返すべきもの、返さないもの
橋の上から人が引き上げたあとも、ノルド橋の欄干には白い布が残っていた。
風が吹くたび、布は古い橋守の印をひるがえす。まるで、誰かがまだここに立って、通り過ぎる人へ合図を送っているようだった。
リエラは木箱の前に座り、写し取った帳簿の頁を一枚ずつ数えていた。水路の記録、橋守の帳面、銅板の刻印。どれも町に残すと決めたものだ。けれど、鉄箱そのものと中の帳面は、王都の正式な調査へ返さなければならない。
返納局の仕事は、拾ったものを持ち主へ戻すこと。
それなのに、返してはいけないものがある。
「数え終わった?」
マルタが隣から覗き込んだ。
「写しは三部です。一部は返納局、一部は北区の井戸番へ。もう一部は、王立郵便の記録としてカイさんが持ちます」
「原本は?」
「王都へ。ただし、イヴァン管理官へ直接は渡しません」
返事をしたのはカイだった。彼は橋のたもとから戻り、王立郵便の徽章を胸へ戻していた。さっき外した徽章は、泥で少し汚れている。
「王都の調査院へ、受取人を指定した特配にする。受領の署名が取れるまで、俺が預かる」
「王立郵便が、そんな条件を認めるの?」
「認めさせる。これは王都へ隠すための配達ではない。王都に返し、王都で開かせるための配達だ」
カイの声は静かだったが、以前の命令に従うだけの響きはなかった。
そのとき、橋の向こうから蹄の音が近づいてきた。濃紺の外套を着たイヴァンが、役人を二人連れて歩いてくる。手には新しい封蝋が押された書面があった。
「旧南環水路に関する物品を、王都の保管庫へ移送する命令書です。鉄箱、帳面、銅板。それから、王家の印を持つ指輪も」
イヴァンの視線が、リエラの首元へ落ちた。指輪は細い鎖に通し、服の内側へ隠してある。鎖の先を指で押さえると、冷たい金属が小さく震えた。
「指輪は水路の記録ではありません」
「王家の印章がある。持ち主は王都にいる」
「持ち主は、指輪を捨てました」
リエラが言うと、イヴァンの眉が動いた。
「捨てたからといって、所有権が消えるわけではない」
「では、誰に返すのですか」
橋のたもとに、午後から残っていた町の人々が振り向いた。井戸番の老人も、エダも、マルタもいる。公開審理が終わっても、皆、記録がまた消える瞬間を見逃すまいとしていた。
「王家へ返す。決まっている」
「指輪が最後に願ったことは、王都へ返さないで、でした」
言葉にした瞬間、指輪が鎖の先で鳴った。
澄んだ音ではない。雨に濡れた石を、遠くから爪で弾くような音だった。
リエラは目を閉じた。残響は一度しか聞けない。何度確かめても、同じ声を呼び戻すことはできない。
だからこそ、聞こえた願いを自分の都合で証拠にしてはいけなかった。
「私に聞こえた声は、記録として提出できません。でも、返す相手を決める前に、指輪を捨てた人の意思を確かめる必要があります」
「行方も分からない者の意思を?」
「分からないから、勝手に王都へ送ることもできません」
イヴァンが一歩踏み出す。だが、マルタが木箱の前に立った。
「ここにいる人たちは、原本を返さないと言っているわけではないわ。返す相手と、返し方を選んでいるの」
「役所の物品に、町の返納局が条件を付けると?」
「落とし物は、拾った人間が勝手に決めるものではないもの。あなたがたが長い間そうしなかったから、今こうなっているのよ」
マルタの言葉に、北区の女が続いた。
「帳面の写しは町に置いてください。明日から水路を掘るかどうか、私たちも決めるんです」
「橋守の記録を、もう消させないでくれ」
老人の声に、周囲から同意が重なる。
カイは書面を受け取り、封蝋を確かめた。
「返すものは、原本と銅板。返さないものは、写しと、町の証言だ」
彼はイヴァンへ向き直った。
「そして指輪は、持ち主が現れるまで返納局で保管する。王都の役人へ直接渡すことはしない。受取人の名前がない配達は、配達ではなく回収だ」
リエラの胸が、かすかに熱くなった。
カイは命令書を破りはしなかった。代わりに、裏面へ王立郵便の規定を書きつけた。原本の受取人を王都調査院、立会人をノルド橋の証言者三名、配達人をカイ・セヴェル。そこへマルタが返納局の印を押し、エダが町の写しを添付する。
イヴァンはしばらく黙っていたが、最後には書面を取り戻した。
「王都で、あなた方が責任を問われても知りませんよ」
「消されたものを返す責任なら、引き受けます」
カイの答えに、リエラは思わず彼を見た。
イヴァンたちが去ると、橋の上に夕暮れの静けさが戻った。木箱の中身は、もう一度、別々の包みに分けられる。返すべきものと、返さないもの。その境目は、物ではなく、誰かの未来を守れるかどうかで決まるのかもしれない。
「指輪を、まだ預かっていてもいいでしょうか」
リエラが尋ねると、マルタは頷いた。
「持ち主へ返すためにね」
「はい。私が聞いた願いを守るためにも」
隣で、カイが鎖の先を見つめていた。
「明朝、王都行きの特配を出す」
「一人で?」
「いや」
彼はほんの少しだけ、口元を緩めた。
「写しの受取人を確認する係が必要だ。リエラ、同行してくれ」
指輪が、今度は小さく一度だけ鳴った。
返すべきものを抱えて、返さないものを守りながら。二人は、夜の帳が降りる橋をあとにした。




