第38話 国が数えた事故の数
茶封筒の中身は二つに分かれていた。
厚いほうが表で、薄いほうが集計だった。
夜のうちに一度、通して見た。
見るだけなら二時間で足りると思っていたが、朝の四時までかかった。
指が黒くなった。
役所の印刷はこすると指につく紙を使うらしい。
台所で二度洗っても、爪のふちに残った。
金曜の朝、綾坂さんは十時ちょうどに来た。
「読まれましたか」
「読みました」
「感想の前に、こちらから一つだけ確認させてください」
秋津さんが、綾坂さんの椅子を出してから、部屋の隅の自分の席に戻った。
綾坂さんは表の束をめくって、あるページを開いて机に置いた。
「この行を見てください」
◇
表は、基ごとに三十年分が縦に並んでいた。
横が年で、縦が施設だった。
数字は、設備が原因で人が死んだ事故の件数だった。
柱だけでは、なかった。
昇降機も、搬送設備も、換気も、給水も入っていた。
柱が原因のものには、右端に印がついていた。
三十年で、印のついた行は三十一件あった。
数えるのに二度かかった。
一度目と二度目で数が合わなかったので、三度目に印だけを指で追った。
掲示板の人たちが公開情報から拾った二十四件より、七件多い。
多い七件はどれも古い年に固まっていた。
公開の記録が、電子化される前の年だった。
「あちらの二十四件は、正確です」
綾坂さんは俺の指の先を見ながら言った。
「拾える範囲を、全部拾っておられます。私が言った載っていないものは、拾えなかったもののほうです」
「紙のままの年ですか」
「はい。倉庫にあります」
倉庫、という言葉が、その日いちばん重く聞こえた。
紙のまま眠っている事故が、どこかの棚にある。
◇
綾坂さんが開いたページは、市内の三基が並んだところだった。
第四の行に、二十六年ぶんの数字が並んでいた。
第九の行にも、数字が入っていた。
どちらも、多い数ではなかった。
三十年でいくつか、という並びだった。
その下に、第七の行があった。
直近の十年が、全部ゼロだった。
指で、その行をなぞった。
左から右へ、十個のゼロを順番に触っていった。
紙のわずかな凹凸で、印刷の位置が指に分かった。
触ってみるまで、数字に手ざわりがあるとは思っていなかった。
ゼロというのは、印刷すると小さい。
十年、俺はこの十個を作るために毎朝歩いていた。
正確には、作っていた自覚はない。
何も起きなかった日を、十年ぶん並べただけだ。
だが、この紙の上では、それは十個の数字になっていた。
「十年連続のゼロは、四十七基で、ここだけです」
綾坂さんの声が遠くに聞こえた。
「統計をやっていると、こういう点は普通、疑います。報告漏れか、集計の誤りか」
「調べたんですね」
「調べました。それで、あなたに会いに行きました」
初めて会った日の話だった。
「起きなかった事故は、誰にも数えられません」
俺は言った。
査定の席で言われたことの、こちらの言い分だった。
十年、この言い分は誰にも通らなかった。
「数えられていましたよ」
綾坂さんは、表を指で軽く叩いた。
「起きなかったほうを、この紙は数えています。ゼロという形で」
そこで、何を言えばいいのか分からなくなった。
「……ありがとうございます」
出てきたのは、それだった。
礼を言う場面ではなかったかもしれない。
綾坂さんは、それには何も返さなかった。
表のページを、静かに一枚戻しただけだった。
◇
薄いほうの束は、率の集計だった。
年ごとに、全国の施設数で割った数字が並んでいた。
前のほうのページは、上下しながら、ゆっくり下がっていた。
安全になってきた三十年だ。
設備は良くなり、規制は増え、人は慎重になっていく。
最後の五年で、線が向きを変えていた。
大きくはない。
三十年の振れ幅から見れば、誤差だと言われれば、そうかもしれない程度だった。
それでも、五年続けて同じ向きに動いていた。
「上がってますね」
「上がっています」
綾坂さんは、そこだけ声の調子を変えなかった。
「設備の高齢化、でしょうか」
俺は聞いた。
三十年やってきた大久保さんの言い方を借りただけだ。
「その説明が、いまのところ一番よく当たります」
綾坂さんはページを繰った。
「柱は、全国ほぼ同い年ですから」
同い年、という言い方で、なるほどと思った。
同じ年に作られたものは、同じ頃に古くなる。
第四の二番も、第九の十一番も、うちの四番も、みんな古い。
そこまでだった。
古いものが古くなっている、という話は、俺の仕事の外にはならない。
俺は、目の前の柱を一本ずつ聴くだけだ。
綾坂さんもページを戻して、話は次に移った。
古い設備の話は、この国のどこでも同じようにされている話だ。
◇
もう一度、表の作りを見直した。
読んでいて、朝方から気になっていたことがあった。
「一つ、いいですか」
「どうぞ」
「事故の欄はあるのに、直した記録の欄がないですね」
綾坂さんの手が止まった。
「この表だと、先月うちが四番の支持部を替えたことは、どこにも残りません。第九の六番を十一日で直したことも、載る欄がありません」
「……ありません」
「事故が起きなければ、何もなかったのと同じ形になります」
綾坂さんは、しばらく表を見ていた。
それから、はっきりした言い方で答えた。
「国は、直った話を数えてこなかったので」
謝る言い方ではなかった。
事実を言う言い方だった。
「数える理由がなかったんだと思います。予算は、起きたことに付きますから」
「はい」
「起きなかったことに予算をつけるには、起きなかったことを数える仕組みが要ります。仕組みがないので、数えていません」
順番が逆になっている話だ。
数えないから仕組みがなく、仕組みがないから数えない。
十年、俺の査定がゼロだった理由も、たぶん同じところにあった。
◇
こちらからも紙を出した。
保全室で作った、市内二十七本の一覧だった。
歪み型の三本の、音が下がり始めた週を揃えて並べてあった。
「これは、うちで取った記録です。数え方の説明を、二枚目につけました」
綾坂さんは一枚目を見て、二枚目を見て、それからもう一度一枚目に戻った。
戻り方が、昨日ペンを構え直したときと同じ速さだった。
「持ち帰ります」
「はい」
「これは、こちらの表には載らない形の紙です。載る場所を、こちらで作ります」
秋津さんが、ノートに何か書いた。
書いてから、こちらを見ずに小さくうなずいた。
たぶん、載る場所を作る、と書いたのだと思う。
綾坂さんは茶封筒に自分の束をしまって、うちの紙は別の封筒に入れた。
それから、椅子を戻す前に言った。
「灰田さん」
「はい」
「四十七基、全部聴いてもらうことは、できますか」
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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