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ダンジョン点検員、リストラされる。〜「何もしてない」と切られた俺の巡回ルートで、翌週から事故が止まらない〜  作者: 更田遅筋


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第9話 灰田がいた頃は

崩落から、三日が経った。


俺は台所のテーブルで、履歴書を書いていた。


職歴の欄に「ダンジョン設備点検業務 十年」と書いて、手が止まった。


その下の、自己PRの欄が、白いままだった。


十年でできるようになったことを、履歴書に書ける言葉で探すと、何も残らない。


音を聴けます、とは書けない。


事故を起こしませんでした、は、成果の欄には載らない。


隔壁の手動解放が九十秒でできます、は、たぶんどの求人票のどの職種にも対応していない。


書けないことは、指を折ると十本を超えた。


書けることは、三行で終わった。


ボールペンを置いて、時計を見た。


夜九時半。


そろそろ、上着を着る時間——というところで、チャイムが鳴った。



ドアを開けると、保全課の主任が立っていた。


スーツではなく、作業服のままだった。


目の下に、濃い隈があった。


「……夜分にすみません。灰田さん」


「どうも。ええと」


「猪狩です」


主任——猪狩さんという名前だと、玄関先で初めて知った。


無線であれだけ話した相手の名前を、俺は知らなかった。


考えてみれば、あの六時間、俺たちは名前のいらない話しかしていなかった。


「……住所、よく分かりましたね」


「所長に頭を下げて、教えてもらいました。個人の用だと言ったら、余計に渋られましたが」


彼は缶コーヒーの入った袋を差し出して、それから、廊下の照明の下で、深く腰を折った。


「あのとき、あんたの報告を、憶測だと言った。……あれを言ったのは、俺です」


「顔、覚えてますよ」


「殴ってくれて、いいんですが」


「殴りませんよ。あのときのあなたは、正しかったので」


猪狩さんは顔を上げて、変なものを見る目で俺を見た。


「……あんた、ほんとにそういう人なんだな」


彼は靴を脱ぎながら、狭い玄関を見回して、それから台所のテーブルの上の履歴書に気づいて、見なかった振りをした。


いい人なのだと思う。



狭い台所で、缶コーヒーを開けた。


猪狩さんは、疲れた声で話し始めた。


「第七は封鎖中です。ただ、国から、残り八本の柱の緊急点検指示が出てます。全数検査です」


「でしょうね」


「それで、詰んでます」


彼は、作業服の胸ポケットから、折り畳んだ紙を出した。


九本の柱の、振動値の一覧だった。


「あれから、生ログを見る癖がつきました。……ネットで検証だなんだと騒ぎになってるのは、ご存じですか」


「知りません」


「……でしょうね。まあ、いいです。とにかく、ログを遡ったら、残った八本のうち五本に、微小なズレがある。ただ、五本とも閾値のはるか下です。技術コンサルに三社聞いたら、三社とも『五本全て即時対応を推奨』としか言わない。そりゃそうです、誰も責任を取りたくない」


「それで」


「うちの人員は二班。資材の手当てがつくのは二本分。工期は、一本にひと月です」


「順位が、つけられない」


「そうです」


猪狩さんは、紙をテーブルに置いて、両手で顔を擦った。


「計器ってのは、駄目ですね。全部を等しく警告するか、等しく黙るかしか、できない」


それは計器が駄目なのではなくて、計器とはそういう道具だ、というだけなのだけれど、口は挟まなかった。


「所内で、みんな言ってます」


彼は、顔を擦った手を下ろして、言った。


「灰田がいた頃は、こんな会議は一度もなかった、って。どの柱から直すかで揉めたことが、十年で一度もない。……あんたが毎日、誰にも言わずに、順番を決め続けてたんですね」


「順番っていうか」


俺は少し考えた。


「気になる音から直してただけです」


「その、気になる、が」


猪狩さんは言いかけて、やめて、頭を下げた。


「聴いてもらえませんか。八本」



「入れませんよ、俺は」


「分かってます。封鎖現場に、無資格の部外者は入れられない。……規則を曲げて入れたら、今度こそあんたに顔向けできない。だから、これは公社の依頼じゃないです。俺個人の、頼みです」


規則の内側で詰んで、規則の外側の俺のところへ来た。


あの日の保全課と、ちょうど逆だった。


「猪狩さん。中に入らなくても、方法はあります」


「え?」


「第七の換気塔です。地上に三本、立ってるでしょう。北公園のと、資材置き場のと、川沿いの」


「……あの、煙突みたいなやつですか」


「換気系統は全層を貫いてます。九本の柱の音は、ダクトを伝って、必ずどれかの塔に届きます。どの塔でどの柱が聴こえるかは、頭に入ってます」


「それと、これは言うつもりがなかったんですが」


言わないのは、この人に対しては筋が違う気がした。


「崩落の次の日の夜から、毎晩、聴きに行ってます」


猪狩さんは、缶コーヒーを持ったまま、固まった。


「……毎晩?」


「はい」


「あんた、もう、職員でも何でもないのに」


「気になるので」


本当のことなので、それ以上の説明は、持っていなかった。


猪狩さんは口を開けて、閉じて、それから、笑うのと泣くののちょうど中間みたいな顔をした。


「今から行きますか。ちょうど、街が静かになる時間です」



深夜の北公園に、作業服の中年が、二人。


犬の散歩の人が、遠くからこちらを見て、進路を変えた。


無理もない。


換気塔の点検口の蓋を開けて、耳を押し当てる。


金属のダクトを何百メートルも渡ってきた、遠い遠い唸り。


それでも、聴き分けられる。


「猪狩さんも、聴いてみますか」


「……何も聞こえん。いや、ゴーッていうのは聞こえるが」


「そのゴーの中です」


「無理だ」


「十年やれば、聴こえるようになりますよ」


「……十年か」


猪狩さんは、それきり黙って、点検口から一歩下がった。


一番から順に、頭の中で音を仕分けていく。


一本ずつ、丁寧に。


この二晩、並べてきた音に、今夜の音を、重ねる。


「……四番と、七番です。急ぐのは。四番が先。残りの三本のズレは、春まで保ちます」


「四番と七番。四番が先。……それ、上にどう説明すれば」


「勘、とでも」


「あんたの勘が勘じゃないことは、もう市内の全員が知ってますよ」


猪狩さんは、乾いた笑い声を立てて、手帳に書きつけた。


書きながら、独り言のように言った。


「……国の調査団より先に、答えが出ちまったな」


出したのは俺ではなく、十年ぶんの耳だ、と思ったが、言わなかった。


俺はもう一度、点検口に耳を戻した。


一つだけ、猪狩さんに言わなかったことがある。


この二晩、四番の音の底に、聴き覚えのある癖が、薄く見え隠れしていた。


気のせいであってくれ、と思っていた。


今夜は、はっきり聴こえる。


半音低い、だけじゃない。


第三柱が、最後の八日間で鳴らしていたのと、同じ種類の、歪み。


まだ、ずっと浅い。


でも、同じ音だ。


——なんで、お前もなんだ。

最後まで読んでいただきありがとうございます。

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