誰かが消そうとしても、消すべき記録が増える。
「……主任記録官を呼びます」
長い待ち時間のあと、白髪の女性が現れた。水路調査院の主任記録官、セレネ・アーヴィルと名乗った彼女は、封蝋をひと目見ると、椅子を引いた。
「ノルド橋の印ですね。橋守の家に伝わる印を、私は昔、調査報告で見ました」
「ご存じなのですか」
「知っていました。だからこそ、十年前に記録が差し替えられたとき、声を上げられなかった自分を恥じています」
セレネは震える手で配達証に署名した。受領時刻、品目、封蝋の状態。ひとつずつ読み上げ、最後に王立郵便の規定に従って、配達人と立会人の名前を記した。
リエラの名前を見たとき、彼女は少しだけ目を細めた。
「返納局の忘れ物係が、立会人に?」
「返す相手を確認する係です」
リエラが答えると、カイが横で頷いた。
「彼女がいなければ、この箱はここまで来ませんでした」
セレネは二人の顔を見比べ、それから木箱を机の中央へ置いた。
「受け取りました。今日中に閲覧記録を公開し、管理局にも照会を出します。古い水路を廃止した理由が記録と違うなら、調査をやり直さなければなりません」
その言葉を聞いた瞬間、リエラの肩から力が抜けた。
最後の配達が終わった。
だが、終わったのは届けることだけだ。受け取られた記録が、これからどれだけの人に読まれ、どんな決定を動かすのかは、まだ誰にも分からない。
建物を出ると、王都の鐘が正午を告げた。カイは受領印の押された控えを封筒へしまい、リエラへ差し出す。
「これは君が持っていてくれ」
「私が?」
「返納局の記録だ。町へ戻ったら、マルタ局長に渡す」
リエラは封筒を受け取った。紙一枚の重さなのに、木箱より重く感じる。
「カイさんは、王立郵便へ戻るんですよね」
「戻る。報告も、たぶん処分も受ける」
「処分……」
「命令の宛先を、俺の判断で変えたからな。正確には、変えなかった」
カイは苦笑した。初めて見る、少し疲れた笑いだった。
「それでも、戻るんですか」
「届け終えた者が、届け先から逃げるわけにはいかない」
「では、私も返納局へ戻ります」
「……リエラ」
呼び止められて、彼女は振り返った。
カイはしばらく言葉を探していた。王都の人波が二人の脇を流れていく。やがて彼は、郵便鞄の肩紐を握り直した。
「次の配達も、一緒に行くことはできるか」
「次の配達?」
「返納局と特配の連絡便が必要になる。町へ戻って、局長に提案する」
それが仕事の話だけではないと、リエラには分かった。分かったから、すぐに答えられなかった。
服の内側で、指輪が小さく鳴った。
王都へ返さないで、と願った声は、もう戻らない。けれど、その願いを守った先で、自分がどこへ行きたいのかは、自分で選べる。
「はい。次の配達も、私が受取人を確認します」
カイの目が、わずかに和らいだ。
「それなら、俺は宛名を間違えない」
二人は港町へ戻る馬車の停留所へ歩き出した。背後では、水路調査院の扉が開き、古い記録を読むための人々が中へ入っていく。
リエラは封筒を胸に抱いた。返すべきものは、返すべき場所へ届いた。返さないものは、これからも守っていく。
そして彼女は、隣を歩く人の歩幅に合わせるように、少しだけ速度を落とした。




