第40話 出張、決まる
木曜の午後、所長が保全室に来た。
紙を一枚、持っていた。
「灰田君。国から、正式に来た」
紙には、全国の結界柱の点検に関する委嘱、と書いてあった。
期間は当面のあいだで、行き先はそのつど協議とあった。
役所の紙は、決まっていないことを決まっていないまま書ける書き方をする。
「受けるとして、うちの籍はどうなりますか」
「保全室長のまま出す。公社としては、貸し出す形にしたい」
「分かりました」
「それでな」
所長が咳払いをした。
この咳払いには聞き覚えがあった。
公社が頭を下げに来た日と、保全室ができた日に、同じ音がした。
「肩書が要るんだ」
「保全室長ではいけませんか」
「よその県の柱を見に行くのに、うちの室長の名刺では通らん。国の委嘱の肩書が要るんです」
所長は最後だけ敬語になった。
「……鍵は、もう持ってます」
俺は言った。
閉場後の第四に入るための権限のことで、あれで市内の柱には全部届く。
「全国の鍵です」
所長が言った。
言われてみれば、そのとおりだった。
隣の県の通用口は、俺の室長証では開かない。
「では、いただきます」
肩書の紙が三枚になった。
三枚とも、俺が頼んだものではない。
一枚目は生還者と視聴者と火村が押し出したもので、二枚目は書式が要ると誰かが言い出したものだ。
三枚目は、たぶん、四十七という数が要求したものだった。
◇
金曜の夕方、保全室に三人が来た。
猪狩さんと、瀬川さんと、大久保さんだった。
三人が同じ部屋にいるのを見るのは、初めてだった。
瀬川さんは第九から、大久保さんは第四から、わざわざ出てきていた。
猪狩さんは作業着のままで、瀬川さんは赤鉛筆を耳に挟んだままで、大久保さんだけが上着を着ていた。
「灰田さん、これ」
猪狩さんが、机に紙を置いた。
置かれたのは、手書きの表だった。
縦に曜日、横に三つの基。
日曜から土曜まで、全部の欄が埋まっていた。
手書きで、罫線は定規で引いてあった。
消しゴムで直した跡が、二か所あった。
第七の欄には猪狩さん、第九には瀬川さん、第四には大久保さんの名前が入っていた。
「夜の順路の、当番表です」
「……当番表」
「あんたが留守のあいだ、市内が空きます」
猪狩さんは、いつもの声で続けた。
「空けるわけにはいかんでしょう」
言い方が、規則の話をするときの言い方だった。
この人は、規則の内側で人を助ける人だ。
大久保さんが横から言った。
「うちの二番は、俺が鼻ついでに耳も出します」
「聴こえないと言ってませんでしたか」
「聴こえん。聴こえんが、変わったかどうかは分かる。あんたが毎晩やってたのは、それでしょう」
そのとおりだった。
毎晩やっているのは、変わったかどうかを見ることだ。
昨日と同じなら、書くことは一行で済む。
違っていたら、そこから先が仕事になる。
瀬川さんが、自分の欄を指で押さえた。
「六番は、もう心配ないです。十一番のほうを、朝の窓で取ります。灰田さんと同じ時間に」
「同じ時間でなくても」
「同じ時間のほうが、比べられるので」
赤鉛筆が耳に挟まっていた。
五年前に痛い目を見た人が、朝の窓を毎日取ると言っていた。
俺は表をもう一度見て、欄の作りに見覚えがあることに気づいた。
下がり幅の欄。
濁りの欄。
速さの欄。
備考の欄が、いちばん下にある。
様式第一号と、同じ並びだった。
備考の欄の下に、小さい字で一行あった。
『推測を書くときは、推測と書きます』
「これ、誰が作りました」
「三人で作りました」
猪狩さんが答えた。
「様式に合わせたほうが、あんたが帰ってきたときに読みやすいでしょう」
俺は、誰にもこの表の作り方を教えていない。
教えていないのに、書式だけが先に三つの基へ届いていた。
何か言おうとして、言葉が出てこなかった。
三人ぶんの礼を一度に言えばいいのか、一人ずつ言うのか、それすら分からなかった。
口を開けて、閉じた。
「市内は、俺たちが聴いときます」
猪狩さんが言った。
初めて保全課に相談に行った日、数値がないから憶測になると言った人と同じ声だった。
俺は頭を下げた。
それから表を折って、胸のポケットに入れた。
「大事にしまうものじゃないですよ、それ」
大久保さんが笑った。
「毎週、送りますから」
◇
日曜の夕方、受付に寄った。
出張の届けを出すためだった。
鶴見さんは書類を受け取って判子を押してから、引き出しを開けて厚い封筒を机の上に置いた。
「これ、灰田さんのです」
「何ですか」
「名刺です。全部、灰田さん宛てにいただいたものです」
封筒は、思ったより重かった。
「崩落のあとから、受付でお預かりした分です。四十六枚あります」
「四十六」
「三十枚までは、崩落のすぐあとの分です。あとの十六枚は、検証のあとに増えた分です」
二週間で十六枚。
「なぜ、取っておいてくれたんですか」
「いつか要ると言われたら、渡せるようにと思って」
鶴見さんは、いつもの声で言った。
「よその県に行かれるなら、要ると思います」
封筒の口を開けると、会社の名前が並んでいた。
聞いたことのない会社もあった。
県の名前が入ったものが、数えないでも何枚か見えた。
俺は封筒を閉じて、鞄に入れた。
「ありがとうございます」
「日誌に書いてあります。日付と、誰から、何枚か」
鶴見さんは、もう次の書類を見ていた。
「行ってらっしゃい」
受付の窓は、両方のゲートに向いている。
この窓の中から、十年ぶんの出入りが見えていた人の言葉だった。
◇
その夜、保全室で荷物をまとめた。
秋津さんは、残ることになっていた。
「留守のあいだ、様式の改訂をやっておきます」
「改訂」
「地方の基だと、換気塔がないところが多いです。夜の欄の書き方を、変えないと合いません」
「そこまで」
「翻訳、しておきます」
秋津さんは、自分の言い方でそう言った。
電話が鳴ったのは、荷物の口を閉じかけたときだった。
『おじさん、出張って本当ですか』
「本当です」
『出張先、配信していいですか』
一拍おいた。
考えるふりをしたが、答えは先に決まっていた。
「浅層なら」
『……はい』
「柵の外と、浅層まで。それより下は、映さないでください」
『分かりました』
ルカさんは、それ以上は聞かなかった。
『あの、一個だけ』
「はい」
『線の話、私からも毎回言います。しつこいって言われても言います』
「お願いします」
電話を切ってから、荷物の口を閉じた。
言葉の管理を二人で分けたことになる。
一人で背負うものだと思っていたが、そういうものでもないらしい。
◇
月曜の朝、駅にいた。
始発ではないが、早い時間の列車だった。
綾坂さんが、改札のところで待っていた。
秋津さんが見送りに来て、飲み物を二本買ってきた。
数えるまでもない数だったが、二度確かめてから渡してきた。
「向こうで、ちゃんと寝てくださいね」
「はい」
「あと、書式で困ったら電話してください。直すので」
ホームで胸のポケットの表を出して、もう一度見た。
日曜から土曜まで、名前が埋まっていた。
列車が入ってきた。
市内で三基。
四十七分の三が、今日から四十七分の——
そこまで考えて、やめた。
数えるのは、行ってからでいい。
順路が少し伸びるだけだ。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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