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「王都へ返さないで」と鳴る指輪を、忘れ物係は届けたい  作者: 銀細工ナギ


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18/20

返すべきもの、返さないもの

 橋の上から人が引き上げたあとも、ノルド橋の欄干には白い布が残っていた。


 風が吹くたび、布は古い橋守の印をひるがえす。まるで、誰かがまだここに立って、通り過ぎる人へ合図を送っているようだった。


 リエラは木箱の前に座り、写し取った帳簿の頁を一枚ずつ数えていた。水路の記録、橋守の帳面、銅板の刻印。どれも町に残すと決めたものだ。けれど、鉄箱そのものと中の帳面は、王都の正式な調査へ返さなければならない。


 返納局の仕事は、拾ったものを持ち主へ戻すこと。


 それなのに、返してはいけないものがある。


「数え終わった?」


 マルタが隣から覗き込んだ。


「写しは三部です。一部は返納局、一部は北区の井戸番へ。もう一部は、王立郵便の記録としてカイさんが持ちます」


「原本は?」


「王都へ。ただし、イヴァン管理官へ直接は渡しません」


 返事をしたのはカイだった。彼は橋のたもとから戻り、王立郵便の徽章を胸へ戻していた。さっき外した徽章は、泥で少し汚れている。


「王都の調査院へ、受取人を指定した特配にする。受領の署名が取れるまで、俺が預かる」


「王立郵便が、そんな条件を認めるの?」


「認めさせる。これは王都へ隠すための配達ではない。王都に返し、王都で開かせるための配達だ」


 カイの声は静かだったが、以前の命令に従うだけの響きはなかった。


 そのとき、橋の向こうから蹄の音が近づいてきた。濃紺の外套を着たイヴァンが、役人を二人連れて歩いてくる。手には新しい封蝋が押された書面があった。


「旧南環水路に関する物品を、王都の保管庫へ移送する命令書です。鉄箱、帳面、銅板。それから、王家の印を持つ指輪も」


 イヴァンの視線が、リエラの首元へ落ちた。指輪は細い鎖に通し、服の内側へ隠してある。鎖の先を指で押さえると、冷たい金属が小さく震えた。


「指輪は水路の記録ではありません」


「王家の印章がある。持ち主は王都にいる」


「持ち主は、指輪を捨てました」


 リエラが言うと、イヴァンの眉が動いた。


「捨てたからといって、所有権が消えるわけではない」


「では、誰に返すのですか」


 橋のたもとに、午後から残っていた町の人々が振り向いた。井戸番の老人も、エダも、マルタもいる。公開審理が終わっても、皆、記録がまた消える瞬間を見逃すまいとしていた。


「王家へ返す。決まっている」


「指輪が最後に願ったことは、王都へ返さないで、でした」


 言葉にした瞬間、指輪が鎖の先で鳴った。


 澄んだ音ではない。雨に濡れた石を、遠くから爪で弾くような音だった。


 リエラは目を閉じた。残響は一度しか聞けない。何度確かめても、同じ声を呼び戻すことはできない。


 だからこそ、聞こえた願いを自分の都合で証拠にしてはいけなかった。


「私に聞こえた声は、記録として提出できません。でも、返す相手を決める前に、指輪を捨てた人の意思を確かめる必要があります」


「行方も分からない者の意思を?」


「分からないから、勝手に王都へ送ることもできません」


 イヴァンが一歩踏み出す。だが、マルタが木箱の前に立った。


「ここにいる人たちは、原本を返さないと言っているわけではないわ。返す相手と、返し方を選んでいるの」


「役所の物品に、町の返納局が条件を付けると?」


「落とし物は、拾った人間が勝手に決めるものではないもの。あなたがたが長い間そうしなかったから、今こうなっているのよ」


 マルタの言葉に、北区の女が続いた。


「帳面の写しは町に置いてください。明日から水路を掘るかどうか、私たちも決めるんです」


「橋守の記録を、もう消させないでくれ」


 老人の声に、周囲から同意が重なる。


 カイは書面を受け取り、封蝋を確かめた。


「返すものは、原本と銅板。返さないものは、写しと、町の証言だ」


 彼はイヴァンへ向き直った。


「そして指輪は、持ち主が現れるまで返納局で保管する。王都の役人へ直接渡すことはしない。受取人の名前がない配達は、配達ではなく回収だ」


 リエラの胸が、かすかに熱くなった。


 カイは命令書を破りはしなかった。代わりに、裏面へ王立郵便の規定を書きつけた。原本の受取人を王都調査院、立会人をノルド橋の証言者三名、配達人をカイ・セヴェル。そこへマルタが返納局の印を押し、エダが町の写しを添付する。


 イヴァンはしばらく黙っていたが、最後には書面を取り戻した。


「王都で、あなた方が責任を問われても知りませんよ」


「消されたものを返す責任なら、引き受けます」


 カイの答えに、リエラは思わず彼を見た。


 イヴァンたちが去ると、橋の上に夕暮れの静けさが戻った。木箱の中身は、もう一度、別々の包みに分けられる。返すべきものと、返さないもの。その境目は、物ではなく、誰かの未来を守れるかどうかで決まるのかもしれない。


「指輪を、まだ預かっていてもいいでしょうか」


 リエラが尋ねると、マルタは頷いた。


「持ち主へ返すためにね」


「はい。私が聞いた願いを守るためにも」


 隣で、カイが鎖の先を見つめていた。


「明朝、王都行きの特配を出す」


「一人で?」


「いや」


 彼はほんの少しだけ、口元を緩めた。


「写しの受取人を確認する係が必要だ。リエラ、同行してくれ」


 指輪が、今度は小さく一度だけ鳴った。


 返すべきものを抱えて、返さないものを守りながら。二人は、夜の帳が降りる橋をあとにした。

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