第5話 三日目の朝
三日目の朝は、晴れていた。
昨夜は、あまり眠れなかった。
布団の中で、ゲート前の列に向かって叫ぶところを、何度も想像した。
今日、ここは崩れます。
入らないでください。
叫べば、三分で警備が来る。
五分で、俺は敷地の外だ。
それで済めばいいほうで、警察を呼ばれれば、夕方まで戻れない。
この三日で顔見知りになった朝の警備の人に、俺を摘み出す仕事をさせることにもなる。
昨日までの俺は入場券を買う客だが、叫んだ瞬間から、営業妨害の不審者になる。
出入り禁止の不審者は、入口に立てない。
数も数えられず、詰所の無線にも届かない。
崩れなければ笑い話で済むが、崩れたとき、摘み出された男に打てる手は、もう一つも残っていない。
だから、叫ばない。
そう決めるのに、朝までかかった。
叫ぶ代わりに、やることを決めた。
一つ。
中に入った人の数を、外から数える。
崩れたとき、最初に要るのは、重機でも薬でもなく、中に何人いるかの数字だ。
十年前に読んだ、南雲さんの記録の余白に、そう書いてあった。
数字のない救助は、終わりのない救助になる、と。
二つ。
ルカさんに会えたら、今日の配信を浅層に寄せてもらう。
三つ。
崩れたら、詰所の外壁の非常用無線に走る。
格納箱の鍵の番号は、十年、変わっていない。
変わっていないはずだ、と言い直す。
確かめる手段は、もうない。
外側の人間の計画は、こういう「はずだ」の継ぎ接ぎでできている。
それだけだ。
それだけを、順番に何度も唱えながら、始発で来た。
始発の車内は、空いていた。
向かいの席で、作業服の男が二人、眠っていた。
どこかの現場の、朝番だろう。
今日の俺も、傍から見れば、ただの作業服の男だ。
持ち場が、書類のどこにも載っていないだけで。
開場の一時間前に、ゲートの前に着いた。
今日は、券売機のボタンを押さなかった。
代わりに、ポケットから数取器を出した。
百円の店で昨日買った、銀色の、親指で押すやつだ。
百円の道具が、今日の俺の、全装備だった。
探索者用ゲートと、見学者用ゲートの、両方が見える位置に立つ。
目は、見学者用に置く。
探索者用は、耳で数える。
資格証をかざすたび、読み取り機が短く鳴る。
十年、毎朝聞いていた音だ。
内側の手は、全部塞がれた。
窓口も、保全課も、進言も。
だから今日は、外側から打てる手を、朝から順番に打っていく。
これが、その一つ目だ。
開場のチャイムが鳴った。
探索者の列が動き出す。
一人。
カチ。
二人。
カチ。
親指だけを、動かし続けた。
数えるのは、得意だ。
昇降機の巻き上げの回転も、照明の点滅も、十年数えてきた。
人間は、設備より数えやすい。
一人ずつ、ちゃんと自分の足で歩いて、入っていくから。
◇
九時を過ぎた頃、見覚えのある機材が来た。
「あ、おじさん! 今日は外にいるんだ」
ルカさん——名前は機材に貼ってあったチャンネル名で知った——は、撮影機のランプを点ける前だった。
ちょうどいい。
「すみません。ひとつ、お願いがあります」
「え、なんですか改まって」
「今日の配信、浅層でやってもらえませんか。第三層より上で」
彼女は、まばたきをした。
「……今日、ちょっと深めに行こうと思ってたんですけど。なんでですか」
理由を、どこまで言うべきか。
騒ぎにすれば、彼女の配信に迷惑がかかる。
でも黙って頼むには、頼みの筋が通らない。
迷っていたら、彼女のほうが先に口を開いた。
「おじさん、前に言ってましたよね。まずくならないように聴いてる、って」
「……はい」
「今日は、まずくなるかもしれない日なんですか」
まっすぐ、目を見て聞かれた。
俺は、頷いた。
「そうならないことを願ってます。ただ、浅層なら、何かあっても走って出られます」
ルカさんは撮影機を抱えたまま、少しのあいだ黙っていた。
配信で飯を食っている子だ。
今日ここで起きるかもしれないことは、彼女の商売なら、十年に一度の絵になる。
それでも彼女は、絵の話を、一度もしなかった。
それから、息を吐いた。
「わかった。今日は浅層スペシャルにする」
「助かります」
言えるのは、それだけだった。
肩書のない男の頼みを、彼女は理由も値切らずに、聞いてくれた。
「そのかわり、終わったらちゃんと説明してくださいね。……あと、顔見知りの探索者さんにも、今日は浅層がおすすめだよって言っときます。理由を聞かれたら、勘、って言っとく」
「すみません」
「いいですよ」
彼女はゲートをくぐって、振り向いて、少し笑った。
「おじさんの勘なら。……ほんとは、勘じゃないんでしょうけど」
◇
十時前、ゲートの内側で、ルカさんが大柄な探索者を捕まえて、何か話しているのが見えた。
相手は笑って、手を振って、それでも階段を降りる前に、装備の締め具を一つずつ、確かめ直していた。
ああいう一つ一つが、夕方に効くのかもしれない。
効かないで済むのが、一番いいのだけれど。
カチ。
カチ。
数は、増え続ける。
見学者用ゲートには、日傘の老夫婦が並んでいた。
探索者用ゲートには、昨日も見た若いパーティーが、今日も列の同じあたりにいた。
数えるというのは、顔を見るということでもあった。
数取器の数字が一つ増えるたびに、中にいる人が、一人増える。
当たり前のことを、当たり前のまま、指に覚えさせた。
十時半、雲が出て、日が陰った。
手すりの温度が下がって、指先のうねりが、少しだけ読みやすくなった。
読みやすくなど、なってほしくなかった。
十一時。
数取器の窓の数字は、三百を越えた。
足の裏に、神経を集める。
柱の音は、ここまでは届かない。
でも、揺れは届く。
地面と、ゲートの手すりと、詰所の外壁。
固いものは全部、地の底で柱と繋がっている。
手すりに置いた左手には、朝からずっと、あのうねりが伝わってきていた。
ウワァン、ウワァン。
昨夜より、間隔が短い。
十一時半。
カチ。
三百五十八。
うねりの間隔が、さらに詰まる。
波と波が、くっつき始めている。
正午前。
カチ。
三百八十六。
手すりの中で、うねりが——
止まった。
一拍。
風の音しか、しなくなった。
十年間、聴いたことのない静けさだった。
来る。
地面が、突き上げた。
轟音は、その後から来た。
地の底で、何万トンかの岩が一斉に椅子から立ち上がったような音が、ゲートの外まで転がり出て、悲鳴と、警報と、砂煙が続いた。
数取器を、ポケットにねじ込んだ。
三百八十六。
俺は、詰所の外壁の非常用無線に走った。
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