第36話 「聴診」と呼ばれ始める
月曜の朝、秋津さんが新聞を持って保全室に入ってきた。
「載ってます」
社会面の下のほうに、検証の記事があった。
写真は答案の写しで、目隠しの俺は隅に小さく写っているだけだった。
記事の中身は正確だった。
録音で止まった三問のことも、書いてあった。
「それと、もう一つあるんですけど」
秋津さんは、自分の湯呑みを置いてから得意そうに続けた。
「昨日の夜から、掲示板で新しい呼び方が回ってるらしいですよ。聴いて診るから、聴診。うまいこと言いますよね」
「診ては、いないんですが」
「そうなんですけど」
「音を聴いてるだけなんですが」
「そうなんですけど」
秋津さんは、二回とも同じ返事をしてから笑った。
「でも便利です。聴音点検って言うと、みんな三回聞き返すので」
たしかにそれはそうだ。
三回で済めばいいほうで、たいていは職業の話がそのまま別の話になった。
十年のあいだ、俺はこの仕事の名前を人に説明できたことがない。
親戚の集まりで職業を聞かれるたびに、三往復かかっていた。
二文字で済むなら、それはそれで楽になる。
◇
――「聴診」という言葉が広がるまでの三日
月曜、夕方のニュースが「聴診」と読み上げた。
まだ、鉤括弧つきの借り物の言い方だった。
火曜、設備業界の専門誌がウェブの記事で使った。
鉤括弧が外れて、見出しの中に地の文として置かれていた。
水曜、公社の内部文書に載った。
決裁の回った文書なので、誰かが承認したということになる。
様式第一号の説明書きの冒頭に、「聴診(聴音点検)による所見の記録様式」と印刷されていた。
括弧の中に入ったのは、こちらのほうだ。
◇
火曜の午後、広報の人が取材の相談に来た。
三社から申し込みがあって、どれも語の由来を聞きたいという内容らしかった。
検証の中身についての質問は、一社も入っていなかった。
「灰田さんとしては、この呼ばれ方はいかがですか」
正直に言えば、しっくりこない。
二文字の座りがよすぎる。
診るというのは直せる人の言い方で、俺は柱を直せない。
濁っているとしか言えないし、それをどう直すかは大久保さんたちの領分だった。
ただ、それを言ったところで、言葉は止まらない。
言葉が止まらないことだけは、この一月で覚えた。
「呼び方は、任せます」
そう言ってから、一つだけ付け足した。
「この言葉も、いつか誰かを線の外に連れて行くかもしれません」
広報の人がペンを止めた。
「聴けば分かる、と聞こえる言葉なので。……注釈ごと広めてください」
「注釈、といいますと」
「聴いても分からないことがある、というほうです」
広報の人は、それを一言一句そのまま書き取った。
書き終えてから読み返して、もう一度うなずいた。
自分の言葉が書き取られていくのを見るのは、いまだに慣れない。
◇
水曜の午前、保全室のドアがノックされた。
ノックをする人は、この部屋では珍しい。
猪狩さんは開けてから名乗るし、火村にいたってはノックという概念がない。
「お久しぶりです」
柏木さんだった。
鞄も上着もネクタイの結び目も、初めて会った日と同じに見えた。
夏の終わりだというのに、上着を脱いでいる気配がなかった。
「第九の件で、伺いました」
「はい」
柏木さんは鞄から封筒を出して、中の書類を机に置いた。
「検証の答案が、公文書として通りましたので」
「通った、というのは」
「公社の決裁文書に、様式第一号の写しが証拠として綴じられました。所見の記録が、そのまま添付書類として成立しています」
紙を一枚めくる音。
「数字が書式で出ました」
そこで、初めて顔を上げた。
「——戻ります」
「早かったですね」
「書式ができるのが、です」
言い方はあの日と同じで、まったく崩れていなかった。
「引受を再開します。第九の、期限つきの柱を抱えた期間についても、遡って処理します」
遡って、という言葉に少し驚いた。
あの十二日は、保険の側から見れば、いちばん引き受けたくない期間のはずだった。
「ありがとうございます」
「礼を言われる筋合いではありません」
柏木さんは書類を揃え直した。
角を二度、机の上で叩いて揃える人だった。
「私が戻るのは、あなたが正しかったからではありません。書けるようになったからです」
「はい」
「正しさは、こちらの商売では買えないので」
そこは、初めて会った日と一字も変わっていなかった。
俺は、一つだけ訂正しておいた。
「書式は、俺が作ったものではないです」
柏木さんが、書類から目を上げた。
「欄が足りないと言ったのは秋津さんです。三つの欄の並びは、猪狩さんの生ログの見方から来ています。速さと濁りを分けたのは、瀬川さんの無線が先でした」
「……なるほど」
「俺は、書く場所を三つに減らしただけです」
柏木さんは、しばらく何も言わなかった。
書類の角を揃える手も止まっていた。
それから鞄を閉じながら言った。
「そういうことは、書式の余白には書けませんね」
「はい」
「残念です」
残念だ、という言い方をこの人がするのを初めて聞いた。
帰っていく背中は、来たときと同じ速さだった。
速さを変えない人が戻ってきたということが、たぶん一番の返事だった。
◇
――同じ日の夕方。第七ダンジョン管理棟、受付
閉場前の時間に、大柄な若い男が窓口に来た。
左の手首に、まだ湿布の跡があった。
見学の券を買いに来た人ではない。
それは立ち方で分かる。
「あの、すみません。……裏方の、設備の求人って、ありますか」
鶴見は掲示板の求人票を指してから、公社の採用ページを印刷して渡した。
用紙を折らずに渡せるように、封筒も一枚つけた。
若い男は両手で受け取って、二度頭を下げて帰っていった。
扉の前でもう一度振り返って、三度目の会釈をした。
名前は聞かなかった。
聞かれても困る顔をしていたからだ。
日誌に、日付と、見たことを書いた。
『閉場前、求人の問い合わせ一件。裏方希望』
名前の欄は、空けたままにしてある。
◇
水曜の夕方、保全室に封書が届いた。
公社の便箋ではない。
厚みのある、白い封筒だった。
差出人は国の役所で、面会の申し入れが一枚だけ入っていた。
封の糊づけが、定規を当てたようにまっすぐだった。
日付と、時間と、用件が三行。
文面には、検証のことも、聴診という言葉も出てこなかった。
その下に、担当者の名前があった。
この夏に二度会って、二度とも名乗られなかった人だ。
その名前を、俺は紙のほうから先に知った。
綾坂、と書いてあった。
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