第37話 管理局の綾坂です
木曜の十時ちょうどに、その人は保全室へ来た。
前の二回と同じ灰色の上着で、同じ黒い手帳を持っていた。
違っていたのは、名刺を先に出したことだった。
「管理局の、綾坂です」
思っていたより、ずいぶん若い声だった。
前に会ったとき、俺はこの人を四十代の半ばだと思っていた。
名刺の字は封書と同じだったが、紙のほうが薄かった。
役所の名刺というのは、どこもこういう紙を使うものらしい。
「先日は、あなたを疑って来ました」
椅子に座る前に、そう言った。
「疑うのが仕事なので、謝りません」
「はい」
「今日は、確かめが済んだので来ました」
秋津さんが、麦茶を出してから部屋を出ていこうとした。
「いてもらって構いません」
綾坂さんが言った。
「今日の話は、書式の話が半分です。作った人がいたほうが早い」
秋津さんは、自分の椅子に浅く座り直した。
浅い座り方のままノートを開いて、そこから一時間、姿勢を変えなかった。
◇
「二十六です」
聞いてもいないことを、綾坂さんは先に言った。
「役所に入って四年目です。若いと言われるので、先に言っておきます」
「はい」
二十も外していたことになる。
柱の齢なら、外したことはない。
人のほうは、十年同じ建物で働いている人の下の名前も知らない。
「灰田さんは三十四で、この仕事が十年目ですね」
「そうです」
「私が学生だった年に、あなたはもう毎朝あの音を聴いていたことになります」
そういう数え方をされたのは、初めてだった。
十年が長かったのか短かったのかを、俺は考えたことがない。
綾坂さんは手帳を開いて、ページを何枚かめくった。
めくり方に、迷いがなかった。
「先日、私はこう聞きました。特別な訓練を受けたのか、と」
「はい」
「あなたは、巡回です、と答えました」
「そう答えました」
「あの日は、そこで質問を変えました」
綾坂さんは手帳を持ち替えて、ペンを構え直した。
構え方が、さっきまでと違った。
ペン先が、紙のすぐ上で待っていた。
「今日は、変えません」
「はい」
「巡回の、中身を聞かせてください」
初めて会ったとき、この人は俺の答えを短く切り上げて次の質問へ移った。
今日は、同じ答えの先を聞きに来ていた。
◇
俺は一時間、巡回の話をした。
話しているうちに、自分が何をしているのかを人に説明するのは初めてだと気づいた。
崩落の夜の受け答えでも検証の答案でも、話したのは結果のほうだった。
順路の順番。
止まる場所と、止まらない場所。
朝と夜で聴こえ方が違う理由。
風の日は柵の外からでは駄目で、換気塔まで行くこと。
機械が動いている時間と、止まっている時間の使い分け。
同じ柱でも、月曜と金曜では耳の側の疲れが違うこと。
雨の翌日は、地下の水の音が一段増えること。
夏と冬とで、金物の鳴りが半音ぶん動くこと。
綾坂さんは全部書いた。
途中で三度、ページを繰る音がした。
質問は三回だけ入った。
「その順番でなければ駄目な理由は」
「前の柱の音が、耳に残るからです。残ったまま次を聴くと、比べてしまいます」
「比べてはいけないんですか」
「比べるのは最後です。先に比べると、聴こえるはずの音が聴こえなくなります」
綾坂さんは、それを二行に分けて書いた。
分けたところが、ちょうど俺が息を継いだところだった。
三回目の質問は、少し間があってから来た。
「それは、教えられますか」
秋津さんのペンが止まった。
俺も、すぐには答えられなかった。
秋津さんに順路の順番を教えたときは、書いて渡して一日で済んでいる。
順番を覚えた秋津さんは、いまも濁りが聴こえない。
「順番は、教えられます」
そこまでは、事実だ。
「一日で覚えられます。書けば済みます」
「では、聴くほうは」
「聴くほうは、教えたことがありません」
「教えられない、ではなく」
そこを聞き分ける人だった。
「……はい。教えられない、とは、まだ言えません」
秋津さんに教えようとして詰まった夜のことを、思い出した。
あのときは、言葉がなかったから詰まった。
今日は、言葉はあるのに、事実がまだ足りない。
「試したのが、一人だけなので」
言ってしまってから、これは秋津さんの前で言う話ではなかったと気づいた。
秋津さんは、顔を上げずにノートを書いていた。
背中が、怒ってはいなかった。
綾坂さんは、それをそのまま書いた。
書いてから、顔を上げた。
「いい答えです」
「そうですか」
「分からないことを、分からないと書ける人が、いちばん困ります」
困ります、と言いながら、その人は困った顔をしていなかった。
「困る、というのは」
「制度にするとき、いちばん時間がかかる、という意味です」
◇
麦茶が二杯目になった頃、綾坂さんは手帳を閉じた。
「もう一つ、数えられますか、を聞きに来ました」
「数える、というのは」
「一人の人間が、一年に何本の柱を診られるか。全国に四十七基あって、柱は何百本もあります」
数字の話になった瞬間に、部屋の空気が事務的になった。
事務的な空気は、俺には分かりやすい。
答えの決まっている質問だからだ。
「第七の九本なら、毎晩で回ります。第九と第四を足して、いまが二十七本です」
第九は朝の半速の窓で、第四は閉場後に週二回。
そこまで言うと、綾坂さんは順路の時間まで書き取った。
「二十七本で、いっぱいですか」
「いっぱいです」
即答した。
「これ以上増やすと、たぶん、どれかが雑になります。雑になったことは、雑になった側からは見えません」
綾坂さんはその一行だけを、手帳の別のページに書いた。
さっきまで書いていたページでは、なかった。
別のページに書いた理由は、聞かなかった。
◇
帰り際、綾坂さんは鞄から茶封筒を出して、机の上に置いた。
厚みが、封書の比ではなかった。
書類の束が、指三本ぶんは入っていた。
「国が数えた数字を、見てもらえますか」
「何の数字ですか」
「設備が原因で人が死んだ事故の、この三十年ぶんです」
設備、という言い方だった。
柱、とは言わなかった。
部屋が静かになった。
秋津さんがノートを閉じた音が、やけに大きく響いた。
「掲示板の方々が公開情報から集計されたものは、私も読みました。よくできています」
綾坂さんは、封筒の口を開けずに指で押さえた。
「ですが、あちらに載っていないものが、こちらには載っています」
「……はい」
「明日の朝、もう一度伺います。それまでに、一度だけ通して見てください」
読んだ感想を聞きに来る、とは言わなかった。
見てください、とだけ言う人だった。
その人は椅子を元の位置に戻して、上着の襟を直してから、最後に一言だけ言った。
「あなたの十年が、統計の上でどう見えるか」
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