第39話 全国四十七基の健康診断
月曜の夕方、綾坂さんが段取りの紙を持ってきた。
一枚に、行き先と時間と、先方の担当者の名前が書いてあった。
「まず一基、行ってみましょう。隣の県です」
「どこを選んだんですか」
「近くて、中くらいで、柱では何も起きていない基です」
理由が三つとも意外だったので、顔に出たらしい。
「悪いところから行くのが普通だと思われましたか」
「はい」
「悪いところは、こちらが探すまでもなく報告が上がってきます」
綾坂さんは紙の端をそろえた。
「柱の報告が上がってこない基が、四十七のうち、いくつあるかを知りたいので」
報告が上がってこない理由は、二つしかない。
何もないか、誰も聴いていないかだ。
◇
翌朝の始発に乗った。
秋津さんは駅の売店で、行きの飲み物を三人ぶん買った。
「灰田さん、麦茶でいいですか」
「はい」
「綾坂さんは、お茶と、水と、コーヒーだと、どれです」
「水を」
秋津さんは三本を並べてから、一本ずつ袋に入れた。
電車で一時間半、そこからバスで二十分かかった。
車内で、綾坂さんは先方の資料を読み、秋津さんは窓の外を見ていた。
県境を越えたあたりから、田んぼの色が濃くなった。
第二十三ダンジョンは、県の名前と同じ駅から少し離れた丘の下にあった。
建物は市内のどれよりも新しく、そして小さかった。
第七の管理棟のように継ぎ足した跡がなく、最初に建てたままの形をしていた。
看板の字も、まだ日に焼けていなかった。
入口で待っていた地元の保全班は五人。
班長さんは五十代に見えた。
人の齢の見立てがあてにならないことは、先週知ったばかりだが。
全員、作業服の襟がまっすぐだった。
◇
事務室に通されて、湯呑みが出た。
湯呑みは五人ぶんと客の三人ぶんで、柄が全部違った。
自分の湯呑みを職場に持ってきている職場だ。
出された茶は、湯の温度が低めだった。
熱すぎると飲めない人がいるからだと思う。
「灰田さんに来ていただくような、大したものはうちにはないんですが」
班長さんの手が、湯呑みの縁を何度も撫でていた。
前日の夜に何を思ったのか、想像がついた。
十年、俺は査定の前の日に同じことを考えていた。
何もありませんでした、と言うために一年ぶん歩いてきて、それをどう言えばいいのか分からない。
この人は昨日の夜、たぶんそれを考えていた。
「一巡、させてください」
俺は言った。
「順番は、こちらの巡回の順でお願いします。いつもと同じ順で歩けると、こちらも助かります」
班長さんの肩が下りた。
◇
七本を、二時間半かけて一巡した。
搬入口の扉が一つだけ建て付けが悪く、開けるときに下から持ち上げる必要があった。
班長さんは何も言わずに持ち上げ、俺が通ってから、また同じ手つきで閉めた。
毎日その扉を開けている人の手つきだった。
一番から順に基部で足を止めて、目を閉じた。
一本目。
下がり幅、なし。
濁り、なし。
速さの欄も、書くことがない。
二本目も同じだった。
三本目も同じだった。
書くことがない、という記録が三枚続くのは、俺にも久しぶりだった。
第七の九本でさえ、いまは四番の欄が埋まる。
四本目の前で、班長さんが小さい声で言った。
「四番だけ、去年から音が大きい気がしてまして」
聴いた。
大きいのは送風機のほうだ。
「柱ではないです。上の送風の羽根が一枚、当たりかけてます」
班長さんが天井を見上げた。
「……それ、去年から気になってたやつだ」
「柱は、なんともないです」
班長さんが、天井から俺のほうへ視線を戻した。
見つけてもらったのに柱ではなかった、という顔と、柱ではなくてよかった、という顔が、順番に出た。
保全班の一人が、その場で手帳に書いていた。
送風機、と書いたのだと思う。
書いた人は、いちばん若い人だった。
五本目、六本目、七本目。
どれも、書くことがなかった。
七本とも同じ年に建って、同じだけ古い。
古いまま、どれも普通に鳴っていた。
◇
戻る途中で、浅層の入口の脇を通った。
通路の窓から、探索者が四人ばかり見えた。
若い人たちが、慣れた足取りで奥へ歩いていった。
その先で、床のあたりが一度ざわついた。
湧きだった。
一人が振り向きもせずに片手で処理して、それから会話に戻った。
会話は途切れていなかった。
秋津さんが窓に近づいた。
「あれ、危なくないんですか」
「危なくないです」
見ていて、そう思った。
「湧きは、あのくらいで、あの間隔なら、普通です」
綾坂さんが手帳を開いた。
「うちで危なくなるときは、もっと数が寄ります。音が一か所に集まります」
言ってから、窓の外をもう一度見た。
散らばったまま、湧いて、消えていく。
数が寄らないので、音も寄らない。
この基の下では、柱が痛がっていないということだ。
「健全な柱の下では、湧きも、こういう顔をしています」
綾坂さんは、それを書いた。
秋津さんは書かずに、しばらく窓の外を見ていた。
◇
事務室に戻った。
五人が並んで立っていた。
俺は七枚の様式を机に置いた。
「異常なし、です」
班長さんが息を吸って、それから吐いた。
吐くほうが長かった。
後ろの若い人が、隣の人の腕を軽く叩いていた。
「……それだけ、ですか」
班長さんが聞いた。
聞き方が寂しそうだった。
来てもらったのに何もなかった、という顔だった。
「それが、一番いい言葉です」
俺は言った。
「悪いところが見つかった日は、そこから何日で直すかの話になります。今日は、その話がありません」
「はい」
「あと、四番の送風はお願いします。柱ではないですが、放っておくと羽根が一枚では済みません」
班長さんが笑った。
笑ってから、目のふちを指で押さえた。
見なかったことにした。
◇
帰りの駅で、秋津さんが駅弁を買った。
「三つでいいですよね。……三つですよね」
秋津さんは棚の前で二度数えてから、三つ持ってきた。
車内で、綾坂さんは食べる前に手帳を開いた。
秋津さんは駅弁の掛け紙を丁寧に外して、畳んで鞄に入れた。
何かを集めているのかもしれない。
俺も手帳を出して、今日のぶんを書いた。
七本、健全。
始点の欄、全部空欄。
何も書いていない紙が、七枚。
いつか、この空欄が何かの役に立つのかどうかは分からない。
分からないので、そのまま書いておいた。
窓の外が暗くなり始めていた。
綾坂さんが、水の蓋を開けながら言った。
「残り、四十六基です」
数えていたらしい。
四十七から一を引いた人の言い方だ。
「灰田さん」
「はい」
「……回りきるのに、体はひとつですよ」
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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