第7話 「音がしてたでしょう、ずっと」
「第九層の北に、旧ポンプ室があります」
無線に向かって、頭の中の図面を読み上げた。
「十五年前に排水系統を切り替えたとき、部屋ごと今の図面から消されました。前任の記録に、経緯が残っています。消しただけで、部屋は潰していません。今の図面に載っていない空間は、あそこだけです。北通路の突き当たり、配管の点検口から、人が入れます」
『図面にない部屋——B班、向かえ!』
無線が沈黙して、八分。
長い八分だった。
無線の向こうでは、瓦礫を踏む音と、荒い息だけが続いていた。
ゲート前の全員が、詰所の外壁のスピーカーを見上げていた。
誰も、しゃべらなかった。
数取器を握っていた右手の親指が、まだ勝手にボタンを探していた。
『——いた! 二人! 生きてる! 点検口の中だ、崩落のとき咄嗟に潜り込んだって——生きてます!』
ゲート前のボードに、正の字の最後の二画が足された。
百三十五。
歓声で、地面が揺れた。
今日二度目の揺れは、いい揺れだった。
知らない人同士が、肩を叩き合っていた。
上履きを抱えていた母親が、その場にしゃがみ込むのが見えた。
抱えていた上履きは、抱えたままだった。
友人の名前を指でなぞっていた若い男は、ボードに背を向けて、空を見上げていた。
肩が、上下していた。
ボードに最後の二画を書き足した職員は、ペンを持ったまま、しばらく動かなかった。
西の空は赤かったが、日は、まだ落ちきっていなかった。
期限の前に、数はそろった。
『全員生還』の主任の声は、無線ではなく、ゲート前の生の空気で聞いた。
◇
夜になった。
救急車が最後の一台まで出ていって、ゲート前には、毛布にくるまった人たちと、報道の照明と、まだ帰れない野次馬が残った。
生還者の名簿を読み上げる声が、拡声器で夜空に流れていた。
名前が一つ読まれるたびに、どこかで返事があった。
毛布の人たちは、互いの無事を確かめ合っては、泣いたり、笑ったりしていた。
さっきまで正の字だった百三十五が、一人ずつの顔に戻っていく。
指先が、まだ受話器の形を覚えていた。
俺は詰所の壁にもたれて、座り込んでいた。
立とうとしたら、膝が笑って立てなかった。
六時間しゃべり続けた喉が、砂みたいになっていた。
誰かが、温かい缶のお茶を、黙って手に握らせてくれた。
蓋を開ける握力が、残っていなかった。
開けてもらった。
一口飲んだら、六時間ぶんの声の残りが、喉の奥で溶けた。
甘かった。
普段なら甘すぎると思う甘さが、今夜は、ちょうどよかった。
毛布の列の端で、朝ルカさんと話していた大柄な探索者が、こちらに小さく頭を下げるのが見えた。
「灰田さん!」
主任が、駆け寄ってきた。
その後ろから、救助班の人たちが、ぞろぞろとついてくる。
「あんた——あんた、なんで」
主任は、目が赤かった。
「なんで、今日崩れるって分かったんだ。なんで朝から、あそこに立ってたんだ」
後ろの救助班の人たちも、同じ顔で俺を見ていた。
六時間、声だけを聞いていた男の顔を、確かめに来た人たちだった。
なんで、と言われても。
俺は、少し不思議に思いながら、答えた。
「……音が、してたでしょう。ずっと」
騒がしかったゲート前が、すう、と静かになった。
誰も、何も言わなかった。
報道の照明だけが、じりじりと鳴っていた。
俺は質問したつもりだったので、誰かが「ああ、あの音か」と言うのを待った。
誰も、言わなかった。
「聞こえてたって……何がです」
救助班の班長さんが、恐るおそる、という感じで聞いた。
だから、事実を順番に言った。
「四日前に、初めて気づきました。そのときにはもう、第三柱の唸りが半音下がっていました。そこから毎日、下がり続けました。昨日の夜に、うねりが混ざりました。共振です。共振している柱は、揺れが止まった瞬間に、支持部が切れています。だから今日の正午前、音が止まったとき、あとは数秒でした」
言い終わって、顔を上げた。
主任も、班長さんも、毛布の人たちも、みんな、ぽかんとしていた。
理解の色が、一つの顔にもなかった。
一番前で聞いていた班長さんだけが、口の中で俺の言葉を繰り返そうとして、途中でやめた。
……ああ、そうか。
「すみません。説明が、下手で」
俺が謝ると、なぜか、誰かが泣き出した。
毛布にくるまった女の子が、隣の母親の袖を握って、声を殺さずに泣いていた。
その泣き声だけが、やけにはっきり聞こえた。
一人が泣くと、あちこちで、堰が切れたように続いた。
大人が、子供みたいに泣いていた。
謝った俺だけが、泣く理由の側に取り残されていた。
主任は、何か言おうとして、何度も失敗して、最後に、掠れた声で一言だけ言った。
「……あんた、ずっと、一人で聴いてたのか」
無線であれだけ通っていた声が、目の前だと、こんなに掠れるのか、と思った。
質問の意味は、よく分からなかった。
聴くのは、一人でするものだ。
だから俺は、たぶん間違ったことを、返した。
「主任さんたちだって、六時間、無線を聴いてたじゃないですか」
主任は、変な音を立てて笑って、それから、両手で顔を覆った。
◇
「おじさん」
人垣の外から、ルカさんが来た。
撮影機を、胸に抱えていた。
抱え方が、なんだか、悪いことをした子供みたいだった。
「ごめんなさい。カメラ、回ってました」
「はあ」
「今の、全部です。おじさんが座り込んでるとこから。音がしてたでしょう、も、説明が下手で、も、全部。……途中で切ろうと思ったんですけど、切れなくて。二万人、見てました」
俺は、詰所の壁と、手の中の缶のお茶を見た。
カメラらしいものは、どこにも見当たらなかったのだから、仕方がない。
二万人。
想像しようとして、やめた。
見当のつかない数字は、考えても仕方がない。
それより、目の前の彼女が、二本の足でちゃんと立っていることのほうが、よほど大事な情報だった。
「怪我は、ないですか」
「……それ、こっちの台詞ですよ」
「別に、まずい話はしてないと思いますけど」
「…………」
ルカさんは、口を開けて、閉じて、それから、あきらめたみたいに半分だけ笑った。
「おじさんって、ほんとに、分かってないんですね」
「何がですか」
「そういうとこです」
彼女は撮影機を抱え直して、深々と頭を下げた。
「浅層にしろって言ってくれて、ありがとうございました。今日の見学の人の中に、私の視聴者さんも、いたんです。……終わったら説明してもらう約束でしたけど、今ので、聞けちゃいました」
「そうですか」
「そうですよ」
彼女は、目元を親指で拭って、笑い直した。
「あと、私の勘、当たりましたね」
「勘?」
「おじさんの勘は、勘じゃないってやつ」
◇
家に帰りついたのが何時だったか、覚えていない。
風呂に入って、泥のように寝た。
枕元で、電源を切り忘れたスマホが、朝まで鳴り続けていたらしい。
◇
――動画投稿サイト、深夜の急上昇一面より
【崩落を4日前から聴いてた】画面端のおじさん、全部答える【第七ダンジョン】
再生数は、三時間で三百万を超え、まだ増え続けている。
一番上に固定されたコメントには、こう書かれていた。
「この人の言葉、一個も盛ってなかった。あとから全部、そのまま事実だった」
最後まで読んでいただきありがとうございます。
続きが気になったら、評価とブックマークで応援いただけると執筆の励みになります!




