第10話 【閑話】受付嬢は知っている
――鶴見奏視点
受付の仕事は、数えることだ。
入った人を数えて、出た人を数えて、届いた書類を数えて、受け取った記録を綴じる。
十年やっていると、数えたものの癖まで、覚えてしまう。
提出物を出すときの、手つき。
判子の押し方。
書類を揃えるとき、机で角を叩くか、叩かないか。
受付は、人がいちばん素になる場所だ。
誰も、受付を見ていると思っていないから。
◇
崩落から三日、公社は上を下への大騒ぎのままだ。
国の調査団、報道、保険会社、探索者ギルド。
受付には一日中、誰かが詰めかけている。
質問は、だいたい同じだ。
あの人は、今どこにいるのか。
連絡先を教えてほしい。
教えられません、と答えるのが、今週の私の主な仕事になっている。
今日は報道の人に、あの日の場内放送は誰が流したのかと聞かれた。
放送室の職員です、と答えた。
放送の原稿を書き取って、放送室まで走って届けたのが誰かは、聞かれなかったので、答えなかった。
受付は、放送設備に一番近い。
あの人に言ったとおりのことを、しただけだ。
私が出した進言の顛末書の話は、崩落の日を境に、誰もしなくなった。
処理されたのか、忘れられたのか、教えてくれる人はいない。
契約更新の面談だけが、来月の日付のまま、手帳に残っている。
宙ぶらりんというのは、案外、落ち着かないものだ。
それでも、後悔は一度もしていない。
指を三本立てた人の側に付いた自分を、私はたぶん、一生ほめる。
昨日は、名刺を三十枚受け取った。
全部、日誌の袋に入れてある。
いつか本人が要ると言ったら、渡せるように。
◇
私は、灰田誠という人を、ほとんど知らない。
好きな食べ物も、住んでいる町も、休みの日に何をしているのかも。
十年、ほとんど毎日顔を見ていたのに、知っているのは「お疲れさまです」の言い方くらいだ。
でも、この公社の誰よりもよく知っていることが、一つだけある。
あの人の、記録だ。
巡回記録の提出は、毎日、十七時四十二分。
十年間、一分もずれなかった。
最初は、時報か何かで合わせているのかと思っていた。
違った。
巡回の順路と、歩く速さが、一分もずれていないのだ。
一度、第二昇降機の更新工事で、順路が変わった月があった。
その月だけ、提出は十七時四十五分になった。
翌月、順路が戻ったら、四十二分に戻った。
その月のあいだ、十七時四十五分は、一日もずれなかった。
狂う時さえ、狂い方が毎日同じだった。
時計ではなく、足で書かれた時刻なのだ。
記録の字は、小さくて、四角い。
疲れている日も、雨の日も、字の大きさが変わらない。
台風で午前閉場になった日も、記録は十七時四十二分に出た。
閉場で巡回が半分になった日は、報告も半分の行数で出た。
書くことを、盛らない人なのだ。
一度だけ、記録に感嘆符がついていたことがある。
五年前の夏だ。
「第二昇降機、主索交換。作業完了!」
次の日には、いつもの句点に戻っていた。
何がそんなに嬉しかったのかは、今も分からない。
私はその一枚だけ、綴りの中で、こっそり覚えている。
もう一つ、覚えていることがある。
記録の隅に、たまに、小さな図が描いてあった。
配管の枝分かれや、階段の断面。
図面を見ればいいのに、と思っていたけれど、あの人は図面を、いちいち開かなかった。
頭の中のほうが、たぶん、正確だったからだ。
崩落の日の「図面にない部屋」の話を聞いたとき、私は真っ先に、あの小さな図を思い出した。
綴りは、一年で三センチの厚さになる。
十年で、三十センチ。
受付で一年預かったあと、綴りは書庫に移る。
書庫で、九年。
今年の春、その三十センチを、査定部がまとめて取り寄せていった。
貸出台帳に、受け渡しをした私の判子が残っている。
あのときは、何の取り寄せかも知らずに、判を押した。
十年で、あの人が休んだのは、四日。
その四日分の記録も、翌日、まとめて提出された。
提出は、翌日の十七時四十二分だった。
休んだ日のぶんまで、時刻はずらさない人なのだ。
休んだ日の分まで書くことがあるのかと思って、一度だけ、中を見た。
「換気系統の音、乱れなし(自宅療養中につき、川沿いの換気塔にて確認)」
有給の届けには、「私用」とだけ書いてあった。
私用の中身が煙突なのは、たぶん、あの人だけだと思う。
熱を出して寝込んでいる日に、川まで歩いて、煙突の音を聴きに行っていた。
私はそのとき、この人は少しおかしいのだと思った。
今は、みんなが知っている。
あの崩落の日、受付のスピーカーから流れてくる無線を、私はカウンターを握って聞いていた。
北三番隔壁、赤いハンドル、左に十八回転。
十回転目で固くなるが、壊れていない。
淀みなく流れてくる指示を書き取って、放送の原稿にして、私は放送室へ走った。
走りながら、思っていた。
——ああ、あの十七時四十二分が、いま、百三十五人を歩かせている。
放送室から受付へ戻る廊下で、私は一度だけ、壁に手をついて息を整えた。
受付に戻ったら、いつもの顔で座った。
受付が慌てたら、みんなが慌てる。
それも、あの記録から教わったことだ。
慌てている字を、十年で一度も、見たことがないから。
◇
昨日の夜、残業で、査定部のフロアに決裁の綴りを届けに行った。
フロアには、皆木部長が一人だけ残っていた。
部長は、私に気づかなかった。
机の上に、一冊の綴りが開いてあった。
遠目にも、分かった。
あの、小さくて四角い字。
灰田さんの、点検報告の綴りだった。
春に、私の判子で貸し出した、あの三十センチのうちの一冊。
部長はそれを、しばらく眺めて、閉じて、それから机の一番下の引き出しを開けて、奥のほうへ、しまい込んだ。
書類の山の、一番下に。
鍵の、回る音がした。
夜のフロアは静まり返っていて、小さな音ほど、遠くまで届いた。
フロアの時計は、二十二時を指していた。
十七時四十二分に判を押し続けた人の綴りが、残業の引き出しに沈む時間だった。
私は、声をかけなかった。
届け物を無言で棚に置いて、受付に戻って、日誌を開いた。
日付と、見たこと。
それだけを書いた。
灰田さんの話を最初に書き留めたのと、同じ日誌の、少し先のページに。
ページの間が、五日しか空いていないことに、書いてから気づいた。
世界がひっくり返るのには、一週間も要らないらしい。
◇
私は、計器のことは分からない。
柱のことも、共振のことも、分からない。
ただ、記録のことなら、分かる。
記録は、書いた人間を裏切らない。
十年分の十七時四十二分が、あの日、百三十五人を歩かせたように。
だから、いつか、あの引き出しの綴りが要る日が来たら。
私は、貸出台帳の判子の日付と、昨日見たことを、言える。
それが受付の仕事だと教えてくれたのは、あの人だ。
本人は、教えたことも、知らないだろうけれど。
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