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ダンジョン点検員、リストラされる。〜「何もしてない」と切られた俺の巡回ルートで、翌週から事故が止まらない〜  作者: 更田遅筋


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第37話 管理局の綾坂です

木曜の十時ちょうどに、その人は保全室へ来た。


前の二回と同じ灰色の上着で、同じ黒い手帳を持っていた。


違っていたのは、名刺を先に出したことだった。


「管理局の、綾坂です」


思っていたより、ずいぶん若い声だった。


前に会ったとき、俺はこの人を四十代の半ばだと思っていた。


名刺の字は封書と同じだったが、紙のほうが薄かった。


役所の名刺というのは、どこもこういう紙を使うものらしい。


「先日は、あなたを疑って来ました」


椅子に座る前に、そう言った。


「疑うのが仕事なので、謝りません」


「はい」


「今日は、確かめが済んだので来ました」


秋津さんが、麦茶を出してから部屋を出ていこうとした。


「いてもらって構いません」


綾坂さんが言った。


「今日の話は、書式の話が半分です。作った人がいたほうが早い」


秋津さんは、自分の椅子に浅く座り直した。


浅い座り方のままノートを開いて、そこから一時間、姿勢を変えなかった。



「二十六です」


聞いてもいないことを、綾坂さんは先に言った。


「役所に入って四年目です。若いと言われるので、先に言っておきます」


「はい」


二十も外していたことになる。


柱の齢なら、外したことはない。


人のほうは、十年同じ建物で働いている人の下の名前も知らない。


「灰田さんは三十四で、この仕事が十年目ですね」


「そうです」


「私が学生だった年に、あなたはもう毎朝あの音を聴いていたことになります」


そういう数え方をされたのは、初めてだった。


十年が長かったのか短かったのかを、俺は考えたことがない。


綾坂さんは手帳を開いて、ページを何枚かめくった。


めくり方に、迷いがなかった。


「先日、私はこう聞きました。特別な訓練を受けたのか、と」


「はい」


「あなたは、巡回です、と答えました」


「そう答えました」


「あの日は、そこで質問を変えました」


綾坂さんは手帳を持ち替えて、ペンを構え直した。


構え方が、さっきまでと違った。


ペン先が、紙のすぐ上で待っていた。


「今日は、変えません」


「はい」


「巡回の、中身を聞かせてください」


初めて会ったとき、この人は俺の答えを短く切り上げて次の質問へ移った。


今日は、同じ答えの先を聞きに来ていた。



俺は一時間、巡回の話をした。


話しているうちに、自分が何をしているのかを人に説明するのは初めてだと気づいた。


崩落の夜の受け答えでも検証の答案でも、話したのは結果のほうだった。


順路の順番。


止まる場所と、止まらない場所。


朝と夜で聴こえ方が違う理由。


風の日は柵の外からでは駄目で、換気塔まで行くこと。


機械が動いている時間と、止まっている時間の使い分け。


同じ柱でも、月曜と金曜では耳の側の疲れが違うこと。


雨の翌日は、地下の水の音が一段増えること。


夏と冬とで、金物の鳴りが半音ぶん動くこと。


綾坂さんは全部書いた。


途中で三度、ページを繰る音がした。


質問は三回だけ入った。


「その順番でなければ駄目な理由は」


「前の柱の音が、耳に残るからです。残ったまま次を聴くと、比べてしまいます」


「比べてはいけないんですか」


「比べるのは最後です。先に比べると、聴こえるはずの音が聴こえなくなります」


綾坂さんは、それを二行に分けて書いた。


分けたところが、ちょうど俺が息を継いだところだった。


三回目の質問は、少し間があってから来た。


「それは、教えられますか」


秋津さんのペンが止まった。


俺も、すぐには答えられなかった。


秋津さんに順路の順番を教えたときは、書いて渡して一日で済んでいる。


順番を覚えた秋津さんは、いまも濁りが聴こえない。


「順番は、教えられます」


そこまでは、事実だ。


「一日で覚えられます。書けば済みます」


「では、聴くほうは」


「聴くほうは、教えたことがありません」


「教えられない、ではなく」


そこを聞き分ける人だった。


「……はい。教えられない、とは、まだ言えません」


秋津さんに教えようとして詰まった夜のことを、思い出した。


あのときは、言葉がなかったから詰まった。


今日は、言葉はあるのに、事実がまだ足りない。


「試したのが、一人だけなので」


言ってしまってから、これは秋津さんの前で言う話ではなかったと気づいた。


秋津さんは、顔を上げずにノートを書いていた。


背中が、怒ってはいなかった。


綾坂さんは、それをそのまま書いた。


書いてから、顔を上げた。


「いい答えです」


「そうですか」


「分からないことを、分からないと書ける人が、いちばん困ります」


困ります、と言いながら、その人は困った顔をしていなかった。


「困る、というのは」


「制度にするとき、いちばん時間がかかる、という意味です」



麦茶が二杯目になった頃、綾坂さんは手帳を閉じた。


「もう一つ、数えられますか、を聞きに来ました」


「数える、というのは」


「一人の人間が、一年に何本の柱を診られるか。全国に四十七基あって、柱は何百本もあります」


数字の話になった瞬間に、部屋の空気が事務的になった。


事務的な空気は、俺には分かりやすい。


答えの決まっている質問だからだ。


「第七の九本なら、毎晩で回ります。第九と第四を足して、いまが二十七本です」


第九は朝の半速の窓で、第四は閉場後に週二回。


そこまで言うと、綾坂さんは順路の時間まで書き取った。


「二十七本で、いっぱいですか」


「いっぱいです」


即答した。


「これ以上増やすと、たぶん、どれかが雑になります。雑になったことは、雑になった側からは見えません」


綾坂さんはその一行だけを、手帳の別のページに書いた。


さっきまで書いていたページでは、なかった。


別のページに書いた理由は、聞かなかった。



帰り際、綾坂さんは鞄から茶封筒を出して、机の上に置いた。


厚みが、封書の比ではなかった。


書類の束が、指三本ぶんは入っていた。


「国が数えた数字を、見てもらえますか」


「何の数字ですか」


「設備が原因で人が死んだ事故の、この三十年ぶんです」


設備、という言い方だった。


柱、とは言わなかった。


部屋が静かになった。


秋津さんがノートを閉じた音が、やけに大きく響いた。


「掲示板の方々が公開情報から集計されたものは、私も読みました。よくできています」


綾坂さんは、封筒の口を開けずに指で押さえた。


「ですが、あちらに載っていないものが、こちらには載っています」


「……はい」


「明日の朝、もう一度伺います。それまでに、一度だけ通して見てください」


読んだ感想を聞きに来る、とは言わなかった。


見てください、とだけ言う人だった。


その人は椅子を元の位置に戻して、上着の襟を直してから、最後に一言だけ言った。


「あなたの十年が、統計の上でどう見えるか」


最後まで読んでいただきありがとうございます。

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― 新着の感想 ―
そろそろ、誰でもできるって認識がおかしいってのを自覚してもらわんとな
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