ふたりで守る返納局
港町へ戻る馬車の窓から、リエラは何度も海を見た。
王都で受領された帳面と銅板は、もう彼女の膝にはない。代わりに、封筒に入った配達証の控えがある。紙の端には、セレネ主任記録官の署名と、王立郵便の受領印。それは、消された記録が確かに届けられた証だった。
隣の席で、カイは眠っていた。王都からの帰り道で、彼が目を閉じたのは初めてだった。郵便鞄を抱えたまま、揺れる馬車に身を預けている。
リエラは起こさないように、窓の外へ目を戻した。
海が見えた。潮の匂いがした。長い旅の終わりを知らせる、懐かしい風だった。
「リエラ。カイさん」
停留所に馬車が着くなり、マルタ局長が大股で近づいてきた。いつもの灰色の外套には、雨上がりの泥が跳ねている。
「お帰り。まずは無事でよかった。報告はあとでいいから、二人とも食べなさい」
「局長、王都で――」
「食べなさい」
有無を言わせぬ声に、リエラとカイは顔を見合わせた。
返納局へ戻ると、机の上には湯気の立つ魚のスープと、焼きたてのパンが並んでいた。二人が食べ終えるまで、マルタは何も尋ねなかった。リエラはそのことがありがたくて、胸の奥が少し熱くなった。
食後、彼女は配達証を差し出した。
「届けました。指定された受取人に、確かに」
「そう」
マルタは紙を受け取り、印を指でなぞった。それから、カイの報告書にも目を通す。
「王立郵便から処分の通知が来たら、私にも見せなさい。返納局の立会人として、私が証言する」
「ありがとうございます」
「礼は、局長を辞めてから聞くよ」
マルタは笑って、窓を開けた。
「町の掲示板に、王都の調査院から返事が来ている。旧南環水路の廃止手続きは一時停止。来月から現地調査をやり直すそうだよ」
リエラは息を呑んだ。
「本当に?」
「本当さ。水路沿いの家々には、もう知らせを回した。ノルド橋も取り壊しではなく、補修して残すことになった」
カイは深く息を吐いた。長いあいだ胸の中に抱えていたものが、ようやく外へ出ていくようだった。
「父の名も、記録から消されずに済むでしょうか」
「消されていたなら、戻すだけだよ」
マルタはきっぱり言った。
「返納局は、なくなったものを元の場所へ戻す仕事をしている。名前だって同じさ」
その日の夕方、リエラは指輪を小箱から取り出した。
王家の印を刻んだ銀の指輪。手のひらに載せると、かつて聞いた声がよみがえる。
王都へ返さないで。
あの願いを聞いた朝、彼女は自分が規則を破るのだと思っていた。けれど今なら分かる。指輪が拒んだのは王都そのものではない。声を消す場所へ、何も考えずに戻されることだった。
「どこへ置くつもりだ」
戸口からカイが尋ねた。彼の手には、二つの木札がある。
「返納局の記録棚に。水路の帳面と一緒に、誰でも見られるようにします」
「持ち主は、それで納得するかな」
「指輪が最後に願ったことは、もう守りました。次に返す相手を決めるのは、私たちです」
リエラは小箱を閉じた。
「これは、忘れ物ではなくなりました。町が忘れないための証拠です」
カイは少し考え、木札を机に置いた。
一枚には、〈返納局・特配連絡所〉。
もう一枚には、〈受け取る人を確認してから届ける〉と書かれている。
「局長には話した。返納局の隣の空き部屋を、王立郵便との連絡所に使わせてもらう」
「もう決めたんですか」
「君が王都で言った。返さないなら、理由を記録に残せ、と」
カイは木札の文字を見たまま続けた。
「だから、俺も記録に残した。君と働きたい」
リエラの指先が、机の上で止まった。
「仕事として、ですか」
「仕事だけなら、こんな言い方はしない」
カイは顔を上げた。無口な彼が、逃げずにリエラを見ている。
「君の声を信じている。君が選ぶ返し先も。これから先、隣でそれを見届けたい」
胸の中で、指輪がかすかに鳴った。
もう、王都へ返さないでという声ではない。聞き間違えようのない、鈴のような音だった。
「私も、カイさんの宛名を間違えたくありません」
リエラは笑った。
「だから、隣で確認します。これからも」
カイの耳が、夕日のように赤くなった。
数日後、空き部屋の窓に新しい木札が掛かった。マルタは開所祝いだと言って大きなリボンを結び、町の子どもたちは水路の写しを見に集まった。漁師の妻は預けた鍵を受け取り、旅人は宛名のない荷物の相談をした。
リエラは落とし物の声を聞き、カイは届け先を調べた。二人だけで判断できないものは、町の人々と記録を確かめた。返すべきものは、返すべき人へ。返してはいけないものは、理由とともに守る。
夕暮れ、最後の客を見送ったあと、リエラは記録棚の小箱に触れた。
指輪はもう鳴らなかった。
それでよかった。願いは届き、声は消えず、選んだ場所に残っている。
「閉めるぞ、リエラ」
「はい」
戸口で待つカイの隣へ、リエラは歩いていく。
海から風が吹き、二つの木札を揺らした。返納局と特配連絡所。別々の仕事を示す名前は、同じ軒下に並んでいる。
なくしたものを探す人がいる限り、届ける人がいる限り、この場所は続いていく。
リエラは隣の歩幅に合わせた。今度は、速度を落としたのではない。
ふたりで歩くために、選んだ歩幅だった。




