第9話 灰田がいた頃は
崩落から、三日が経った。
俺は台所のテーブルで、履歴書を書いていた。
職歴の欄に「ダンジョン設備点検業務 十年」と書いて、手が止まった。
その下の、自己PRの欄が、白いままだった。
十年でできるようになったことを、履歴書に書ける言葉で探すと、何も残らない。
音を聴けます、とは書けない。
事故を起こしませんでした、は、成果の欄には載らない。
隔壁の手動解放が九十秒でできます、は、たぶんどの求人票のどの職種にも対応していない。
書けないことは、指を折ると十本を超えた。
書けることは、三行で終わった。
ボールペンを置いて、時計を見た。
夜九時半。
そろそろ、上着を着る時間——というところで、チャイムが鳴った。
◇
ドアを開けると、保全課の主任が立っていた。
スーツではなく、作業服のままだった。
目の下に、濃い隈があった。
「……夜分にすみません。灰田さん」
「どうも。ええと」
「猪狩です」
主任——猪狩さんという名前だと、玄関先で初めて知った。
無線であれだけ話した相手の名前を、俺は知らなかった。
考えてみれば、あの六時間、俺たちは名前のいらない話しかしていなかった。
「……住所、よく分かりましたね」
「所長に頭を下げて、教えてもらいました。個人の用だと言ったら、余計に渋られましたが」
彼は缶コーヒーの入った袋を差し出して、それから、廊下の照明の下で、深く腰を折った。
「あのとき、あんたの報告を、憶測だと言った。……あれを言ったのは、俺です」
「顔、覚えてますよ」
「殴ってくれて、いいんですが」
「殴りませんよ。あのときのあなたは、正しかったので」
猪狩さんは顔を上げて、変なものを見る目で俺を見た。
「……あんた、ほんとにそういう人なんだな」
彼は靴を脱ぎながら、狭い玄関を見回して、それから台所のテーブルの上の履歴書に気づいて、見なかった振りをした。
いい人なのだと思う。
◇
狭い台所で、缶コーヒーを開けた。
猪狩さんは、疲れた声で話し始めた。
「第七は封鎖中です。ただ、国から、残り八本の柱の緊急点検指示が出てます。全数検査です」
「でしょうね」
「それで、詰んでます」
彼は、作業服の胸ポケットから、折り畳んだ紙を出した。
九本の柱の、振動値の一覧だった。
「あれから、生ログを見る癖がつきました。……ネットで検証だなんだと騒ぎになってるのは、ご存じですか」
「知りません」
「……でしょうね。まあ、いいです。とにかく、ログを遡ったら、残った八本のうち五本に、微小なズレがある。ただ、五本とも閾値のはるか下です。技術コンサルに三社聞いたら、三社とも『五本全て即時対応を推奨』としか言わない。そりゃそうです、誰も責任を取りたくない」
「それで」
「うちの人員は二班。資材の手当てがつくのは二本分。工期は、一本にひと月です」
「順位が、つけられない」
「そうです」
猪狩さんは、紙をテーブルに置いて、両手で顔を擦った。
「計器ってのは、駄目ですね。全部を等しく警告するか、等しく黙るかしか、できない」
それは計器が駄目なのではなくて、計器とはそういう道具だ、というだけなのだけれど、口は挟まなかった。
「所内で、みんな言ってます」
彼は、顔を擦った手を下ろして、言った。
「灰田がいた頃は、こんな会議は一度もなかった、って。どの柱から直すかで揉めたことが、十年で一度もない。……あんたが毎日、誰にも言わずに、順番を決め続けてたんですね」
「順番っていうか」
俺は少し考えた。
「気になる音から直してただけです」
「その、気になる、が」
猪狩さんは言いかけて、やめて、頭を下げた。
「聴いてもらえませんか。八本」
◇
「入れませんよ、俺は」
「分かってます。封鎖現場に、無資格の部外者は入れられない。……規則を曲げて入れたら、今度こそあんたに顔向けできない。だから、これは公社の依頼じゃないです。俺個人の、頼みです」
規則の内側で詰んで、規則の外側の俺のところへ来た。
あの日の保全課と、ちょうど逆だった。
「猪狩さん。中に入らなくても、方法はあります」
「え?」
「第七の換気塔です。地上に三本、立ってるでしょう。北公園のと、資材置き場のと、川沿いの」
「……あの、煙突みたいなやつですか」
「換気系統は全層を貫いてます。九本の柱の音は、ダクトを伝って、必ずどれかの塔に届きます。どの塔でどの柱が聴こえるかは、頭に入ってます」
「それと、これは言うつもりがなかったんですが」
言わないのは、この人に対しては筋が違う気がした。
「崩落の次の日の夜から、毎晩、聴きに行ってます」
猪狩さんは、缶コーヒーを持ったまま、固まった。
「……毎晩?」
「はい」
「あんた、もう、職員でも何でもないのに」
「気になるので」
本当のことなので、それ以上の説明は、持っていなかった。
猪狩さんは口を開けて、閉じて、それから、笑うのと泣くののちょうど中間みたいな顔をした。
「今から行きますか。ちょうど、街が静かになる時間です」
◇
深夜の北公園に、作業服の中年が、二人。
犬の散歩の人が、遠くからこちらを見て、進路を変えた。
無理もない。
換気塔の点検口の蓋を開けて、耳を押し当てる。
金属のダクトを何百メートルも渡ってきた、遠い遠い唸り。
それでも、聴き分けられる。
「猪狩さんも、聴いてみますか」
「……何も聞こえん。いや、ゴーッていうのは聞こえるが」
「そのゴーの中です」
「無理だ」
「十年やれば、聴こえるようになりますよ」
「……十年か」
猪狩さんは、それきり黙って、点検口から一歩下がった。
一番から順に、頭の中で音を仕分けていく。
一本ずつ、丁寧に。
この二晩、並べてきた音に、今夜の音を、重ねる。
「……四番と、七番です。急ぐのは。四番が先。残りの三本のズレは、春まで保ちます」
「四番と七番。四番が先。……それ、上にどう説明すれば」
「勘、とでも」
「あんたの勘が勘じゃないことは、もう市内の全員が知ってますよ」
猪狩さんは、乾いた笑い声を立てて、手帳に書きつけた。
書きながら、独り言のように言った。
「……国の調査団より先に、答えが出ちまったな」
出したのは俺ではなく、十年ぶんの耳だ、と思ったが、言わなかった。
俺はもう一度、点検口に耳を戻した。
一つだけ、猪狩さんに言わなかったことがある。
この二晩、四番の音の底に、聴き覚えのある癖が、薄く見え隠れしていた。
気のせいであってくれ、と思っていた。
今夜は、はっきり聴こえる。
半音低い、だけじゃない。
第三柱が、最後の八日間で鳴らしていたのと、同じ種類の、歪み。
まだ、ずっと浅い。
でも、同じ音だ。
——なんで、お前もなんだ。
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