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ダンジョン点検員、リストラされる。〜「何もしてない」と切られた俺の巡回ルートで、翌週から事故が止まらない〜  作者: 更田遅筋


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第36話 「聴診」と呼ばれ始める

月曜の朝、秋津さんが新聞を持って保全室に入ってきた。


「載ってます」


社会面の下のほうに、検証の記事があった。


写真は答案の写しで、目隠しの俺は隅に小さく写っているだけだった。


記事の中身は正確だった。


録音で止まった三問のことも、書いてあった。


「それと、もう一つあるんですけど」


秋津さんは、自分の湯呑みを置いてから得意そうに続けた。


「昨日の夜から、掲示板で新しい呼び方が回ってるらしいですよ。聴いて診るから、聴診。うまいこと言いますよね」


「診ては、いないんですが」


「そうなんですけど」


「音を聴いてるだけなんですが」


「そうなんですけど」


秋津さんは、二回とも同じ返事をしてから笑った。


「でも便利です。聴音点検って言うと、みんな三回聞き返すので」


たしかにそれはそうだ。


三回で済めばいいほうで、たいていは職業の話がそのまま別の話になった。


十年のあいだ、俺はこの仕事の名前を人に説明できたことがない。


親戚の集まりで職業を聞かれるたびに、三往復かかっていた。


二文字で済むなら、それはそれで楽になる。



――「聴診」という言葉が広がるまでの三日


月曜、夕方のニュースが「聴診」と読み上げた。


まだ、鉤括弧つきの借り物の言い方だった。


火曜、設備業界の専門誌がウェブの記事で使った。


鉤括弧が外れて、見出しの中に地の文として置かれていた。


水曜、公社の内部文書に載った。


決裁の回った文書なので、誰かが承認したということになる。


様式第一号の説明書きの冒頭に、「聴診(聴音点検)による所見の記録様式」と印刷されていた。


括弧の中に入ったのは、こちらのほうだ。



火曜の午後、広報の人が取材の相談に来た。


三社から申し込みがあって、どれも語の由来を聞きたいという内容らしかった。


検証の中身についての質問は、一社も入っていなかった。


「灰田さんとしては、この呼ばれ方はいかがですか」


正直に言えば、しっくりこない。


二文字の座りがよすぎる。


診るというのは直せる人の言い方で、俺は柱を直せない。


濁っているとしか言えないし、それをどう直すかは大久保さんたちの領分だった。


ただ、それを言ったところで、言葉は止まらない。


言葉が止まらないことだけは、この一月で覚えた。


「呼び方は、任せます」


そう言ってから、一つだけ付け足した。


「この言葉も、いつか誰かを線の外に連れて行くかもしれません」


広報の人がペンを止めた。


「聴けば分かる、と聞こえる言葉なので。……注釈ごと広めてください」


「注釈、といいますと」


「聴いても分からないことがある、というほうです」


広報の人は、それを一言一句そのまま書き取った。


書き終えてから読み返して、もう一度うなずいた。


自分の言葉が書き取られていくのを見るのは、いまだに慣れない。



水曜の午前、保全室のドアがノックされた。


ノックをする人は、この部屋では珍しい。


猪狩さんは開けてから名乗るし、火村にいたってはノックという概念がない。


「お久しぶりです」


柏木さんだった。


鞄も上着もネクタイの結び目も、初めて会った日と同じに見えた。


夏の終わりだというのに、上着を脱いでいる気配がなかった。


「第九の件で、伺いました」


「はい」


柏木さんは鞄から封筒を出して、中の書類を机に置いた。


「検証の答案が、公文書として通りましたので」


「通った、というのは」


「公社の決裁文書に、様式第一号の写しが証拠として綴じられました。所見の記録が、そのまま添付書類として成立しています」


紙を一枚めくる音。


「数字が書式で出ました」


そこで、初めて顔を上げた。


「——戻ります」


「早かったですね」


「書式ができるのが、です」


言い方はあの日と同じで、まったく崩れていなかった。


「引受を再開します。第九の、期限つきの柱を抱えた期間についても、遡って処理します」


遡って、という言葉に少し驚いた。


あの十二日は、保険の側から見れば、いちばん引き受けたくない期間のはずだった。


「ありがとうございます」


「礼を言われる筋合いではありません」


柏木さんは書類を揃え直した。


角を二度、机の上で叩いて揃える人だった。


「私が戻るのは、あなたが正しかったからではありません。書けるようになったからです」


「はい」


「正しさは、こちらの商売では買えないので」


そこは、初めて会った日と一字も変わっていなかった。


俺は、一つだけ訂正しておいた。


「書式は、俺が作ったものではないです」


柏木さんが、書類から目を上げた。


「欄が足りないと言ったのは秋津さんです。三つの欄の並びは、猪狩さんの生ログの見方から来ています。速さと濁りを分けたのは、瀬川さんの無線が先でした」


「……なるほど」


「俺は、書く場所を三つに減らしただけです」


柏木さんは、しばらく何も言わなかった。


書類の角を揃える手も止まっていた。


それから鞄を閉じながら言った。


「そういうことは、書式の余白には書けませんね」


「はい」


「残念です」


残念だ、という言い方をこの人がするのを初めて聞いた。


帰っていく背中は、来たときと同じ速さだった。


速さを変えない人が戻ってきたということが、たぶん一番の返事だった。



――同じ日の夕方。第七ダンジョン管理棟、受付


閉場前の時間に、大柄な若い男が窓口に来た。


左の手首に、まだ湿布の跡があった。


見学の券を買いに来た人ではない。


それは立ち方で分かる。


「あの、すみません。……裏方の、設備の求人って、ありますか」


鶴見は掲示板の求人票を指してから、公社の採用ページを印刷して渡した。


用紙を折らずに渡せるように、封筒も一枚つけた。


若い男は両手で受け取って、二度頭を下げて帰っていった。


扉の前でもう一度振り返って、三度目の会釈をした。


名前は聞かなかった。


聞かれても困る顔をしていたからだ。


日誌に、日付と、見たことを書いた。


『閉場前、求人の問い合わせ一件。裏方希望』


名前の欄は、空けたままにしてある。



水曜の夕方、保全室に封書が届いた。


公社の便箋ではない。


厚みのある、白い封筒だった。


差出人は国の役所で、面会の申し入れが一枚だけ入っていた。


封の糊づけが、定規を当てたようにまっすぐだった。


日付と、時間と、用件が三行。


文面には、検証のことも、聴診という言葉も出てこなかった。


その下に、担当者の名前があった。


この夏に二度会って、二度とも名乗られなかった人だ。


その名前を、俺は紙のほうから先に知った。


綾坂、と書いてあった。


最後まで読んでいただきありがとうございます。

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